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少女たちの地獄(カレイドスコープ)~価値なしと言われた令嬢たち~  作者: 宮野夏樹
第2章 虚構の地獄(フィクション・ヘル)~奇跡を偽造した令嬢は、嘘の劇場の幕を引かない~

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第2話 聖女の帳簿は純白ホワイトでなければならない

 聖教国ルミナリスの会議室は、今日に限って空気が硬かった。いつもなら、窓から差し込む光は祈りの香を照らし、柔らかな賛美歌が廊下の向こうから微かに聞こえてくるはずだった。だが、今のこの部屋にあるのは、ただ無機質な紙の擦れる音と、冷え切った沈黙だけ。


「―――以上が、今期における施療院新設、および関連事業の支出内訳一覧です」


 私は、指先ひとつまで計算し尽くされた慈愛の微笑みを添えて、帳簿をテーブルの中央へと差し出した。


 表紙は汚れひとつない純白の革。中身は、一見すれば完璧な透明性を担保しているように見える、美しく整えられた数字の羅列。聖女候補として、これ以上ない誠実さと謙虚さを示した提出の仕方。だが、その帳簿を受け取った青年は、私の美貌にも、差し出された数字の「美しさ」にも、一切の感情を示さなかった。


 黒髪は夜の闇のように深く、紺色の瞳は底の見えない冬の海を思わせる。剃刀のように鋭く、無駄のない立ち姿。装飾を徹底的に削ぎ落とした官服は、まるで機能そのものが人の形を取ったかのような異質さを放っていた。


 ―――カイル・ヴァン・ブライト。海を隔てたイグナーツ皇国から派遣された、一級経済監査官。そして、あの「国を売った女狐」アストライア・フォン・オズワルドが直々に育てたという、彼女の信奉者にして“秘蔵っ子”である。


「確認します」


 カイルは短くそう言って、帳簿に視線を落とした。彼の瞳には、私の美貌も、慈愛を帯びた声の響きも映っていない。そこにあるのは、入力されたデータに対する「不整合の検知」という演算プロセスだけ。生理的な嫌悪感すら覚えるほど、彼は純粋な合理の塊だった。


 ページがめくられるたび、会議室の温度が二度ずつ下がっていくような錯覚に陥る。同席しているルミナリスの貴族たちは、カイルが放つ「正論の威圧感」に気圧され、居心地悪そうに身を縮めていた。


「……いくつか、不自然な点があります」


 カイルの声が、静まり返った室内で冷たく響いた。


「薬草の調達価格が、同時期の市場平均価格より一六%高い。さらに、施療師の派遣契約はすべて成功報酬型とされていますが、その成果指標が極めて曖昧です。何をもって『治癒』と定義しているのか、医学的な根拠が見当たらない。そして最も不可解なのは、寄進金の一部がわざわざ王都外の複数の小規模商会を経由して、最終的に『白百合商会』という新興業者に集約されている点だ」


 淡々と。正確に。逃げ場を一切与えない、事務的な処刑のような指摘。


 ―――ああ、泥靴。私の、美しく築き上げた地獄に、この男は迷いもなく泥足で踏み込んでくる。


 白百合商会という洗浄機ロンダリングのフィルターを通し、信仰を利権という名の配当に変換する私の「芸術的な仕組み」を、彼はただの「不整合なデータ」として断罪しようとしていた。


「その支出に、合理性はありますか?」


 カイルが顔を上げた。紺の瞳が、私を“測る”。それは人間を見る目ではなく、不採算部門の帳簿を精査する査定官の目だった。


 私は、さらに深く微笑んだ。絶望する者を救い上げる時の、慈愛に満ちた、完璧な聖女の微笑み。


「合理性などはございませんわ、カイル様」


 会議室が、私の放った言葉に小さくざわめく。


「そこにございますのは、数値では測りきれない――救済という名の奇跡だけですの。病に苦しむ民は、市場価格よりも『聖女が祈りを捧げた薬草』を求めております。彼らの心を救うコストを、数字だけで語ることは、神への冒涜になりはしませんか?」


 隣に座る第一王子ジュリアンが、誇らしげに、そして安堵したように大きく頷いた。


「そうだ! セレスティーヌの言う通りだ。皇国の監査官殿、君たちは何でも数字で割り切ろうとするが、この国を支えているのは民の信仰なのだ。彼女の祈りがもたらす安心感こそが、何よりも代えがたい価値なのだよ」


 同席した貴族たちも、ここぞとばかりに感動の吐息を漏らし、私への賛辞を口にする。


 そう、これが「熱狂」だ。アストライアが切り捨てた、非効率で、曖昧で、けれど強大な力を動かす「物語」という名のインフレ。


 だが。


「理解はしました」


 カイルは、一切感動しなかった。眉一つ動かさず、彼は手元の書類に何かを書き込む。


「では、その『奇跡』によって得られる成果を、具体的に数値化してください。治癒率の推移、再発率の統計、そして信仰によるプラセボ効果を差し引いた純粋な投資対効果。奇跡は尊い。ですが、尊さは予算執行の免責理由にはなり得ません。むしろ、尊いリソースであるからこそ、最も効率的に運用されるべきだ」


 数字の暴力。正論という名の、冷徹な鈍器。この男に、「情」や「美」という概念は通用しない。彼にとって、私の微笑みは筋肉の収縮によるデータのノイズに過ぎず、私の言葉は整合性を欠いたエラーメッセージなのだ。


 ―――買収は不可能。


 欲望が薄いのではない。彼の欲望は「正解を出すこと」に特化しており、それ以外の報酬系が機能していないのだ。私は一瞬で、脳内の「資産リスト」から彼を「処理対象」から「組み込むべき高難度アセット」へと書き換えた。


「奇跡を標榜し、それによって莫大な国家予算を動かしている以上、その根拠の検証は不可欠です。ついては―――次回の治療儀式にて、魔力測定を行わせていただきます」


 その一言で、会議室は完全に凍りついた。ジュリアン王子の顔から血の気が引き、貴族たちは言葉を失って互いの顔を見合わせた。


 聖教国において、聖女候補に「疑いの目」を向け、魔力測定という物理的な検証を要求することは、最大級の非礼にあたる。


「魔力測定……? カイル殿、それはあまりに……!」

「当然の要求です」


 カイルは、詰め寄る王子を冷ややかな一瞥で制した。


「『奇跡』が聖女の魔力による現象であるならば、そこには必ず観測可能な魔力波形が存在する。もし波形が観測されなければ、それは奇跡ではなく、何らかの化学的、あるいは物理的な詐術である可能性が高い。アストライア様から預かった最新の『魔力波形観測器』は、いかなる手品も通しません。誤差は〇・〇〇三%以内です」


 ノア・エグザルティと目が合った。ほんの一瞬。瞬きよりも短い時間。


 ―――予定変更。彼もまた、無機質な瞳の奥で、私の意図を完璧に読み取っていた。


 会議は、それ以上の進展を拒むようにして終わった。カイルは事務的に書類をまとめ、一礼もせずに部屋を去った。残されたのは、嵐の前の静けさと、自分たちの信仰(りけん)が暴かれることを恐れる貴族たちの動揺だけだった。




 夜。自室に戻った私は、重厚な外套を脱ぎ捨て、椅子に深く腰を下ろした。月明かりだけが、私の顔を半分に割り、聖女の皮を剥ぎ取っていく。

「……三日後の儀式、演出を根本から書き換えますわ」


 影の中から、ノアが姿を現す。彼は何も問わない。ただ、デスクに新しい羊皮紙を広げ、ペンを取る。


「カイルの持ち込んだ機械は、現象を騙すことはできません。照明の加減や、薬草による一時的な反応……これまでの『手品』では、あの観測器の針を動かすことはできないでしょう。欺くには、現象ではなく、本質を書き換える必要があります」


 ノアのペンの先が、ある術式の記述で止まった。


「……それは、あなたの『聖女としての生命』を削る、禁忌の処置になります。自らの神経系に魔力のバイパスを無理やり通し、偽りの波形を身体そのものに刻む。激痛と後遺症、そして寿命を前借りするような、猛毒の処置です。それでも?」

「構いませんわ。むしろ、相応のコストです」


 私は窓の外を見つめた。遠く、海の向こうにはイグナーツ皇国がある。アストライア。あなたは数字で国を掃除し、その「正しさ」の結晶として、あのような監査官を生み出した。




 でも、忘れないで。正論だけで腹が膨れるのは、あなたのような選ばれた天才だけ。真実を知って絶望し、自分の無能さに打ちひしがれる民に、あなたの正しさは時に毒よりも残酷に突き刺さる。


「アストライア。あなたは正しすぎて、面白みがないわ。私はこの監察官(おにんぎょう)に、教えてあげます。……『正解』よりも、『幸福な誤答(キセキ)』の方が、ずっと人を熱狂させ、救うことができるのだということを」


 たとえその代償として、私の五感が焼け焦げ、命が削れようとも。聖女の帳簿は、純白でなければならない。


 たとえ、その白が―――自らの血を混ぜた、猛毒の白であったとしても。私は、鏡の中に映る自分に向かって、静かに笑った。それは、世界で最も慈悲深く、そして世界で最も傲慢な、捕食者の微笑みだった。


「ノア。三日後の儀式は、過去最大の『物語』になりますわよ。カイル・ヴァン・ブライト。あの歩く正論を、私の地獄の最前列で、最高の観客にしてあげましょう」


 地下からは、ノアが調合する薬学の不気味な音が響き始めていた。




 三日後。真実と虚構が、一つの祭壇の上で激突する。救うのは、神ではない。私の、命懸けの嘘だ。

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