帰郷
初投稿、初書きです
誤字脱字、矛盾、欠落など様々な不備があるかもしれませんが、
優しい目で見ていただけるとありがたいです
駅舎を出た瞬間、湿った風に乗って運ばれてきた雨の匂いが、私の鼻先をかすめる。その匂いに誘われるように、私は足を止め、反射的に空を見上げた。鉛色の厚い雲が空一面を覆い尽くし、わずかな青空さえ見つけられない。梅雨明け前特有の重たい空気が町を包み込み、湿った風がゆっくりと頬を撫でながら通り過ぎてゆく。十年近く離れていた故郷の景色は、記憶の中に残るそれよりも幾分こぢんまりとして見えた。駅前の小さなロータリー。ペンキの剥げた古びたタクシー乗り場。学生時代と変わらず営業を続けている喫茶店。放課後になると学生や買い物客で賑わっていた商店街も、今では数人の通行人が行き交うだけになっていた。変わったものもあれば、変わらないものもある。そのどちらもが妙に懐かしくて、私は小さく息を吐いた。今回の帰省は珍しく長かった。勤め先でまとまった休暇が取れたのだ。同僚には「せっかくだし海外でも行けばいいのに」と言われたが、そんな気分にはなれなかった。ふと帰りたくなった。ただそれだけだった。理由なんてないと思っていた。少なくとも、この町へ戻ってくるまでは。実家へ荷物を置いた後、家を出た。母親には呆れたような哀しみを帯びたような顔をしていた。
「また海?」
まるで高校生の頃と同じような言い方だった。
「散歩だよ」
「そう」
母親はそれ以上何も言わなかった。この町で育った人間にとって、海は特別な場所でありながら、同時にあまりにも当たり前の存在で、海へ向かうことに、いちいち理由を探す人間はいない。疲れた時も。暇な時も。考え事をしたい時も。気付けば足が向いている。私にとってもそうだった。だから自然と海岸沿いの国道へ向かった。空はさらに暗くなっていたが、波は穏やかだった。防波堤に砕ける音だけが規則正しく響いている。街灯がポツポツと明かりを灯し始め、夜の湿った風が吹き始めた。懐かしかった。だが、その懐かしさは心地よさだけを運んでくるわけではないようだった。胸が軽く締め付けられるような感覚が呼び起こされた。この景色には思い出が多すぎる。小学校の頃。中学校の頃。高校の頃。どこを見ても記憶がある。海へ石を投げたこと。防波堤から釣り糸を垂らしたこと。コンビニで買ったアイスを半分ずつ食べたこと。名前を呼ぶ声。笑い声。隣を歩く足音。もう8年も経つ。忘れたと思い込んでいた。だが本当は違う。ただ思い出さないようにしていただけだったのだ。そんなことを考えているうちに、ぽつりと雨粒が落ちてきた。一滴。二滴。やがて細かな雨が降り始める。海に面する国道沿いにあるコンビニに慌てて駆け込み、ビニール傘を買った。余計な出費だったか、家に帰ればよかったかと少し考えながら、海を見た、その時だった。向かいの防波堤の街灯にもたれながら座る誰かがいた。傘もささず、雨に濡れて街灯の光に照らされる若い男だった。高校の制服を着ている。この時間に一人でいるのは珍しくない。本来なら気にも留めなかったはずだった。けれど、なぜか目が離せなかった。傘をさしていないという違和感という理由だけではないと胸の奥がざわつく。心臓が不自然なほど強く脈打ち始める。男の方に引き寄せられ、距離が少しずつ縮まる。雨が強まる。男がこちら側に振り返る。昔と何一つ変わらない笑顔で。
「海俐」
自分の名前を呼ばれた瞬間、私の足は地面に縫い付けられたように止まった。時間の流れが感じられなくなる。耳鳴りがする。雨音が遠のく。男は不思議そうに首を傾げた。
「なんだよ、その顔」
聞き慣れた声だった。何度も夢で聞いた声だった。忘れられるはずがなかった。喉が震える。
「……颯斗」
名前を呼ぶ。男――颯斗は、少しだけ目を細めた。
「久しぶり」
その言葉はあまりにも自然だった。昨日の続きみたいだった。数日前に別れた友人と再会したみたいな顔だった。十年近い空白なんて存在しないみたいに。何も言えなかった。言葉が出てこない。目の前にいる。確かにいる。けれど、そんなはずはなかった。颯斗は昔と変わらない。高校二年の頃と同じだった。少し長めの黒髪。日に焼けた肌。細身で筋肉がついている身体。笑うと少し下がる目尻。記憶の中の颯斗と、目の前にいる颯斗の間に何一つ違いはなかった。八年という歳月を重ねた自分だけが、そこに取り残された違和感を抱えていた。私は二十五歳になった。けれど、目の前の颯斗は十七歳のままだった。時間から取り残されたように。颯斗はそんな私を見つめたあと、ふっと笑った。
「相変わらずだな」
「……何が」
「考え込むと黙るとこ」
その言葉に颯斗は思わず顔をしかめた。昔からそうだった。颯斗は妙に人を見る。何でもない顔をしているくせに、私自身も気付いていないことを見抜いてくる。それが少しだけ腹立たしかった。そして少しだけ嬉しかった。
「お前も変わってないな」
そう言うと、颯斗は一瞬だけ視線を逸らした。本当に一瞬だけ。雨に紛れるほど短い沈黙。気付いてしまった。その表情が妙に寂しそうだったことに。
「そうかもな」
颯斗は肩を揺らした。どこか遠くを見るような目をしていた。何も聞かなかった。聞けなかった。代わりに隣へ並ぶ。颯斗も自然に歩き出した。それが当たり前みたいに。小学校の帰り道みたいに。中学の放課後みたいに。高校の夏みたいに。二人は並んで海岸沿いを歩き始めた。潮の匂いが強くなる。雨は少しずつ強くなっている。けれど不思議と寒くなかった。隣にいる存在があまりにも懐かしくて。失ったはずの時間が、少しだけ戻ってきたような気がしたから。
「なあ」
歩きながら颯斗が言った。
「ん?」
「帰省?」
「うん」
「どれくらい?」
「一か月くらい」
「マジで?」
「マジ」
「そんな休めるんだ」
「滅多にないけどね」
「へえ」
颯斗は嬉しそうだった。その横顔を見ていると、なぜだか胸が痛くなる。理由は分からない。分かろうとしなかった。雨はまだ降り続いていた。雨音と波の音に混じり、遠くで船の汽笛が鳴った。
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