エピローグ
◇
あの大騒動から、数週間が経った。
崩落した礼拝堂の天井は、街の腕利きの職人たちの手によって見事に修復され、教会にはまた、いつも通りの穏やかな時間が戻ってきた。
(――変わったことといえば、私と神父様の間にある『秘密』が、すべて消え去ったことくらいだ。)
「シスター。朝食の準備ができましたよ。さあ、こちらへ」
台所から声をかけてきたソロン様は、いつも通りの清らかな修道服に身を包んでいる。
その服の下にある左腕の怪我は、悪魔の驚異的な治癒力でもう跡形もなく消えていることを、今の私は知っている。そして、彼が毎朝こうして作ってくれるスープには、私を病気や呪いから守るための『魔王の加護』が、これでもかと過剰に、スパイスのごとく練り込まれていることも。
「ありがとうございます、ソロン様」
私が席に着くと、ソロン様は私の正面ではなく、自然な動作で私の真隣の席に腰掛けた。
以前のような「距離を置いた聖職者」の仮面はどこへやら、今のソロン様は、私がスプーンを口に運ぶ様子を、すぐ間近からじっと、片時も目を離さずに見つめている。
お互いに「男の人として愛している」「奈落の果てまで囲い込む」と、あれほど情熱的に想いを告げ合ったのだ。
だから、私たちはもう『恋人』なのだと、私は思っていた。思っていたのだけれど――。
(……見つめるだけで、これ以上は触れてくれない……)
そうなのだ。ソロン様は私の隣をピタリとキープし、私が教会の外に出ようとすれば「私がついていきます」と絶対に離れずについてくる。
なのに、朝の挨拶のキスはおろか、手を握ることすら決してしてこようとはしない。
「あの……ソロン様? そんなに見つめられると、少し恥ずかしいのですが……」
私が耳まで赤くして俯くと、ソロン様はふっと、皮肉めいた、けれど酷く切ない微笑みを唇の端に浮かべた。
「おや、困らせてしまいましたか。申し訳ありません。ですが、私の最愛の人がこうして私の作ったものを口にしている姿があまりにも愛おしくて、つい、目が離せなくなってしまうのです」
どこまでも優しく、滑らかな敬語。
けれど、その切れ長の瞳の奥には、お腹をすかせた大型の猛獣が、大好きな餌を前にして必死に理性を保っているかのように、ギラギラとした暗い熱が隠しきれずに滲んでいる。
(私は、もっとソロン様に触れてほしいのに……これでは、私の方がまるで、ソロン様との不純な行為を期待している破廉恥なシスターのようではないか)
私はスプーンを握る手にぎゅっと力を込め、少し拗ねたように、隣に座る美しいソロン様を見上げた。
「ソロン様。私、あなたの『悪魔の姿』だって、とても素敵だと思っています。お肌が冷たくて、大きくて、お姿が変わっても優しくて……。だから、そんなに遠慮なさらないでください」
私の言葉に、ソロン様の端正な顔が、一瞬だけピキリと凍りついた。
彼はゆっくりとグラスをテーブルに置くと、私の方へと身体を向け、じり、と顔を近づけてくる。上質な香油のような、ソロン様の匂いが鼻腔をくすぐった。
「クラリス。あなたは、自分がどれほど恐ろしいことを言っているか、分かっておいでですか?」
囁くような、低く、酷く色を帯びた敬語。
神父様は私の頬にそっと手を伸ばしかけ――けれど、その指先が私の肌に触れる直前で、ピタリと動きを止めた。その大きな手が、微かに震えている。
触れたいのに、触れられない。
そんな葛藤を誤魔化すように、ソロン様は伸ばした手をすっと横へ滑らせ、テーブルの上の小さな一輪挿しから、紫色の可憐な花を一本、指先で摘み取った。
小さな釣鐘の形をした花が、茎に沿っていくつも身を寄せ合うように咲いている。それは、先日二人で教会の裏庭に植えた、『ペンステモン』の花だった。
ソロン様は、その紫色の花を、彼の指先は私の肌や髪に決して触れないように、私の髪の耳元へとそっと差し込んだ。
「この花には、いくつか面白い花言葉があるのですよ」
ソロン様の切れ長の瞳が、至近距離で怪しく細められる。
「一つは、『あなたに見とれています』。……おや、そんなに驚かないでください。ミサの最中や、お庭の窓辺で……あなたが時折、私の方をじっと見つめておいでだったのを、私が気づいていないとでもお思いでしたか?」
私はハッとして、自分の不謹慎な視線がとっくに神父様にバレていたのだと知り、恥ずかしさで顔がカッと熱くなった。
「外で噂を聞いたあなたを、私がこの教会の敷地に縛り付けた時もそうでした。……あの時も、あなたは私にそんな眼差しを向けておいでだった。そして同時に、毎朝こうして、あなたの愛らしい姿に見惚れずにはいられない……私の浅ましい本性を写したような言葉でもある」
神父様は一度言葉を区切ると、私の耳元に唇を近づけ、さらに声を低くして囁いた。
「そして、もう一つの意味は――『あなたにすべてを捧げます』」
向けられた声音の、あまりの重さと昏さに、私は小さく息を呑む。
ソロン様はゆっくりと視線を下げ、私の修道服の襟元――あの日以来、ずっと私の肌に刻まれている、あの紫色の花のあざがある場所に、熱い眼差しを注いだ。
衣服の布越しであるにもかかわらず、その視線が触れた場所が、じわじわとあの夜と同じように熱を帯びていく。
「言葉通り、私のすべては、すでにあなたのものだ。あなたをこの手で組み伏せ、寝室の奥深くへ閉じ込め、二度と太陽の光を見せないようにすべてを奪い去ってしまいたい。そんな悍ましい本能を、私がどれほどの思いで抑え込んでいるか……。どうか、私の施した加護に守られたまま、大人しくしていてください」
(……あ。あの、胸元の花のあざは……神父様が……)
その言葉で、私はすべてを察した。
私の身体には、とっくにこの人の、この美しい悪魔の刻印が刻まれていたのだ。
髪に飾られた花と、肌に刻まれた花の紋章が、まるで彼の重すぎる愛の鎖のように、私をきつく縛り上げている気がした。
聖なる教会の中に、甘くて、けれど刺すような緊張感を孕んだ、おかしな二人の日常が流れていた。
――そんな二人の頭上に、天界からの『冷酷な視線』が向けられていることなど、この時の私たちは、まだ知る由もなかった。
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