51.夏の終わりと追憶
「……シルヴェスター様?」
聞き慣れるようになった声に目を見開いて振り返る。……どうして。
振り向くと確かにそこにはシルヴェスター様がいて、後ろには従者のレナルドが控えている。
「どうしてここに……?」
立ち上がって驚きながらシルヴェスター様に尋ねる。まさか、伯爵邸に来るなんて。
尋ねるとシルヴェスター様がゆっくりと口を開く。
「夕方まで伯爵邸にいるとロバートから聞いたから仕事が早く終われば迎えに行こうと思ったんだ」
「迎えに……」
理由を聞いて理解したけど……それでも迎えに来るなんて思いもしなかった。
未だ衝撃に包まれているとシルヴェスター様の視線の先がゆっくりと私の後ろへ移動する。
つられて私も視線を移動させると、ひゅっと息を呑んだ。
なぜなら、ベルンがシルヴェスター様を鋭く睨んでいたから。
「こら、ベルン……!」
「っ、姉様……」
注意するとびくっと肩が震えて私を見るも、慌ててシルヴェスター様に頭を下げる。
「申し訳ございません、弟が失礼を……」
謝罪の言葉を口にする。言い訳はしない、誠心誠意謝るのみだ。
しかし、そんな私の態度と裏腹にシルヴェスター様は少し目を丸めるだけで首を振る。
「構わない、気にしていない」
「そうですか……?」
「ああ」
本当に気にしていないのかいつもと同じ様子で拍子抜けする。子どもの睨みだから咎めないのだろうか。
そんなこと思っているとシルヴェスター様が母に礼をする。
「伯爵夫人、突然の来訪申し訳ありません」
「い、いいえ。こちらこそお恥ずかしいところを見せてしまい申し訳ございません。お詫びにお茶でも一杯如何ですか?」
「お誘いは嬉しいですがこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないので。またの機会にいたします」
「そうですか。分かりましたわ」
母も長らく当主夫人をしているからか素早く意識を戻し、シルヴェスター様に応対する。私を迎えに来たようなのでここで帰るのがいいだろう。
「それではお母様、失礼いたします」
「ええ。元気でね」
母に挨拶し、次にベルンに目を向ける。
「ベルン」
「姉様……」
「貴方が領地へ行く前に手紙を一筆するわ。だから許してね」
「……分かりました、お待ちしています」
「ええ」
最後に茶色い髪を撫でて、公爵邸に帰るためにシルヴェスター様の隣を歩いていく。
そして馬車に乗ろうとしたところで後ろから「姉様」と、私を呼ぶ声に振り返る。
「僕もお手紙書きます! お元気で!」
「……ええ、楽しみに待っているわ」
そしてベルンに笑って公爵邸に向かう馬車に乗って出発したのだった。
***
「それにしても行き違いにならなくてよかったですよ」
「そうね」
笑うレナルドの言葉に頷く。本当、行き違いにならなくてよかったと思う。
仕事帰りにわざわざ伯爵邸に立ち寄ってくれたのだ。なのにいなかったら無駄足になるところだったから。
「シルヴェスター様もお仕事でお疲れなのに迎えに来てありがとうございます」
「たいしたことじゃない。早めに終わったから伯爵邸に立ち寄っただけだ」
その言葉に嘘はないだろう。シーズン最後の夜会が終わってからは仕事が落ち着いて来たのか、早めに帰って来ることが多くなっていたから。
「それにしても弟君には驚きました。あのシルヴェスター様を睨み付けられるなんて。あれは将来大物になりますよ」
「それは分からないけど……先ほどは申し訳ございません。弟が失礼を……」
前半はレナルドに、後半をシルヴェスター様に向けて話してベルンの無礼を再度謝罪する。
「あれくらいの態度で一々目くじらを立てるつもりはないから気にしなくていい。むしろ、面白かったくらいだ」
「面白かった、ですか?」
意外な返答に戸惑う。どこが面白かったのかまったく分からない。
「ああ。リカルドは子どもに好かれるが逆に俺は怖がられることが多かったからあの態度は新鮮に感じた」
「そうなのですね」
頷きながら子どもに囲まれるリカルド様をイメージする。……うん、容易に想像できてしまう。
「リカルド様はニコニコしているので子どもたちも話しやすいんですよ。シルヴェスター様ももっと笑えばいいんですよ」
「レナルド、旦那様に失礼です」
「でもエストさんも否定しないってことは認めてるんじゃないですか」
「その口、本当に縫った方がよろしいようですね。善は急げとも言いますし、早速やりましょうか?」
隣で恐ろしいこと呟くエストの言葉を聞かなかったことにする。あれは多分冗談。たぶん。
「あの二人は相変わらずだな」
「そうですね」
「二人とも優秀だからあとは仲がよければいいんだが」
「えー、シルヴェスター様。僕とエストさん仲良しですよ?」
「ど こ が で す か」
笑いながら告げるレナルドにエストが目を据わらせて反論する。うん、エストの言う通りだと思う。
再度言い合う(エストの一方的な口撃ともいう)二人に関わらずにいるとシルヴェスター様が私に言葉を投げかける。
「伯爵邸は結婚式以来だが充実できたか?」
「はい。両親に弟に使用人たちともたくさん話すことできて楽しく過ごすことできました」
シルヴェスター様に話しながら、実家で過ごした二日間を思い出す。
私の環境は目まぐるしく変わったけど、二ヵ月ぶりに訪れた実家は大きく変わってなくてほっとした。
「そうか。ならよかった」
「はい」
重低音の声から紡がれるその言葉は簡潔だけど、そこには嘘が含まれていないのは知っている。
移り変わる景色を見つめながら昨夜、父に話した自分の言葉を思い出す。
『私を尊重し、緊張していたら言葉をかけてくれ、私が悪意に晒されたら矢面に立ってくれて……優しい人だと思います』
突然の政略結婚、動揺がなかったとは言えない。
特に相手は全てにおいて格上のランドベル公爵家の当主。不安がなかったと言えば嘘になる。
それでもシルヴェスター様と結婚して共に過ごした二ヵ月間は大変なこともあったけど、周囲の人たちに恵まれていて、充実して穏やかな時間を過ごすことができた。
「…………」
政略結婚だけど、私を尊重してくれて、気にかけてくれて、不安を取り除いてくれて、守ってくれて。
私たちの間には恋愛感情はないけど──シルヴェスター様と、結婚してよかったと思う。
「そうだ、シルヴェスター様。あれを伝えないと」
「ああ、そうだな」
「?」
シルヴェスター様とレナルドの会話に疑問符を浮かべる。あれとは一体……?
「公爵領へ行く日が決まったんだ」
「まぁ、いつですか?」
シルヴェスター様の言葉に僅かに目を見開いて尋ねる。
公爵領。それは、私の第二の故郷となる特別な場所だ。
シルヴェスター様が外交官として働いているからすぐには行けないだろうけど、日程が決まったのであればある程度準備することができるはずだ。
「行くのは十二月になる予定だ。王都に近い場所に領地を賜っているが長く離れるわけにはいかないから移動も含めて三週間くらいが限度だろう」
「そうですね。外交官の仕事もありますからね」
他に同じ仕事をする仲間がいるとはいえ、長い間王都を離れることはできない。父も三週間くらいしか領地に帰ってこなかったから特に驚かない。
最近は仕事が落ち着いていると言っても政争中なのは変わらないのですぐに行くわけにはいかない。継戦派の様子を注視しないといけないだろうから。
「伯爵夫人たちは来月か?」
「はい。父はもっと先だと思います」
シルヴェスター様の問いにこくりと頷く。例年通り母とベルンは先に伯爵領に帰って代官から受け取った資料を元に領地経営をして必要に応じて視察もするだろう。
「母は昔から父の領地経営の手伝いをしていたのでベルンの領主教育の一環として一緒に視察するかと」
「そういえば夫人は領地経営の知識もあるんだったな」
「婚約時から官僚として働いていた父のために学んだようです」
元は貴族令嬢らしく淑女教育しか受けていなかったようだけど、父の負担を減らすために領地経営について学んだと聞いたことがある。
私も伯爵家の後継ぎだった間は当主教育を受けながら領内を視察して特産品などを学んでいたのを思い出す。
そんな昔のことを思い出していると、窓からふわりと夏の香りを乗せながら風が吹く。
「わっ」
「奥様、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。強風じゃないもの」
髪を抑えながら声をかけるエストに大丈夫だと告げる。
片手で髪を軽く整えると外を一瞥する。
「秋になれば少しは涼しくなるでしょうね」
「そうですね。すぐに公爵領に行くわけではないのでこの間のようにまた王都を散策するのもいいかもしれません」
「ふふ、そうね」
散策を提案するエストに返事をして、髪を抑えながら移り変わる景色を見つめる。……王都も、戦争前と比べて随分活気が戻ったと思う。
戦時中は物価も高騰していて王都を歩いても暗い顔している人が多かったけど、停戦になってから王都は少しずつ明るさを取り戻している。
こうして仮初の平和が保たれているのは陛下の政治と、戦況を巻き返した軍人たちのおかげだ。
「…………」
夏の香りを感じながら瞼を閉じる。
王都の夏の風は伯爵領と離れているのに、なぜか同じ香りがする。
だからだろうか。脳裏に、伯爵領での思い出が甦るのは。
温暖な気候、伯爵領で働く使用人、温和な領民に子どもたち、そして──
『──リシィ』
ふと、優しくて懐かしい声を思い出して瞼をゆっくりを開ける。……どうして今、思い出してしまったのだろう。
思い出に沈む意識を浮上すると馬車が減速していることに気付く。
窓に目を向けると見慣れた景色が映って納得する。どうやら、公爵邸の敷地内に入ったようだ。
やがて完全に停止するとレナルドとエストが先に降りていく。
その二人の後にシルヴェスター様が降りると、身体をこちらに向ける。
「アリシア、手を」
名前を呼び、差し出された手は男性らしく、大きい。
そんな彼の手に私も手を重ね、彼の名を紡ぐ。
「──はい、シルヴェスター様」
そうしてシルヴェスター様の手を借りながら馬車から降りて公爵邸へ足を進めたのだった。




