プロローグ Ⅱ『凪』
カチャカチャ
知らない音がなる。陶器を重ねるような音。
コンッ
近くで音がした。途端に飛び起き下がろうとする。本能的なものだった。即座に近くに武器があるか手探りで探し無いことを確認するやいなや拳を構え打ちこむ。その瞬間…
バッ
音が響き打った拳が彼女よりも遥かに大きな手で受けられた。
「……っ」
防がれるや否や脚で相手の腕に絡みつき肩の関節を外そうとする。今はこれが最適だと判断したからだ。
「……おいおい。何すんだ」
低い声が響く。聞き覚えのある声だった。太い腕に脚を巻き付けながら顔を確認する。あいつだ。地下で交戦した『獣』がいた。それでも彼女はまだ技を外そうとしない。無力化を図ろうと力を入れる。
「何すんだ。とりあえずこれはなせ」
技を決められている腕と反対側の手で技を決めている脚を指さす。彼女は少しずつ力を弱める。即座に攻撃されても反撃できるように。警戒しながらもゆっくり、ゆっくりと。そして脚を離す。
「っくそ、…蛮族かよ」
彼女はその言葉の意味を理解できなかったが何か貶されたのだと本能的に理解したのか再び殴り掛かる。
「ちょっ、悪かった悪かったから」
『獣』は焦る顔をした。軽くため息をした。自分でもため息をしたことに驚きつつ目の前の『獣』を観察し始める。『獣』の焦る顔は地下で交戦した時とは打って変わってまるで別人のような表情を浮かべる。
「……狼?」
彼女は言う。その言葉に反応したかのように『獣』は耳をピクッと動かし訂正する。
「狼って言うな。ちゃんと名前があんだよ」
どうやら狼と呼ばれる事に対してあまり良い思いはしないらしい。彼女はその事に気づかず音をなぞる。
「な、まえ?」
そう、彼女は名前を知らなかった。それとも『それ』と言うべきか。『それ』は個を持たずただ多で構成されているだけの存在だった。だからこそ『それ』としか呼ぶ術がなかった。唯一ある名前はテロリストとしての名前であるNirVanaだけであった。その事に気づき『獣』が言う。
「そうだ、名前。個を確立する為のもの。」
そう言うと『獣』は自分に指を指しながら言う。
「俺は黒峰、黒峰狼牙。お前は……」
狼牙は彼女に名前が無いことに気がつく。それに気づくなり少し考えた。そして思いついたように言う。
「ナギ…凪はどうだ?」
彼女は困惑する。今さっき知った『名前』というものを唐突に与えられたからだ。今まであるはずが、そして在るべきでは無かった『名前』に対して。
「……なぎ?」
凪は付けられた『名前』を繰り返し読んで理解しようとする。凪は初めて周囲を見渡す。コーヒーやタバコの匂い。時計の針の音が何処からか聞こえてくる。下を見るとベッドに座り込んでいた。目の前にいる狼の獣人が連れてきたらしい。前を見ると灰銀の毛色をし金色とも黄色とも言える色をした目がある。目付きが悪く少し黒い。隈がある。。ネクタイを緩めシャツのボタンを第2ボタンまで開けこちらを見ている。よく見ると腰に刀を携えている。胸の膨らみから拳銃を隠し持っていることが分かる。
「……ったく。ガキはわかんねぇな」
どうやら何も話さなかったことで思考、感情の表現を出来ていなかったらしい。とにかく何か行動を起こそうと口を動かした瞬間
「……っ」
「ボス〜薬どうッスか?効いてます?」
扉がバタンと大きな音を立てて開き、10代後半程の女性が出てきた。奇抜な姿をしており凪にはそれが目新しく見えた。入ってくるなりその『女性』はすぐさま近ずいて来て手を掴む。
「うわっ、起きてんじゃん。なんで呼ばなかったんスか?アタシ起きたら教えてくれって言ったっスよね〜」
彼女は狼牙とは対照的に口数が多い。声が高く寝起きの耳によく響く。よく喋る性格らしく言葉が途絶えることはない。腰にガスマスクを付けており機構的にすぐさま付けれる構造になっていた。指を見ると爪は短いが紫、ピンク、紅色が付いている。汚れているんだろうか?と思いつつもう少し観察しようとする。すると狼牙の低い声が聞こえて来た。
「おい、紫苑。うるせぇぞ」
この『女性』はどうやら紫苑と言う名前らしい。狼牙はそう言うと紫苑の頭を軽く叩いた。急に叩かれたからなのか紫苑は高い声を裏返りながら出す。かなり驚いていた。
「ひぃっ、何するんスかボス〜。急に触られたらびっくりするじゃないスか。」
声が少し揺れている。何故か狼牙が焦ったような顔をして答える。少し冷や汗を垂らしながら言う。
「っわりぃ」
その目には若干の不安と焦りがあった。凪はそれを理解しようとするが出来ない。直後、また紫苑の高い声が響く。
「ねぇねぇ、あんた名前あんの?」
それが紫苑なりの配慮なのか、それとも紫苑の実体験から来るものなのか。普通は初めに名前を聞くものだと言うのに彼女は名前があるかを聞いてきた。
「…………凪?」
紫苑が返事を答えを聞いた瞬間、顔がパァッと明るくなる。どうやら返事を貰ったことに喜んでいるみたいだ。
「っ名前あるんスか!それはいいっスね」
純粋に、只々純粋な目で言っている。その目を見ていると眩しくなってしまうほど。しかしこの『名前』は狼牙が先ほど付けたものだ。食い違いがあると思い何か言おうとする。すると狼牙が代わりに訂正する。
「さっき付けたんだよ。元はねぇよ」
少し呆れながら、そして気まずさを目に浮かばせながら言う。それを聞き紫苑は目を泳がせ始めた。恐らく失礼な事を聞いてしまったと思い気まづくなってしまったのだ。
「あ〜、そっ……か。ゴメンね、変なこと聞いちゃったっスね。」
かなり焦っているのか少し言葉が辿々しくなっている。その場に耐えかねたからなのか
「じゃあ、元気そぉなんでアタシの出番はないっスよね。じゃあアタシはこれで……」
と言うと逃げるように部屋から去ってしまった。狼牙は呆れたような顔で紫苑を見送りこちらを見た。気まずそうな顔をしながら言う。
「悪ぃな。…悪気がある訳じゃねぇんだ」
何とか紫苑の発言をカバーしようとする姿が見られた。その言葉を聞いてゆっくりと儚いような声で答える。
「……問題ない」
凪は心の底からどうでもよかった。自分の居場所も、自分のこれからも。彼女は自分で、自分のことを死人として見ていた。
「そうか。とりあえず当分は紫苑…さっきの奴に、えーと常識?を教えさせるから」
そう言うとゆっくりと扉を閉め部屋を出て行った。凪にはこれからどうなるのかも、どうするべきなのかも分からなかった。ただ一つ、彼女は自分の事でさえも理解出来ていない。
Ⅲ『狼牙』でプロローグは最後です。




