潮騒の朝
夜明け前の海辺は不自然なほど静かだった。雨はとうに止んでいるはずだったが、湿った空気だけが残り、海辺には梅雨の名残のような重さが漂っていた。二人は、海岸沿いの防波堤に座っていた。街灯は遠く、光は弱く、波の音だけがはっきりと世界を形作っていた。七月の夜だった。そして今日は、颯斗がこの世を去った日だった。そのことを、二人とも口には出さない。
「なあ海俐」
颯斗が言う。声はいつも通り軽い。けれど、その軽さの奥にあるものを、私はもう見誤らない。
「ん」
「俺さ」
颯斗は少しだけ海を見る。
「ずっと言えなかったことあってさ」
私は何も言わない。言葉を待つ。待つしかない。颯斗の言葉を。
「お前のこと、好きだった」
その言葉は、あまりにも静かで穏やかだった。それは想いを伝える言葉というより、長い年月をかけて辿り着いた答えのようだった。颯斗は続ける。
「ずっと前から」
「気付いたらそうだった」
喉が詰まる。呼吸が浅くなる。息をしないでいたいと思った。
「でもさ」
少しだけ笑う。
「それが何なのか、よく分かんなかったんだよな」
「友達ってやつなのか」
「それとも違うのか」
「よく分かんないままここまで来た」
波の音が近くなる。遠くなる。時間の感覚が曖昧になる。
颯斗が立ち上がり、海へ向かう。それを止めるように私は颯斗を追う。
「海俐、最後にさ」
そう言って、少しだけ間を置く。
風が吹く。海の匂いが強くなる。
「来てくれて、ありがとな」
私は返事ができない。その言葉が、別れの言葉に聞こえたからだ。いつかは聞くことのできなかった言葉。颯斗は私の方へ一歩近づく。そして、迷いなく腕を取った。そのまま、引き寄せる。逃げ道はない。もう逃げない。唇が触れる。今度は、誰も急がなかった。確かめるように。忘れないように。終わりを刻むように。一瞬にも思えるほど短かったのに、その温度だけは消えそうになかった。自然に手が颯斗の背に回る。抱き締める力は強い。離したくないという衝動だけがそこにある。
離れたあと、颯斗は空を見上げる。東の空が、わずかに白み始めていた。夜が終わろうとしている。
「そろそろだな」
颯斗が言う。私はその言葉の意味を、もう聞き返さない。
颯斗の輪郭が、朝の光に溶けるように少しずつ曖昧になっていく。最初は見間違いかと思うほど僅かな変化だった。それでも、確かにそこにいたはずの存在は、少しずつ朝の景色へ溶け込んでいった。
「おい」
颯斗を呼ぶ。振り返る。まだ笑っている。いつも通りの顔で。
「またな」
私は言う。それが精一杯だった。颯斗は一瞬だけ目を見開いて、それから困ったように笑った。
その声が最後だった。颯斗の姿は、朝の光の中に溶けていく。夜明けとともに消える街灯の光ように。最初からそこに誰も立っていなかったように。波の音だけが残る。
私はしばらく動けなかった。海は静かだった。海は空とともに白くなっていく。夜が終わり、朝が来る。梅雨が終わり、夏が来る。その境目に、ただ一人立っていた。やがて、口を開く。もう誰もいない海へ向かって。もう届かない場所へ。
「……俺も」
声は震えていた。
「俺も好きだった」
間を置く。
「お前と生きていたかった」
それに応えるように波が砕ける。朝日が昇る。海は光を反射して、これまで生きていて見たこともないほどの光を放っている。私はそれを見つめたまま、もう一度だけ呟いた。
「お前と生きていたかった」
今度は少しだけ、はっきりと。返事はない。けれど、私を包む潮騒だけが確かにそこにあった。
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