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第二十二話:夢見鳥のハミングバード

カイさんの手の中にある、小さな木彫りの鳥。

それは、手のひらに収まるほどの大きさでありながら、まるで今にも飛び立ちそうなほどの生命感を宿していた。精巧に彫られた羽の一枚一枚、小さなくちばしの先まで、職人の魂が込められているのが分かる。


「これは**『夢見鳥のハミングバード』**。私の、ささやかな作品の一つです」


カイさんは、その木彫りの鳥を、慈しむように指で撫でながら説明した。


「この子に魔力を込めると、人の耳には聞こえない、特殊な音波を発しながら飛び回ります。その音波を浴びた者は、深い眠りに落ちるわけではない。ただ、抗いがたいほどの心地よい眠気に襲われ、最も幸せだった頃の、温かい夢を見始めるのです。心に何のわだかまりもない者ほど、その効果は顕著に現れる」


強制的に眠らせるのではなく、幸せな夢へと誘う。そのあまりにもカイさんらしいやり方に、私は、この極限の状況の中にあっても、ふっと笑みをこぼしそうになった。


「……なるほどな。眠らせるんじゃなく、"夢を見させる"か。確かに、それなら、万が一誰かが無理やり起こそうとしても、すぐには覚醒できねえだろう。夢の世界から、現実に戻ってくるには、時間がかかるからな」


ゴードンが、感心したように唸る。


「問題は、どうやって、この子を兵士詰所の近くまで行かせるか、です」とカイさんは言った。「扉を開ければ、我々の姿が見られてしまう」


私は、食料庫の壁にそっと手を触れ、意識を集中させた。

「……カイさん。壁の、あの上の方。ネズミが通り抜けるための、古い通気口があります。今は、埃でほとんど塞がれていますが、リヒトくらいの大きさなら、通り抜けられるかもしれません」

「なにっ!? おい、リリアーナ! 俺様をネズミと一緒にするんじゃねえ!」


フードの中から、リヒトが抗議の声を上げる。


「リヒト、お願い。あなたしかいないの」

「うぐっ……しょ、しょうがねえなあ! 姫様直々のご指名とあらば、このリヒト様が、一肌脱いでやるぜ!」


計画は決まった。

カイさんは、ハミングバードの背にある、小さな窪みに、鎮静効果のあるハーブを数滴垂らした。そして、その小さな体に、そっと魔力を込める。

すると、木彫りだった鳥は、まるで命を吹き込まれたかのように、その場で、音もなく、ふわりと宙に浮いた。


リヒトが、壁の通気口まで、よいしょ、と音を立てながらよじ登り、詰まっていた埃を、小さな体で押し出す。そして、その隙間から、カイさんの手の中にあるハミングバードを受け取った。


「いいか、リヒト。詰所の真上あたりで、この子を放すんだ。決して、見つかるんじゃないぞ」

「任せとけってんだ!」


リヒトは、ハミングバードを大事に抱えると、通気口の闇の中へと消えていった。

私たちは、息を殺して、その成功を祈る。

壁の向こう側から、ごそごそ、という小さな物音が聞こえ、やがて、それも聞こえなくなった。


どれくらいの時間が経っただろうか。

扉の向こう側から聞こえてきていた、兵士たちのけたたましい笑い声や、がさつな話し声が、次第に、その数を減らしていくのが分かった。


「……なんだか、眠くなってきたな……」

「ああ……俺もだ。昨日の見張りは、やけに疲れた……」

「……母さんの、パイの匂いがする……」


兵士たちの声が、どんどん、呂律の回らない、夢うつつなものへと変わっていく。

私は、扉に手を触れ、その向こう側の気配を探った。

兵士たちの心の中から、警戒心や、退屈といった感情が、すうっと消えていくのが分かる。代わりに、温かく、穏やかで、幸せな感情の波が、部屋全体を満たしていく。


ある者は、故郷の恋人と、花畑を散歩する夢を。

ある者は、幼い頃、父親に肩車をしてもらった、祭りの日の夢を。

ある者は、ただ、温かい暖炉の前で、うたた寝をするだけの、何でもない幸せな夢を。


彼らは、決して、根っからの悪人ではない。ただ、家族を養うため、あるいは、自らの信じる正義のために、この砦にいるだけの、普通の人間なのだ。その事実に、私の胸は、少しだけ、ちくりと痛んだ。


やがて、扉の向こう側からは、穏やかな寝息だけが聞こえるようになった。

通気口から、リヒトが、誇らしげな顔でひょっこりと戻ってくる。


「……よし、今のうちです」


カイさんの合図で、私たちは、再び、音もなく扉を開けた。

兵士詰所の中は、カイさんの言った通りの光景が広がっていた。テーブルに突っ伏して眠る者、壁に寄りかかって満足そうな顔でいびきをかく者。全ての兵士が、幸せな夢の世界の住人となっていた。


私たちは、眠る彼らの間を、猫のように、静かに、そして素早く通り抜けていく。

そして、ついに、砦の中央階段へとたどり着いた。

そこは、これまで通ってきた薄暗い通路とは、明らかに空気が違っていた。天井は高く、壁には、この砦の歴史を描いたであろう、色褪せたタペストリーが掛けられている。そして、中央には、巨大な大理石を削り出して作られた、威厳のある螺旋階段が、上階へと続いていた。


ここが、私が感じた、砦の「心臓部」。

この階段の礎石には、この砦の、数百年分の記憶が、全て刻み込まれているはずだ。


「……見事なもんだな」

ゴードンが、感嘆の息を漏らす。


だが、私たちが、その階段へと、第一歩を踏み出そうとした、その時だった。


私の心の中に、直接、声が響いてきたのだ。

それは、誰の声でもない。この砦そのものの、古く、重々しい、警告の声だった。


『――何人たりとも、許さぬ。この先は、王家の血と、その守護者以外、通すことは、できぬ――』


その声と同時に、階段の一段目が、ぼうっと、青白い光の壁となって、私たちの行く手を阻んだ。それは、物理的な壁ではない。だが、触れれば、魂ごと弾き飛ばされそうな、強力な拒絶の意思が、そこにはあった。


「……結界、か」


カイさんが、苦々しげに呟く。

ハミングバードの力は、ただの人間には通用しても、この砦自身が持つ、古代の魔法の前では、無力だった。


予期せぬ、絶対的な障害。

リリアーナたちは、ただ、その青白い光の壁の前で、立ち尽くす。

父への道は、すぐそこに見えているのに、その最初のたった一段が、あまりにも、あまりにも、遠かった。

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