3.訪問者
いかがお過ごしでしょうか。
もうすぐ年の瀬。大掃除は来年に持ち越しになりそうです。
この物語は、完結まで毎日更新を心がけております。
それでは、よろしくお願いいたします。
大掃除なんていつやった?
翌日の夜、重い足取りでアパートへ帰り着いたおれの視界に、異質な影が飛び込んできた。
建物の薄暗い共用灯の下、おれの部屋のドアに背を預けて立っている男がいる。
心臓がドクンと跳ね上がり、喉の奥が引き攣った。
逃げようにも、足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。
「よお、待ってたぜ。帰りが遅いんだな、大学生」
聞き覚えのある、低くてどこか楽しげな声。
街灯の逆光の中に浮かび上がったのは、あのカフェにいた若い男だった。夜の闇に溶け込むようなラフな格好だが、その佇まいからは隠しきれない殺気が微かに漏れ出している。
「な、何で……ここを」
「お前の車のナンバーから割り出した。このご時世、金とコネさえあれば案外簡単なんだぜ。お前の大学の専攻まで調べがついている。情報工学…だっけ?頭いいんだな」
男は悪びれもせずに白い歯を見せて笑った。発した言葉には揶揄を感じる。その軽薄さが、逆に底知れない恐怖を煽った。
「……おれを、殺しに来たのか?」
震える声で絞り出した問いに、男は一瞬虚を突かれたような顔をした後、腹を抱えて噴き出した。
「殺す? まさか。そんな物騒な用事じゃない。ちょっと話がしたいだけさ。……おい、中に入れてくれよ。こんな廊下で立ち話じゃ、近隣住民に迷惑だろ?」
断る選択肢など、最初から与えられていなかった。
おれは震える指先で鍵を開け、死神を招き入れるような心地で男を部屋に入れた。
男は、まるで己の隠れ家に帰ってきたかのように、勝手にソファへ深く腰を下ろした。
四畳半のワンルームが、彼の存在感だけでひどく狭苦しく感じられる。
「狭い部屋だな。いかにも学生の一人暮らしか。……あ、吸っていいか?」
彼はジャケットの内ポケットから皺の寄ったタバコを取り出そうとした。
「……ダメだ。吸わないんだ、おれは」
「そうか、規則正しいことで」
彼は肩をすくめてタバコをしまい、鋭い眼光をおれに向けた。獲物を観察するようなその目には、確かに「遊び」の要素が含まれている。
「名前、何て言うんだ?」
「……陽介」
「俺は冴木。冴木圭吾だ。まあ、よろしくな、陽介」
家も専攻もバレてるなら、名前なんてとっくに分かってたはずだ。
皮肉な笑みを浮かべる彼に対し、おれは壁に背をつけたまま問いかけた。
「……用件は何ですか。おれを消しに来たんじゃないなら、何のために」
「単刀直入に言う。あの仕事、手伝わないか?」
「は……?」
あまりに唐突で、現実味のない提案に、声が裏返った。
「だから、火曜の仕事だよ。お前も参加しろって言ってるんだ」
「ふ、ふざけないでください! おれはただの学生だ。あんなヤバい計画、関係ない。たまたま……運悪く、聞いただけだ!」
「ああ、そうだな。たまたまだ。だが、お前は『国家機密』の奪還計画を聞いちまった。それが問題なんだよ、陽介」
冴木は身を乗り出し、声を一段低くした。
「あのスーツの男——依頼主は、その場で弾いてお前を消すつもりだった。だが、俺が止めたんだ。こいつは使える、とな」
「……なんで? おれに何ができるって言うんだ」
「面白そうだったからだよ。あのカフェでお前、死ぬほどビビってただろ? スマホを落として、冷めたコーヒーを必死に煽って逃げ出した。あの反応を見て、俺は直感したんだ。こいつ、普通の奴だなって」
「普通で悪かったな……」
「褒めてるんだ。俺たちの世界に長くいると、普通の感覚ってのが摩滅しちまう。お前のその『怯え』こそが、土壇場で冷静な判断を下すトリガーになる」
冴木は組んだ足の上で指先を遊ばせた。
「お前にハンドルを握ってトラックを襲えなんて言わない。お前の役割は、情報収集と監視だ。中央高速の数キロ手前で状況を見張り、警察や不審な車両の動きを俺に流す。それだけだ」
「それだけって……そんなの、おれじゃなくても」
「報酬は五百万だ。現金で、足がつかないように渡してやる」
「五百……」
息が止まった。大学生にとって、それは想像もつかない大金だ。何年バイトをすればたどり着けるのかもわからない数字。
「悪くないだろ? リスクは最小限だ。お前は現場の血生臭い場所には立ち入らない。ただ、遠くから眺めて伝えるだけで、四年間を遊んで暮らせる金が手に入る」
冴木は立ち上がり、ゆっくりとおれに歩み寄った。その瞳が、おれの心の奥底、誰にも見せていない暗部を見透かすように光る。
「それに、陽介。お前、退屈してたんだろ? 毎日毎日、同じ講義を受けて、同じバイトをして……そんな死んだような日常に飽き飽きして、あの山奥まで逃げ出したんじゃないのか?」
「……なんで、そんなこと」
「顔に書いてあったよ。……『何か、変わったことないかな』ってな」
図星だった。心臓を直接掴まれたような衝撃。
おれが独り言で呟いた言葉を、この男はまるで見透かしていた。
恐怖。忌避感。
けれど、それ以上に、心の奥底で熱い何かが脈打つのを感じた。
崖っぷちに立たされているというのに、おれの脳は、この破滅的な誘いに抗いがたい魅力を感じ始めていた。
「どうだ? 薔薇色のキャンパスライフより、よっぽど刺激的な火曜日になるぜ」
冴木の差し出した手が、おれには蜘蛛の糸のようにも、奈落への招待状のようにも見えた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が耳元でうるさく脈打っている。非日常の毒が、じわじわとおれの思考を侵食していく。
だが、その熱に浮かされそうになる脳の片隅で、冷徹な理性がブレーキをかけた。情報システム専攻なんて大層な看板を背負わされているせいか、おれの頭は不自然に計算を始めていた。
「……話が、うますぎる」
おれは冴木の差し出した手を取らず、掠れた声で言った。
「五百万なんて大金を、ただの大学生に払う保証がどこにある。あんたたちの仕事が終わった後、口封じにおれを消せば、あんたたちは一円も払わずに済む。リスクを負って監視をしたところで、おれには『死ぬ』か『タダ働き』の二択しかないんじゃないか?」
冴木は差し出した手をゆっくりと引っ込めると、意外なものを見るような目で、おれをまじまじと見つめた。それから、先ほどよりも一層深い、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「いいね、陽介。そういう『疑い』を持てる奴は長生きする。お前、やっぱり向いてるよ」
冴木はソファの背もたれに再び体重を預け、天井を仰いだ。
「確かに、俺たちの世界に『契約書』なんてものはない。あるのは利害の一致だけだ。だがな、一つ教えてやる。俺たちが一番嫌うのは、不必要な死体と、それによって引き起こされる余計な捜査だ」
彼は視線を落とし、おれの目を真っ直ぐに射抜いた。
「お前を消せば、警察は『ただの強盗事件』じゃなく『殺人事件』として全力で動く。五百万をケチるために、国家権力を本気で敵に回すほど俺たちは馬鹿じゃない。それに……」
冴木は声を潜め、獲物を誘う蛇のような質感で囁いた。
「お前を気に入ったと言ったのは、嘘じゃない。この仕事には、今後も『普通の感覚を持った目』が必要になる。五百万は、お前という優秀な資産を確保するための『先行投資』だと思えばいい」
先行投資。その言葉が、おれの歪んだ自尊心を絶妙にくすぐった。
「どうするかは、お前が決めろ。だが、俺を信じないなら、お前を消し損ねた依頼主が黙っちゃいない」
冴木は、声をさらに低くして続けた。
「さっき言った『俺たち』に、依頼主は含まれてないからな。言ってる意味、分かるよな?あいつらはもっと合理的で、もっと冷酷だ。俺が間に入ってなきゃ、お前は今夜にでもバラバラにされてるぜ」
冴木の言葉には、暴力的なまでの説得力があった。
おれは恐怖に震えながらも、心のどこかで彼に縋りたいと思っている自分を否定できなかった。
「……一つだけ、条件がある」
「ほう、なんだ?」
「……前金だ。あんたが嘘をついていないという証拠が欲しい」
冴木は一瞬の沈黙の後、愉快そうに肩を揺らした。
「ははっ、大学生のくせに図太いな! 気に入ったぜ」
彼はジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、分厚い封筒を取り出し、おれのボロいデスクの上に放り投げた。重たい音が響く。
「五十万だ。お前の言う『信用の証』としちゃ十分だろ?いい返事が聞けたら、追加で五十万を前金として渡そう。 残りの四百万は、仕事が終わった直後に手渡してやる」
おれは震える手で封筒の中身を確認した。見たこともないような札束の山。その生々しい感触が、これから起きる事の重大さを、どんな言葉よりも深くおれの脳に刻みつけた。
「いい返事を待ってるぜ、陽介」
冴木は軽やかな足取りでドアに向かい、ノブに手をかけたところで、思い出したように肩越しに振り返った。
「あ、そうだ。一応釘を刺しといてやる」
彼の瞳から「遊び」が消え、底冷えするような暗い光が宿る。
「警察に行こうなんてのは、最悪の選択肢だ。あの依頼主の組織は、お前が想像するよりずっと深く、根を張っている。制服を着た連中の中にも、奴らの息がかかった奴はごまんといる。通報の電話を切る前に、お前の背後に掃除屋が立ってることになるぜ」
「……」
「じゃあな、陽介。賢い選択を期待してるぜ」
ドアが閉まり、軽快な足音が遠ざかっていく。
おれはその場に崩れ落ちるようにソファへ座り込んだ。
お読みいただきありがとうございます。
それにしても、愛煙家は肩身が狭いですね。
昔、水ダウでやってた「愛煙家 喫煙所までの道のりがどんなに困難でも向かっちゃう説」というのを思い出しました。愛煙家には申し訳ないですが、めちゃくちゃ面白いし、感慨深い内容でした。
前書きのこたえ
覚えてない……(掃除キャンセル界隈)




