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  作者: 遠慮
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第三部 浸食

 名前を呼ばれて目が覚めた。ベッドから這い出て立ち上がる。喉が渇き、腰が軋んだ。大きく背伸びをして、「あいよー」と返事を返す。リビングを通って和室に入り、介護ベッドの上で寝ている大きな箱を持ち上げた。ずっしりと重い。

 廊下に出ると、箱が「うう」と言った。


「大丈夫。ゆっくりでいいよ」


 両手に力を込めて箱を抱きしめる。一歩一歩ゆっくりトイレへ向かった。

 また箱が鳴った。今度は少し違った。声というより、擦れる音だった。紙と紙が触れ合うような、乾いた音。

 足を止めて箱を持ち直す。中のものがずるりと動く。片側に寄ってまた戻った。

 羽音がした。

 壁の向こうから聞こえるような、遠い羽音だった。それが箱の中からだと気づくまで、少し時間がかかった。うめき声にも聞こえた。名前を呼ばれているようにも聞こえた。

 箱の蓋が内側から押された。

 一度。二度。

 三度目に、開いた。


 叫び声が自分の口から出ていることに気がついたのは、虫を払いのけようと、顔を掻きむしった後だった。ベッドから跳ね起きて、周りを見渡す。見慣れてきた一人暮らしの部屋だった。カーテンの隙間から、もうすぐ沈む太陽の、オレンジ色の光が差し込んでいる。

 ずきずきと痛む頭を振りながら、洗面所で顔を洗い、そのまま水を飲む。鏡に映る顔には自分で引搔いた傷がついていた。まだシフトの時間までには間があるが、到底、二度寝しようなどとは思えなかった。急激に失われつつある悪夢の記憶は、その嫌悪感だけを残していた。


 その日のシフト中に、本田さんに集会へ参加することを伝えると、「そうか」と一言だけで会話は終わった。僕は佐伯さんのことを話そうか迷ったが、結局何も言わなかった。終業後、「この後、ちょっと付き合え」と言われ、断る理由もなく、そのまま店を出て、気づけば四号棟の前にいた。


「ここに落ちた」


 本田さんはそう言うと、植え込みの縁に足を乗せて、四号棟の外壁を見上げた。水分を含んだどんよりとした空が続く。どの階から落ちたのか、見当がつかなかった。


「落下痕が二つあったらしい」

「二つ?」

「ああ。死んだのは一人なのにな」


 僕は植え込みの地面に目を落とした。

 黒い土が露になっていて、無数の足跡で踏み固められていた。


「二人落ちたってことですか?」

「いや。落ちたのは一人だったらしい。現場を見た四号棟の住人に色々と訊いた。ただ、不審な点がいくつもある」


 本田さんは足元の土を靴で払いながら続ける。


「変なことを訊くが、真山、お前は幽霊を信じるか?」

「え、幽霊ですか。ホラー映画は好きですけど、実際にはあんまり。そういう体験をしたこともないですし……」

「この団地で人が死ぬとな、変な噂が流れることがある。この四号棟にもそれがあるんだ。夜中、外から何かを引きずる音がするとか、誰も乗っていないのに勝手にエレベーターが動いているとか、その中が不自然に水浸しになっていたとか」

「こ、怖いですね。本田さんはそういうの信じているんですか」


 本田さんはそこで初めて僕の方を見た。


「まさか。そんなわけないだろ。いいか、こんなの不思議でもなんでもないだろ。音が聞こえたなら、そこに誰かいたんだよ。濡れたら、誰かが濡らしたんだよ。どこかで体に着いた土を洗い流した後かもな」


 本田さんの言いたいことが分かった。


「不審者がいて、何かをしているということですか」

「その可能性もあるだろ。証拠を隠滅したのかもしれない。集会の奴らは噂を利用して、霊魂のメッセージだとか、先祖の祟りだとか言っている。馬鹿は信じるし、犯人は見逃される。よくできているよ」


 本田さんの言っていることが全て正しいとは思えなかった。そういう見方もできるのは確かかもしれない。落下痕が二つあったとして、それが他殺の証拠になるかどうか、僕には判断できない。ただ、本田さんの顔には、何かを信じ切っている人間の硬さがあった。万が一、集会が裏で何かをしているのだとしたら、佐伯さんは加担しているのか、それとも騙されているのか。とにかくまだ何も分からない。曇った空から雨が降りだして、僕らは四号棟を後にした。


  ◇


 集会は週末、十八号棟の一階、加藤自治会長の自宅で行われると、佐伯さんから連絡がきた。この前の通話で勢いに任せて「一緒に行きましょう」と言ってしまったが、誘われた手前、僕は本田さんと行くことになった。佐伯さんから集会の名前は「待つ会」だと教えてもらった。

 加藤家はリフォームされており、ダイニングと六畳の和室を合わせて一室にしていた。中央に大木をそのまま切り出してきたような、いびつな形をした大きなテーブルがあり、その周りに座布団が敷かれていた。僕らが訪れた時には、八人が座って談笑していた。紫色の和服姿の加藤さんに迎えられて、座布団に座る。線香の匂いがした。佐伯さんは僕にアイコンタクトをして微笑んだ。本田さんはいつも固めている短髪を下ろしていて、普段より弱々しく見えた。

 僕らが最後の参加者だったらしく、加藤さんは「揃いましたので、始めましょうか」と切り出した。参加者はそれを聞くと立ち上がり、夕方の日差しが差し込む窓のカーテンを閉めた。部屋の隅にあった、お雛様のぼんぼりのような照明が点灯されると、部屋は怪しげな雰囲気になった。加藤さんは背後の押し入れの扉を開けた。仕切が取り外されていて、天井まである大型の仏壇が現れた。加藤さんが蝋燭に火を点けるとぼうっと仏壇の中が浮かび上がる。そこには、無数の位牌がぎっしりと並べられていた。いや、正確には位牌かどうかは分からないが、黒く光る直方体だった。

 加藤さんはこちらに向きなおると、テーブルの上にあった香炉にお香を立て、マッチで点火する。ふわりと甘い匂いが広がった。


「さて、みなさん。今夜は『待つ会』に新しい参加者がおられます。十九号棟の真山さんです。よろしくお願いしますね」


 加藤さんの言葉に、参加者が「ようこそ」と復唱し拍手をした。


「真山さんは越してきたばかりですが、田村さんのお別れ会にも参加してくれましたし、自治会にも所属しておられます。みなさん是非、仲良くしてあげてくださいね。真山さん一言どうぞ」


 突然、話を振られて泡を食う。


「ま、真山です。あ、あのう、よろしくお願いします……」


「よろしくね」口々にお返しを受けたが、その中の佐伯さんの声に少し安心する。


「では今日も、大切な方のお話を聞かせてください。今回は佐伯祥子(しょうこ)さんからでしたね。まだ日も浅い参加者さんもいらっしゃるのでもう一度初めから辿りましょうか」


 佐伯さんは小さく頷いた。


「はい……。娘です。四年前に旅立ちました。階数は六でした」


 他の参加者が静かに俯く。薄暗いが、その表情は笑っているように見えた。

 加藤さんは仏壇に並んだ黒い立方体の一つを持ち上げて、テーブルに置いた。そこには「六〇二」と彫られていた。それを見て、佐伯さんの言った「カイスウ」が団地の階数だということに気がついた。


「ベランダから落ちました。私が目を離した隙に」


 佐伯さんの声は少しだけ震えていた。大きく息を吸う。


「優しい子でした。まだ四歳だったのに、私が疲れていることにいつも気がついてくれて。『ママ、お昼寝したら?』なんてブランケットを持ってきてくれたりして。だから、私、少しだけ……」

「大丈夫。大丈夫よ。この団地で本当に良かったですね。四年間よく頑張っていますよ。もうすぐですよ」


 佐伯さんの背中をさすりながら加藤さんが優しく言う。お香の匂いで頭がクラクラする。隣の本田さんは硬い表情のまま動かない。


「もう四号棟では『(しるし)』が現れ始めています。私にはひしひしと感じますよ。祥子さんの祈りが通じています。合図を待ちましょう。皆さん、祥子さんの娘さんに祈りましょう」


 参加者が一斉に手を合わせて目を閉じた。僕も慌てて真似るが、よく見ると、手のひらを合わせるのではなく、親指と人差し指と中指の三本指を伸ばした形で手を合わせていた。そういう作法なのだろうか。


「では次は、真山さん、話してみますか?」

「え、僕ですか。あの、何を話せば」

「今、祥子さんが話してくれたように、真山さんも大切な人の死を経験されているはずです。そのままお話いただければいいんですよ」

「はい……分かりました……」


 喉が言葉を発するのを拒んだ。数日前に見たあの悪夢を思い出していた。母の体の重さ、僕を呼ぶ声、匂い、死。無意識に逃げていた。体の中に空いた穴に落ちそうになる。

 参加者は黙って待っていた。ちらりと佐伯さんを見る。蝋燭の火に照らされた瞳が湿った光を返している。


「……母です。病気でした」


 それだけ言うのに何キロも走ったような疲れを感じた。


「そうでしたか。よく言ってくれました。みなさん、真山さんのお母様に祈りを捧げましょう」


 佐伯さんが隣まで来て、「大変だったね。もう大丈夫よ」と、背中をさすってくれた。その手は温かかった。


「真山さん。お母様は何階で亡くなられたの?」


 加藤さんに訊かれて意味が分からなかった。


「何階……といいますと?」

「ああ、ごめんなさいね。この団地じゃなかったわね」

「はい。前に住んでいた家です。母が亡くなって住めなくなってここに来ました」

「そうだったのね。ここに来たのには意味があります。ここなら、お母様のお声が聞こえるかもしれませんよ」


 ここで一人の男性が手を挙げた。白髪に分厚い眼鏡をかけた真面目そうな印象の老人だ。


「先生。先日、七階に移りました」


 参加者がざわめいた。「おめでとうございます」と拍手が起こる。男性は照れたように笑うと頭を下げた。僕は意味が分からず、本田さんを見る。奥歯を食いしばっているのが頬の筋肉の形で分かった。ぽかんとしていると、加藤さんが、


「数字には意味があります」と、僕に言った。


 その後、数名の参加者が亡くした人の話をして、全員で祈った。その繰り返しだったが、印象的だったのは必ず亡くなった部屋の階数を言うことだった。


 一時間ほどで会は終わり、僕と本田さんは加藤家を出た。一人暮らしだと色々と入用だろうと、加藤さんから紙袋いっぱいのお菓子や野菜などのお土産まで貰った。十八号棟を出ると終始寡黙だった本田さんが口を開いた。


「どう思った?」

「そう……ですね。なんというか、あまり普通じゃない感じではありましたけど……」

「加藤が言っていた『四号棟の徴』の話は、例の怪現象の噂のことだ。それを利用している」

「足音とか水の跡の話ですか」

「そうだ。あと、会の人間は『階数』に拘っていたろ。階数が高いほど徴が出るのが早いとか、声が届きやすいとか」

「そうでしたね。でも皆さんとても優しくて、本当にちょっと楽になったっていうか、セラピーですか、意外と悪くないっていうか……」

「騙されるなよ!」


 本田さんは語気を強めた。驚いて身体が硬直する。


「……いや、すまん。……あのお香の匂いだ、あれがいけないんだ。それに部屋番号が書かれた位牌も見ただろう。あんなものまで作って、異常だよ……」


 本田さんが「待つ会」を疑うのはなぜだろうか。あの位牌の中に本田さんの部屋番号もあるのかもしれない。いや、おそらくあるだろう。


「俺はこれからシフトだから行くわ。今回は初参加ってことで雰囲気が分かってくれたらそれでいい。もし何か不審な点に気がついたら連絡くれ」


 そう言って、本田さんは三号棟の方へ去っていった。

 僕は佐伯さんの手のぬくもりを思い出していた。


  ◇


 待つ会に参加してから特に変わったこともなく、僕は普段通りの日常を過ごしていた。四号棟の飛び降り以降、誰かの死が続くこともなかった。佐伯さんとはLINEでのやり取りが続いていて、次の休日に映画に行く約束をしていた。会は不定期開催で、まだ次の連絡が来ていなかったが、僕はたぶん、また行きたいと思っていた。


 そんなある日だった。

 シフトを終え部屋に帰ると、ダイニングのテーブルの上に一枚の紙が置いてあることに気がついた。そこには数字が一つだけ太く黒いペン字で書かれていた。


「四〇四」


 それだけだった。裏にも何もない。大学ノートを乱暴に破ったものだった。

 しばらく、その紙を持ったまま立っていたが、恐怖は少し遅れてやってきた。


 誰かが部屋に入った……。


 瞬間的に周りを見渡す。トイレ、押し入れ、ベッドの下。誰かが潜んでいそうな場所をなるべく音を立てずに調べたが、何もなかった。


 鍵はかかっていたはずだ。しかし、ベランダのガラス戸の鍵は閉めていなかった。不可能ではない。

 もう一度、紙を調べる。数字だけが神妙に白い紙の上に鎮座していた。僕の部屋番号だ。

 胸騒ぎを覚えて、その場で本田さんに電話を掛けた。本田さんはすぐに出た。


「どうかしたか」

「ほ、本田さん、誰かが部屋に入ったかもしれません」

「なんだと。何かあったか?」

「紙が一枚。この部屋の番号が書いてあります」


 スマホの向こうで、本田さんの鼻息が荒くなった。


「……警告だ。バレたんだ」

「警告って……どういうことですか」

「『待つ会』の奴らだよ。でも、これではっきりしたな。やっぱり誰かが裏で何かをしているんだ。真山、確実な証拠を掴むまでは通報するな。普通にしているんだ。集会にも参加して尻尾を掴むぞ」


 通話が切れた。

 警告だと……。確かに、あの日、加藤さんの部屋で見た黒い位牌には部屋番号が書かれていた。そして今、目の前にあるノートの切れ端にも部屋番号が書いてある。それは僕の部屋の番号だ。通報した方がいいかもしれない……だが、もし佐伯さんが関与していたとしたら……。僕はとりあえず家中の鍵を閉めた。


   ◇


 週末の夕方、僕は駅前のベンチに座っていた。空は真っ赤で、遠くに見えるビル群の輪郭は墨で塗りつぶされたように黒い。バス停に並ぶ人々の表情は笑顔が多い気がする。明日が日曜日だからだろうか。ひどく懐かしいような、非現実のような、不思議な感覚がしていた。


「お待たせ」


 振り返ると佐伯さんが立っていた。いつもの白いカーディガンではなく、紺色の春コートを羽織っていた。少し息が上がっている。


「全然待ってないですよ」


 嘘だった。三十分は待っていた。待ち合わせ時間より早く来てしまったからだけど。

 最後に映画館に来たのはたぶん大学生の頃だ。隣に佐伯さんがいることに加え、最近トイレが近くなってきて二時間の上映に耐えられるか不安で、内容はほとんど頭に入らなかった。


 エンドロールが終わって席を立つと、佐伯さんは少し目が赤かった。泣いていたのかもしれない。

「お腹すきましたね」と佐伯さんが言って、駅前の居酒屋に入った。土曜日の夜で混んでいたが、奥の二人席に通してもらった。ビールが届いて、乾杯をした。なんだか日常という演劇の中に入ったみたいで気恥ずかしかった。


「ラストよかったよね」


 上唇に泡を付けたまま佐伯さんが言った。


「でも、主人公、死んじゃいましたよ」

「私はハッピーエンドだと思うよ」

「そう……かもしれないですね……」

「ねぇ、その敬語……やめたらいいのに」


 佐伯さんの頬はさっきよりも紅く見えた。


「え、いやその、あんまり慣れてなくて……」

「まあいいけどね」


 たぶん、僕の耳も赤くなっていた。


「この前の待つ会でさ、娘の話をしたでしょ。名前ね、智子(ともこ)っていうの」


 甘いお香の匂いが蘇った。数字の書かれた位牌を前に目を潤ませる佐伯さんの姿も。


「加藤さんが『もうすぐ』って言ってくれたでしょ。最近ね、やっと聴こえるようになったの」

「聞こえる? 何が聞こえるんですか」

「智子の声よ」


 お酒も入っているし、何か比喩的な文脈だと思った。だから、具体的に娘さんが何を言っているかを訊くのが怖かった。黙っていると、


「私ね、七階に引っ越そうと思うの。まだ空きは出てないんだけどね、智子が『もうすぐ』だって言うのよ」

「あ、あの、どうして七階なんですか」

「だって最上階じゃない。数字には意味があるのよ。そのうち分かるわ」

「待つ会なんですけど、もしかしたら、ちょっと危ないかもしれないんです」

「危ないってどういうことよ。私はあの会のおかげでね……」


 最後まで言わずに佐伯さんはビールをあおった。

 僕の部屋に置かれたノートの切れ端のことを言おうか迷ったが、言えなかった。真偽はどうあれ、佐伯さんは待つ会に救われている。それは自分も体験として理解できた。だが、この違和感は何だろう。あの日の加藤さんの「もうすぐですよ」という言葉。同じ言葉を言う、亡くしてしまった娘さんの声。佐伯さんを七階に引っ越させてはいけない。そう思った。


「いや、とにかく、引っ越しは面倒ですよ。すでに佐伯さんは六階ですし、七階はエレベーターが止まりますけど、一階分でも階段を使っていた方が健康にもいいし……」

「それは些末なことよ。六階じゃだめなの、真山さん」


 佐伯さんはにこりと笑った。

 紅く色づいた頬と据わった目。これは酔っている。


 足元がふらつく佐伯さんを支えながら十八号棟まで帰ってきた。エレベーターの前で「ありがとう、楽しかった。またね」と佐伯さんは笑った。


 佐伯さんを止められなかった、という感覚より、そもそも何を止めようとしていたのかが分からなくなっていた。

 振り返り、僕の部屋のある十九号棟を見上げる。明かりのついている窓は少なかった。


   ◇


 待つ会が開かれると、佐伯さんから連絡が来たのはそれから数日後のことだった。シフト中に本田さんに伝えると、既に知っていて、「当日の会が始まる前に、加藤と直接話す。お前も一緒に来てくれ」と言われた。あの警告の紙を突きつけて、加藤さんを問い詰めると言うのだ。あれから危険な目には遭っていなかったし、逆に言えば、確固たる証拠も見つかってはいなかった。とにかく探りを入れて様子を見ると本田さんは言った。


 当日、集会の三十分ほど前に加藤家に着くと、加藤さんは「あら、早いわね。どうぞ」と、僕らを迎え入れた。集会の準備が整った部屋は、まだ参加者がいないせいか、いつもより広く見えた。中央のテーブルに、香炉だけが置かれている。火はまだ点いていない。

 本田さんは座布団に座らず、立ったまま口を開いた。


「単刀直入に訊きます。この会の人間が、四号棟の死に関わっているんじゃないですか」


 加藤さんはエプロンを外しながら、本田さんの顔をしばらく見ていた。驚いた様子はなかった。


「関係ないとは言えないはずです。亡くなった方の部屋番号が全部あの仏壇に入っている。あれはいつ作ったんですか。死ぬ前からあったんじゃないですか」

「本田さん、落ち着いてくださいね」

「落ち着いてられないんですよ。もう何人、死んでいるんですか」


 加藤さんは静かにエプロンを畳んで、テーブルの端に置いた。それから、本田さんではなく、僕の方を一度見た。


「本田さんね」


 加藤さんの声色は穏やかだった。


「妹さんのことが、まだ整理できていないんですね」


 本田さんの肩がわずかに動き、加藤さんを睨みつけた。


「関係ないでしょう」

「そうですか。まあ座ってください。真山さんも」


 加藤さんは、仏壇の方へ向かった。蝋燭に火を点ける。


「あなたが怒るのは当然のことです。誰かのせいにしたい。それも当然のことです」

「話をすり替えないでください」

「すり替えてなんていませんよ」


 加藤さんは振り返らずに言った。蝋燭の火がまっすぐに立っている。


「本田さんが怒っているのは、私への怒りじゃない。あなたはご自分でも分かっている」

「この紙が真山の部屋に置かれていました。これは会の人間がやったことですよね。少なくとも不法侵入ですよ」


 本田さんは「四〇四」と書かれたノートの切れ端を掲げる。加藤さんは一瞥すると、


「知りませんよ。そんなもの何の意味もないです」

「しらを切っても、あとで分かる」


 本田さんは短く言って、座布団に腰を下ろした。

 加藤さんはため息をついた。香炉の蓋を開けて、火を点ける。甘ったるい煙が広がる。


「とても疲れるので、最近はあまりやらないんですがね、今日、聴きましょうか……」


 加藤さんは正座をした自分の膝を二度、叩いた。背筋をぴんと伸ばして、一度、咳払いをすると、本田さんを正面から真っすぐに見つめる。


「妹さんの声を」


 本田さんは眉間にしわを寄せて、加藤さんを睨みつけている。僕は何も言えずにただ二人を見比べていた。間もなくインターホンが鳴り、今夜の待つ会の参加者が集合し始めた。佐伯さんの顔を見つけて僕は心底ほっとした。

 今回も八人ほどが座布団を埋めて、カーテンが閉められる。間接照明が点灯して、薄暗く甘い匂いが充満する空間が生まれた。


「さて、みなさん。今日は久しぶりに、『渡り』をしようと思います」


 加藤さんは参加者の顔を一人ずつ見渡してから、本田さんのところで視線を止めた。


「本田さんが、長いこと抱えてきたものがあります。今夜はまず、その話を聞かせてもらいましょう」

 

 本田さんは口を引き結んだまま、何も言わなかった。


「嫌ですか」

「……別に」


 加藤さんはゆっくりと頷いた。それから参加者の方を向いて、静かに手を合わせた。親指、人差し指、中指。三本だけを立てて手を合わせる。参加者が一斉に同じ形を作った。佐伯さんも。

 部屋が静まり返った。

 加藤さんは目を閉じた。ゆっくりと息を吸って、長く吐く。それを三度繰り返す。一瞬の静寂の後、今度は徐々に呼吸のスピードを上げていく、まるで蒸気機関のように短く激しく呼吸を繰り返す。それが数分続いた。聞いている僕の方が苦しくなる。

 それが終わると、加藤さんは低い声で、お経のようなものを呟きだした。他の参加者も同様に呟く。お香の匂いと呪文の合唱で意識が飛びそうになった。やがて、静かに声が止まる。


「……聴こえました」

 

 加藤さんの言葉に、本田さんが震えたのが分かった。


「妹さんは、ただ好かれたかったんです」


 加藤さんは目を閉じ、険しい表情のままで続ける。


「大好きな人のために……その人の好みに合わせて……」


 本田さんが小さく「あぁ」と言った。


「真っ赤な服」


 本田さんは素早く立ち上がった。青ざめた顔で、目だけが見開かれていた。そのまま何も言わずに、手に持ったノートの切れ端を握りつぶすと、部屋から出て行ってしまった。


 ドアが閉まると、部屋に静寂が戻る。加藤さんがゆっくりと口を開いた。


「本田さんは、妹さんを亡くされています。それは皆さんご存じですね。ただ、いまだに、ご自分を責めていらっしゃる。待つことは許すことから始まります。本来はご自分の心で声を聴かなければなりませんが、まだ暗い迷いの中にいらっしゃるので、少しだけお手伝いをさしあげました。皆さん、本田さんの妹さんに祈りを捧げましょう」


 僕は本田さんを追いかけようかと迷ってやめた。祈りが終わると、さながら降霊術のような、加藤さんの「渡り」について、熱の入った感想戦が始まった。「来週に今日できなかったお話をしましょう」と、加藤さんが言って、会は終わった。佐伯さんは終始、まるで奇跡を体験したかのように潤んだ瞳で加藤さんを見ていた。


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