最終部 徴
本田さんが無断欠勤をしたのは、集会から三日後のことだった。店長から今から出られないかと連絡が来て、代わりに入った。僕からも本田さんに連絡をしてみたが、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。次のシフトもその次も、本田さんは来なかった。僕はその都度電話をかけたが、一度も繋がらなかった。
代わりにシフトに入っていた店長が疲れ果てた表情で、「緊急連絡先がないから、次のシフトに来なかったら、自宅に訪問する。もしよかったら一緒に来てよ」と言った。僕は了承して部屋へ帰った。
その日の深夜のことだった。
スマホが光り、画面に『本田さん』の文字が浮かぶ。折り返しがきたのだ。画面をスライドして耳に当てる。
「……真山か」と、本田さんの声。背後で風の音がする。
「本田さん。どうしたんですか。シフト休んで。店長倒れますよ」
「俺さあ……聴こえちゃったよ」
「え? 何がですか」
「最初はさ、足音だったんだ。夜中にさ。思い出したよ、あいつの足音だ」
ザーとノイズが入る。
「妹だよ。お前には言ってなかったな。もう二十年以上前にさ、ここから飛んだんだ。でも、さっきいたんだよ……ベランダに」
「本田さん? 大丈夫ですか」
「あいつさ、変な男に夢中になっていた。急に派手な格好になってさ、あの日も、普段は着ないような真っ赤なワンピース着てさあ……」
しばらく間があった。本田さんが鼻をすする音が、風の音に混じって聞こえる。
「七月だった。もうすぐ命日だ。真山、紫陽花ってもう枯れるよな」
「え……はい、そうですね」
「おかしいんだよ。ここから見える紫陽花さ、真っ赤なんだよ」
本田さんの後ろで、救急車のサイレンの音が聞こえた。僕の部屋の窓の外からも聞こえる。
「本田さん。今どこですか。ご自宅ですか」
「ああ。そうだよ。真山、俺が三号棟の何階に住んでいるか知らないだろ。ずっと言いたくなかったんだよ」
「本田さん。自宅なんですね。今から行きます。待っていてください」
「ここさあ、七階なんだよ」
通話が切れた。すぐさまリダイアルボタンを押し、コールを聞きながら、玄関へ向かった。サンダルをつっかけて外へ飛び出す。三号棟までは走れば十分以内に着ける。
細かい雨が降っていた。足がもつれて転びそうになる。四十を過ぎてから本気で走ったことなんてなかった。すぐに息が上がって立ち止まりながらも、三号棟にたどり着いた。階段側から裏に回って中庭側に出る。街灯の少ない薄暗い植え込みのそばに黒い人影が倒れていた。本田さんだった。声を掛けるが反応がない。僕は近づくことができずに、震える指で救急車を呼んだ。
サイレンを鳴らして救急車とパトカーがほぼ同時に到着した。救急隊員が本田さんに駆け寄り、処置を始める。若い警官が僕のところへ来て、名前と発見時の状況を訊かれた。電話があったこと、駆けつけたことをなんとか答えた。その間に、本田さんは担架に乗せられて救急車に運ばれていく。赤黒く染まったTシャツが見えた。扉が閉まり、サイレンが遠ざかった。回転する赤色灯が舐めるように団地を照らしていた。その光景ばかりが記憶に残った。
その後のことはあまり覚えていない。警察の事情聴取を終え、気がつくと、自分の部屋に戻っていた。靴を脱がずにそのまま床に座り込む。耳の奥でまだサイレンが鳴っている。さっきの通話履歴が画面に残っているのを見て、もう一度発信ボタンを押しかけるが、やめる。頭を抱えて目を閉じると、瞼の裏に本田さんの姿が浮かんだ。顔面を植え込みの土の中に埋めて、微動だにしていなかった。おそらく助からないだろう。
朝が来たが、濡れた服が泥のように体に張りついて、玄関から動けずにいた。
スマホを手に取る。画面を指でなぞって、佐伯さんの番号で止め、発信した。
呼び出し音が三回鳴って止まる。
「……はい」
声が低い。寝起きだと思った。
「真山です」
「どうしたんですか」
「本田さんが……昨夜、電話があって。自宅、七階から……落ちました」
向こうで息を吸う音がした。
「……そうですか」
「僕、すぐに駆けつけて救急車を呼んで、本田さん運ばれたんですけど、全く動いてなくて、たぶん、血も出ていて……」
「真山さん。うちに来てください。十八号棟の六階に」
少し間があって、
「一人でいると、よくないから」
わかりました、と答えて通話を切る。
軋む身体を引きずって、同じ服のまま外に出た。空は灰色で、まだ雨は降り続いていた。十八号棟の前で足を止める。見上げた六階の窓は閉まっていた。六〇二号室の前で、インターホンを押す。すぐに鍵の音がして、ドアが開く。
佐伯さんは薄いTシャツにスウェットのズボン、白いカーディガンを羽織っていた。髪はそのまま落ちている。部屋の奥から、甘い匂いが流れてきた。
「入ってください」
靴を脱いで上がる。濡れた靴下で床が冷たい。廊下を汚してしまうと思い躊躇した。
動けずにいると、佐伯さんは僕に正面から抱きついた。さらに動けなくなる。
「冷たい」
「……雨に濡れたので」
石鹸の匂いがした。
「風邪をひくから脱いで」
佐伯さんはそう言って、僕にキスをした。
◇
シャワーから上がると、畳まれた服が洗面台の縁に置いてあった。男性サイズの紺のスウェットで、おそらく前の夫のものだと思った。少し抵抗があったが、着る。心地よい疲れと満足感に、奇妙な興奮を感じていた。リビングに戻ると、佐伯さんが丸い洋テーブルに湯気の立つコーヒーカップを二つ並べていた。現実感がなくて、さっきまでいた寝室をちらりと見る。
「……あの、ありがとうございます」
「え、あ、ブラックでいいかな」
「はい。あの」
「うん」
しばらく見つめ合った。何か言おうと思ったが、言わないでいることに不思議な幸福感があった。恥ずかしくなって、逸らした目線が、段ボールを捉えた。
「本田さん……変でした」
「無理に話さなくてもいいよ」
「大丈夫です。聞いてほしくて。本田さん、電話で妹さんの声を聴いたって言っていました。姿まで見たと」
「あら……」
「本田さん七階に住んでいたんです。僕知らなくて……」
七階、と言葉にして、佐伯さんが引っ越そうとしていたことを思い出した。
「そうよ。本田さんも七階。待つ会で知ったよ。本当は、ずっと前から聴こえていたのかもしれないね……」
「佐伯さん。やっぱり、七階への引っ越しを考え直してほしいです」
佐伯さんは、視線をコーヒーに静かに落とした。
「うん。もうその気はないよ」
予想外にあっけない返答だった。僕の考えすぎだったのかもしれない。
「智子の声もね、たぶん、もう聴こえなくていいんだと思う」
その声に以前のような震えはなかった。佐伯さんは僕と同じ気持ちになってくれたんだと思った。いや、それは言い過ぎだとしても、前を向いたんだと思った。亡くなった人の声はもう二度と聴くことはできない。それはどうしようもないことだ。
殺人とか、警告とか、もう、どうでもいいと思った。これから、この部屋に僕が来て、佐伯さんが僕の部屋に来て、夕方になったら一緒に買い物に出かけて、また同じ道を帰ってくる。そんなことをぼんやりと考えていた。
窓の外で子供たちの声がした。団地の隙間にある公園で遊んでいるのだろう。
佐伯さんが立ち上がり、カーテンに手をかけて、引いた。
「昨日は一睡もしてないんでしょ。少し寝たらいいよ」
「いやでも、迷惑じゃ」
「私も今日はお休みだし、夕方の待つ会まで予定ないから、いい時間になったら起こしてあげるよ。まだ一人にならないほうがいいと思う」
嬉しかった。ずっと忘れていた、一人になる寂しさを思い出した。僕はお礼を言って、寝室に戻った。カーテンは閉じたままで、部屋の中は薄暗い。
シングルベッドに横になる。また石鹸の匂いがする。少しして、隣に気配が来る。布が擦れる音がして、体温が近づく。ただ安心した。考えることをやめて、そのまま意識が落ちていった。
◇
佐伯さんの部屋を出た時、雨は上がって分厚い雲の隙間から橙色の夕陽が漏れていた。佐伯さんは別れ際に、最初の集会の時にしてくれたように、僕の背中を優しくさすってくれた。今夜の待つ会にはもう行きたくなかった。行かなくてもいい気がした。曖昧に言葉にしてみたが、佐伯さんは「本田さんの話をしなきゃ」と言った。もう亡くなってしまったかのように聞こえた。確かに、僕は、本田さんの最期を見たかのように話したが、それはまだ分からない。
一度、自分の部屋に帰る。鍵を掛け忘れていた。あのノートの切れ端を思い出して、慎重に部屋に入る。生ぬるい風が頬を撫でた。少しだけ開いた窓に、カーテンが音もなく揺れていた。とくに変わったところはなかった。スウェットを脱ぐ。カラカラと何かを転がすような音が聞こえた。この部屋に来たときからたまに聞こえていた音だ。おそらく隣の部屋からだろう。
急にスマホが震えて、身体が跳ねた。画面を見ると佐伯さんからだ、「もう皆さん、揃ってるよ」とのメッセージだった。服を着替えて、窓を閉めると部屋を出た。施錠も忘れずに。
加藤家には、いつもの参加者が座布団に座っていた。お香が炊かれ、カーテンも閉められている。佐伯さんがこちらを見て微笑んだ。奥に加藤さんが座っていた。こちらを見ると、小さく頷いた。
「来られましたね」
加藤さんは、ぱんっと膝を叩いた。
それを合図に参加者が口を閉じ、一瞬の静寂。
「本田さんが、旅立たれました」
誰かが息を呑む音がした。佐伯さんを見ると首を横に振った。僕は口を開く。
「……どうして分かるんですか」
加藤さんは、こちらを見たまま答える。
「聴こえましたから」
「そんなはずは……」
「渡りをします」
加藤さんがそう言うと、手を合わせ、目を閉じた。
参加者たちもそれぞれ手を上げる。親指と人差し指と中指だけを立てた形で、掌を合わせる。揃った動きだった。佐伯さんも同じ形を作っていた。
呼吸が始まる。深呼吸から、短く、速く。それに合わせて周囲の呼吸も揃っていく。部屋の中の甘い匂いが、循環する。
やがて、お経のような低い声に変わる。一定の調子で続く。時間の感覚が曖昧になる。佐伯さんの横顔を見ると、目を閉じて、呼吸を合わせている。口元がわずかに動いていた。
加藤さんの声が、ふと止まる。
「来ていますよ。まだ近くにいます」
沈黙の後、わずかなざわめきが走る。
加藤さんが険しい表情で「ああ」と嘆息を漏らす。
「徴を、徴を、見つけたんですね……」
加藤さんは小刻みに震え、硬くつぶったその目から涙を流した。
「本田さんが言っています。妹さんの声を聴きました。徴に気がつきました。ああ、なんということでしょう。長い間ずっと待ち続けて、やっとです。ようやくです……」
床に手をついて、額をつける者がいた。肩が小刻みに揺れている。押し殺した嗚咽が、そこかしこから聞こえる。
「赤い、紫陽花」
加藤さんが独り言のように呟いた。背筋に冷たいものを感じた。紫陽花の話は僕しか聞いていないはずだ。
「本田さんは七階に住んでいた……見えたんだ……会えたんだ」
参加者の誰かが言った。ざわめきが広がる。
加藤さんが、ゆっくりと息を吐く。
「……行かれました」
誰かが深く息を吸った。それから、低い声で、何かを繰り返し始めた。
口の中で「会えたんだ会えたんだ」と呟いていた。やがて、それが伝播し始めた。佐伯さんも目をつぶったまま小刻みに揺れていた。頬が濡れていた。佐伯さん、と声を掛けたが、反応がない。もう誰も目を開けていなかった。
僕は立ち上がってカーテンを開け、窓を開いた。吹き込む風が仏壇の蝋燭の火を消す。加藤さんも立ち上がって、ぱんぱんと二回、手を叩いた。そこでやっと、ざわめきが収まった。
「みなさん、落ち着いてください。今日はここまでにしましょう」
そう言った加藤さんの顔には、今まで見たことのない表情が浮かんでいた。
◇
外に出ると冷たい夜風が体を通り抜けた。そのまま帰る気になれずに、佐伯さんを誘って一緒に散歩することになった。夜の団地は廃墟のように静かだった。
しばらく無言で歩いて、僕は口を開いた。
「本田さんの中で、たぶん妹さんはまだ亡くなっていなかったんだと思います」
「うん」
佐伯さんは前を向いたまま小さく頷いた。白いカーディガンが風に揺れる。
「本田さん、誰かが団地の住人を手にかけていると、疑っていました」
「……うん」佐伯さんは特に驚いた様子もない。
この団地では人が死に続ける。ただの偶然かもしれないし、待つ会が何かをしているのかもしれない。ただ、本田さんは妹さんの死に理由が欲しかった。それだけは確かだと思う。
空を見る。多角形に切り取られた闇がそこにあった。団地の窓に明かりは少ないが、確かに、あの奥で人間が蠢いている。生きて、それぞれの意味を探している。
何度も同じ死に方が続くとか、いるはずがない人を見たり、音を聞いたり、いわゆる曰くつきの部屋は存在する。だが、それは、ただの偶然に形を与えてしまっているだけなのかもしれない。
佐伯さんが僕の左腕に抱きついてきた。歩幅が少し狭まる。
「祥子さん。どこか、行きませんか」
「どこかって?」
「どこか楽しいところです」
「うん、いいね。考えとく」
佐伯さんは最初に会った時のように微笑んだ。
十八号棟まで戻ると、今度は僕から佐伯さんにキスをして、小さく手を振って別れた。隣の十九号棟の階段を上がって、鍵を開けて部屋に入る。明かりは点けない。
玄関に立ったまま、ふとあのノートの切れ端を思い出した。
「四〇四」と書かれた紙……。
本田さんの仕業だったのかもしれない、と思った。
靴を脱いで部屋に上がる。白い壁と白い天井。いつもと同じ部屋だった。初めてここへ来た時に感じた違和感はもうない。
ベッドに横になったが、眠れなかった。前の家から持ってきた壁掛け時計の音だけが聞こえていた。無感情な一秒一回のリズムに引きずられて、母の最期を思い出す。白い桜が咲いていた。息苦しさを感じて、目を閉じる。
僕には何も聴こえない。何の徴も見えない。それでいい。
どれくらい経っただろう。僕の意識はスマホの振動に引き戻された。
寝たまま画面を確認する。佐伯さんからの着信だった。
「もしもし」
「真山くん」
風の音が聞こえた。外だ。
「祥子さん。どうしたの」上半身を起こす。
ザーザーというノイズに混じって佐伯さん以外の声が聞こえた気がした。
「祥子さん? どこかで飲んでるの?」
「真山くん。楽しいところ、考えたよ」
カラカラと何かを転がすような音が聞こえた。
隣の部屋からだ。
死んだはずの田村さんの部屋からだ。
「智子ね、きっと真山さんも気に入ると思う。やさしいから」
「祥子さん、何を言っているの」
「だからさ、智子も一緒に連れて行こうよ」
窓の外で、大きな音がした。
何か重いものがぶつかるような音。
僕はスマホを耳につけたまま起き上がり、窓に駆け寄る。
間もなく、金属を引きちぎるような女性の悲鳴がした。下からだ。
「先にいってるね」
「ちょっと、何を──」
窓の外、向いの十八号棟の屋上に、数人の人影が見えた。フェンスを越えたビルの端に、風にたなびく白いカーディガン。ふわりと浮き上がるその刹那、彼女と目が合った気がした。
バン! と、さっきと同じ音がした。
息を吸ったまま吐けない。間を置かず、次の影が落ちる。衝撃音。すぐさま、また落ちる。衝撃音。そしてまた次の影──。
耳元で羽音がした。
無数の羽が重なり合う音が、部屋全体から聞こえていた。
黒い波のような大量の虫が体に纏わりつく。
腐敗臭がした。
……ああ、そういうことか。前の住人はこの部屋で死んだんだ。
足元に黒い虫が一匹、這い寄ってきた。
僕は左足で、それを思い切り踏み潰した。
了。




