第3話 聖女の血、監査官の誤算
祈りとは、本来、静かな行為だ。だがこの日、聖教国ルミナリスの大聖堂は、狂気にも似た熱を帯びていた。
立ち並ぶステンドグラスから差し込む七色の光は、舞い踊る埃さえも天使の羽のように見せ、数千の民衆が発する熱気と祈りのつぶやきが、天井の円蓋に反響して重低音の唸りとなっていた。
中央祭壇に立つ私―――セレスティーヌ・ド・ラ・フォンテーヌは、純白の衣を纏い、神々しい光の柱の中にいた。
表向きには、天から降り注ぐ慈愛を一身に受ける「選ばれし者」として。だがその実態は、薬物と虚構で塗り固めた、崩壊寸前の張り子に過ぎない。
(……来る。覚悟を決めなさい、セレスティーヌ)
私は、舌の裏に仕込んでいた小さなカプセルを、奥歯で静かに噛み砕いた。ノアが心臓への過負荷を承知で調合した、禁忌の魔力バイパス剤。それは苦味もなく、驚くほど甘美な味がした。死を誘う劇薬がこれほど甘いというのは、皮肉な話だと一瞬だけ思う。直後、私の体内は地獄へと変貌した。熱。いや、熱などという生易しい言葉では到底足りない。
全身の血管を灼けた液体金属が駆け巡り、細胞のひとつひとつが内側から爆ぜるような衝撃。視界の端が火花を散らし、肺は空気を吸い込むたびにガラスの破片を飲み込んでいるかのような痛みを訴える。心臓は、この異物を排出しようと、肋骨を内側から叩き割らんばかりの勢いで猛り狂った。
(……効きすぎね。これなら、あの機械さえ騙せる)
私は唇を噛み切りそうになるのを必死で耐え、完璧な「聖女の微笑み」を顔に貼り付けた。これは奇跡ではない。神の祝福などでもない。ただの化学と、自己犠牲という名の傲慢な欺瞞。
「―――神よ、どうかこの哀れな英雄に、再びの慈悲を」
祈りの言葉を紡ぐ喉の奥から、せり上がってくる血の鉄錆びた味がした。祭壇の前に跪いているのは、かつての戦争で両目を失った老兵だ。彼の縋るような手が、私の指先に触れる。その瞬間、私は体内に渦巻く狂暴なエネルギーの「栓」を抜いた。
キィィィィィィィン―――。
大聖堂に、物理的な音ではない、魔力の共鳴音が響き渡る。私の身体から溢れ出した白銀の輝きが、老兵を、そして最前列に陣取っていたカイル・ヴァン・ブライトをも呑み込んだ。
民衆が、絶叫に近い歓喜の声を上げる。誰かが名前を呼び、誰かが崩れ落ちて石の床を叩く。老兵が、震える両手を自らの顔に当てた。
「……光が……光が見える……! 聖女様、ああ、聖女様……!」
その言葉は、奇跡の成立を告げる最終宣告だった。だが、その熱狂の渦中でただ一人、カイルだけは石像のように動かなかった。
「測定値、異常上昇。グラフが垂直に近い角度で……くっ」
彼は皇国製の観測器を凝視し、かつてない焦燥をその端正な顔に浮かべていた。
「波形が、あまりにも綺麗すぎる。ノイズが一切存在しない。自然界の魔力には必ずあるはずの『揺らぎ』が皆無だ。これではまるで……」
―――まるで、数式によって完璧に設計された、人工の信号だ。そう言いかけて、カイルは言葉を呑み込んだ。
周囲を見ろ、カイル。今ここで、奇跡が「偽造」だと口にすれば、あなたは瞬時にこの狂信的な群衆によって八つ裂きにされる。あなたの「正しい数字」は、この「幸福な熱狂」の前では、救いを妨げる悪魔の囁きでしかない。
「……カイル監査官。それでも、あなたは否定なさいますか?」
私は、視界を覆う白い霞を振り払い、彼を真っ向から見据えた。翡翠の瞳には、死を恐れぬ殉教者の輝きを宿して。内臓が崩れ、血管が悲鳴を上げているなどとは、微塵も感じさせない気高さで。
「検証は……継続……すべき、です」
カイルの声は、明らかに精彩を欠いていた。彼は真実に忠実であろうとした。だが、彼の持ち込んだ機械の針は、私の命を削った「嘘」を「最高出力の魔力」として確定させてしまったのだ。
カイルの正論が、自分の武器によって否定される。これこそが、私とノアが仕掛けた、最高の皮肉。針が、カチリと音を立てて振り切れた。
その瞬間、私は糸の切れた人形のように、祭壇の上に崩れ落ちた。背後でジュリアン王子の叫ぶ声が聞こえるが、もはや意識の深淵へと沈んでいく私の耳には届かなかった。
目が覚めたのは、深い夜の帳が降りた後だった。肺を刺すような痛み。四肢に重くのしかかる、言葉にできない疲労感。私はゆっくりと視線を動かし、ベッドの傍らに立つ、影のような人影を見た。
「……再監査が決まりました、セレスティーヌ」
カイル・ヴァン・ブライトだった。その顔には、敗北感とも、困惑ともつかない、歪んだ色が浮かんでいる。
「あなたの身体に起きた急激な負荷を理由に、施療院予算の半分を凍結しました。……これが精一杯の譲歩です。残りの半分は、あなたの医療費と、聖域の安全性の再調査に充てられます」
私は、口元に滲んだ血を拭いもせず、かすかに笑った。
「……妥当な損失、ですわ。たった半分の予算と引き換えに、私は『命を賭して奇跡を起こした真の聖女』という物語を手に入れたのですから」
カイルの拳が、微かに震えていた。彼は気づいている。自分が完璧に嵌められたことに。彼は私を暴こうとしたが、結果として「聖女を瀕死に追い込んだ非情な役人」というレッテルを貼られた。もはやこの国で、彼に協力する者は一人もいないだろう。
「民衆は、あなたを支持しました。私の出す『正しい数字』よりも、あなたの『残酷な嘘』を選んだ。……私の調査は、この国ではもう不可能です」
社会的孤立。データの収集すら許されない環境。アストライアの秘蔵っ子にとって、これ以上の屈辱はないはずだ。
「幸福な誤答、というやつですわ。カイル様」
私は、鉛のように重い手を伸ばし、彼の官服の袖を弱々しく掴んだ。
「……嘘つきですか、と。あなたはそう仰りたいのでしょう?」
「ええ、そうですわ。私は嘘つき。でも、この国は今、救われ、幸福です」
私は天井を見つめた。ノアの言った通り、代償は大きかった。この身体はもう、以前と同じようには動かない。寿命も、きっと大きく削られただろう。けれど、それでいい。
「あなたの正論は、あまりに正しい。だからこそ……このルミナリスという地獄では、負けましたのよ」
カイルは何も答えず、ただ深々と一礼をして、私の部屋を去った。その背中に、かつてアストライアに論破された私の、幼い日の残像が重なる。
「……掃除は終わりよ、アストライア。ここからは、私の増築の番」
私は、暗闇の中で独りごちた。聖女は自らの血で帳簿を白く塗り潰し、監査官は居場所という名の現実を失った。勝利なき戦い。けれど、この「痛み分け」こそが、私が望んだ次の舞台への入場券。
窓の外、夜の街には、私の名を呼び、奇跡を讃える民たちの祈りの火が、どこまでも美しく揺れていた。




