2.非日常の闇
2話です。
あんまり状況は変わらないですが、確実に闇が近づいてきます。
よろしくお願いします。
ところで、父親から譲り受けた中古セダンって何なんでしょうか。
店を飛び出したおれの背中に、山の冷たい空気が張り付く。
足元がおぼつかないまま砂利を蹴り、愛車の運転席へ滑り込んだ。
震える手でキーを回すと、いつもは頼りないエンジンの始動音が、今はあまりに騒がしく、周囲に自分の存在を主張しているようで恐ろしかった。
バックミラーを覗くと、店の入り口にあのスーツの男が立っていた。微動だにせず、彫像のような冷たさでこちらを見つめている。距離はあるはずなのに、その射抜くような視線がおれの項をじりじりと焼くのがわかった。
「クソッ、来るなよ……!」
ギアを叩き込み、半クラッチもそこそこにアクセルを踏み抜いた。タイヤが砂利を派手に撥ね飛ばし、セダンの車体が悲鳴を上げて加速する。
下りの急カーブを、タイヤを鳴らしながら強引に曲がる。ミラーを確認するたび、心臓が口から飛び出しそうになった。
誰も追ってきていない。ただの山道だ。
だが、あの男の網膜には、おれの顔も、そしてこの古びた車のナンバーも、鮮明に焼き付けられてしまったのではないか。
その疑念が、逃げ場のない毒のように全身を回っていった。
「どうする……どうすればいい……」
ハンドルを握る掌は、嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。
警察に駆け込むべきか? いや、何を話せばいい?山奥のカフェで、二千万の報酬で軍用トラックを襲う計画を聞きました、と? 証拠はどこにある。録音もしていない、ただの大学生の「空耳」で片付けられるのが関の山だ。
それに、あの男の言葉が呪文のように脳裏を離れない。
『失敗すれば、お前の存在そのものがこの世から抹消される』
あの冷徹な声は、決して誇張などではない。セリフも、おれに向けられたものではないにしろ、おれのような名もなき大学生の存在を消し去ることなど、彼らにとってはただの日常業務に過ぎないのだ。もし通報して、そこに内通者がいたら?おれは、自分の死刑執行書にサインをしに行くようなものではないのか。
街へ戻る頃には、空はどろりとした残照を纏い、不吉な赤紫に染まっていた。
見慣れたアパートの駐車場に車を滑り込ませ、周囲を何度も見渡してから自分の部屋に駆け込む。
三重に鍵をかけ、チェーンを引き、窓には厚手のカーテンを隙間なく閉め切った。ようやく辿り着いた六畳半の「城」は、しかし以前のような安らぎを失っていた。
ベッドの縁に崩れ落ち、頭を抱えて暗闇の中で息を吐く。
「おれ、何を聞いちゃったんだ……」
恐怖が波のように押し寄せ、身体の震えが止まらない。
だが、その激しい動悸の混じりの中に、別の、もっと得体の知れない感情が混じっていることに気づいた。
喉の奥が、乾いたように熱い。
あんなに嫌気がさしていた「退屈な日常」が、たった数時間のドライブで一変してしまった。
今、おれはこの世界で、自分だけが知っている「巨大な秘密」を抱えている。
恐ろしい。間違いなく、命の危険がある。
けれど、それと同時に、これまでに感じたことのないほど「生きている」という感覚が全身を駆け巡っていた。
心の奥底、澱のように溜まっていた虚無感の隙間に、どす黒く、しかし鮮烈な輝きを放つ「非日常」が入り込んできたのだ。
おれは、こういう「何か」を待っていたんじゃないか。
平穏な四年間と引き換えにしてもいいほどの、破滅的な刺激を。
暗い部屋の中で、割れたスマホの画面をそっとなぞった。
案の定、その夜おれは、一睡もできなかった。
目を閉じると、あのカフェの静寂と、男の氷のような視線が瞼の裏に鮮明に蘇る。
耳元では「二千万」という数字と「機密物資」という不穏な単語が、呪文のように繰り返された。恐怖と好奇心が交互に襲ってきて、気が休まるどころではなかった。
翌朝、おれは重たい体を引きずって、大学へ向かうことにした。一日ぐらいなら大丈夫だろうが、何日も休んでしまうと、さすがに友人に心配されるだろう。日常に戻るなら、今日をおいて他にはない。
それでも玄関扉を開くときは、昨日の恐怖がよみがえって、普段より慎重になった。扉のすき間から漏れる光、歩行者信号の音、街ゆく車、駅へ急ぐサラリーマン──それら全ては、あまりにも普段通りの光景だった。
いつもと同じ、退屈なはずの講義。
だが、教壇で淡々と喋る教授の声は、まるで遠い異国の言語のように頭の上を通り過ぎていく。
周囲の学生たちが交わす「バイトがだるい」「次の休みはどこへ行く」といった平和な会話が、まるで安っぽい舞台の書き割りのように白々しく見えた。
昨日までおれも、その「書き割り」の一部だったはずなのに。
昼休み。騒がしい学食の片隅で、おれは無心にスマホの画面をスクロールしていた。
「軍事」「輸送」「機密」……。どんなワードを検索しても、ヒットするのは軍事マニアのブログか、海外の古いニュースばかり。
当然だ。そんな国家の根幹に関わる計画が、一般公開されているはずがない。
「なあ、陽介。お前、さっきから聞いてる?」
不意に正面から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。
友人の田中だ。
「あ、ああ。……何だっけ?」
「何だっけ、じゃないよ。来月のサークルの合宿、車出せるかって聞いてんだ。……ていうかお前、なんか疲れてないか? 顔色が悪いぞ」
「……ちょっと、バイトが立て込んでてさ。寝不足なんだ」
引き攣った笑顔を無理やり貼り付ける。
田中は訝しげに眉を寄せたが、「あんまり無理すんなよ」とそれ以上は追及してこなかった。その気遣いが、今の自分にはひどく残酷に感じられた。
おれだけが、彼らが生きる「平和な世界」から、一方的に切り離されてしまった。
その日の夜。おれは部屋の明かりを消したまま、暗闇の中でカレンダーを見つめていた。
来週の火曜日、深夜二時、中央高速。
あと、八日。
おれに何ができる? 警察に行く勇気はまだない。
証拠がないどころか、逆に「虚偽通報」や「業務妨害」として扱われるリスクさえある。何より、あの男たちの背後にいるであろう「組織」が、警察の内部にまで食い込んでいないという保証がどこにある?
このまま何もしなければ、おれの命は助かるかもしれない。
だが、その時、中央高速では何が起きる? 銃撃戦か、あるいは爆発か。見知らぬ誰かの血が流れ、この国の「安全」という神話が密かに崩れ去る。
おれはただの、平凡な大学生だ。ヒーローになりたいわけじゃない。関わるべきじゃない。
……そう自分に言い聞かせ、逃げる口実を探していた。
その時だった。
デスクの上で、スマホが短く、鋭く震えた。
知らない番号からの、一通のメッセージ。
『余計なことは考えるな。お前の居場所は把握した』
心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走り、呼吸が止まった。画面を凝視する間もなく、続けざまに二通目が届く。
『大人しくしていろ。それが、お前のためだ』
指先が凍りつき、スマホを握りしめたまま身動きが取れなくなった。頭の中を支配したのは、純粋な、剥き出しの恐怖だ。
おれの住所、名前、そして番号。すべてが、あの「氷の視線」の主には筒抜けなのだ。
おれは震える膝を押さえながら、暗い部屋の中を狂ったように見回した。
何重にもかけた鍵も、閉め切ったカーテンも、もはや何の盾にもならない。壁の向こうに、あるいはアパートの前の暗がりに、誰かが潜んでいるのではないか。
逃げるか? 引っ越すか? ……いや、そんな金も猶予もない。居場所がバレてる以上、今さら動いたってまた見つかる。その上、今動くこと自体が「大人しくしていない」と判断されるおそれだってある。
警察に行く?
けれど、このメッセージを見せた瞬間に、おれの人生は終わるのではないか?
結局、その夜も、おれは朝の光が差し込むまで、ただ暗闇の中で自分の鼓動を聞き続けることしかできなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次のお話で急展開がありそうな予感です。
前書きのこたえ
なんだろう…陽介は車に興味がないので分かりません
そのうち分かるといいね!




