第二十一話:砦の脈動と心臓の石
階段の先から聞こえてくる、微かな物音。それは、この砦が、眠っているのではなく、確かに生きている証だった。私たち四人は、階段の下で、互いの顔を一度だけ見合わせ、静かに、しかし力強く、頷き合った。
ゴードンを先頭に、私たちは、音もなく、一段、また一段と、石の階段を上っていく。ひんやりとした壁を伝ってくるのは、石そのものの冷たさだけではない。長い年月、ここに蓄積された、規律と、緊張と、そして時折の暴力の記憶。その気配が、肌を粟立たせる。
階段を上りきると、そこは、分厚い木製の扉で塞がれていた。カイさんが、屈み込んで、その古い錠前を検める。
「……単純な作りの錠前だ。だが、無理に壊せば、大きな音が響く」
「わしが、体当たりで……」
「いえ、ゴードンさん」
言いかけたゴードンを、私は、そっと手で制した。
「私に、試させてください」
私は、その古い錠前に、そっと手を触れる。そして、意識を集中させた。ただ「開けて」と願うのではない。この錠前の、記憶の奔流の中から、ただ一つの映像を探し出すのだ。
(最後に、この扉を開けたのは、誰? その時、鍵は、どう動いたの?)
私の問いかけに応えるように、錠前の記憶が、私の脳裏に流れ込んでくる。太い指、汗ばんだ掌、そして、鍵が差し込まれ、回される瞬間の、金属同士が擦れ合う微かな感触。私は、その鍵の形と、錠の内部で心棒が動く軌跡を、頭の中に、はっきりと描き出した。
「カイさん。中の構造が、見えます。貴方のその細い金具で……まず、右に少し。そして、三番目の歯を、ゆっくりと押し上げてください」
私の言葉を、カイさんは、一切の疑いなく信じてくれた。彼は、懐から取り出した、一本の針金のような細い金具を、鍵穴に差し込む。そして、私の「心の目」が捉えた映像の通りに、その金具を、慎重に、慎重に、動かしていく。
カチリ、と。
ほとんど音もしない、ごく小さな手応えがあった。
カイさんは、静かに、扉の取っ手を引く。ギ、という微かな軋み音と共に、扉は、私たちのために、道を開いた。
扉の向こうは、ゴードンの推測通り、薄暗い地下の食料庫だった。天井から吊るされた干し肉、山と積まれた小麦粉の袋、そして、ワインやエールの樽が、所狭しと並んでいる。私たちは、音もなく中へと滑り込み、再び、扉を閉じた。
「……姫様。あんた、一体、どんな魔法を……」
ゴードンの、驚愕に満ちた囁き声に、私は、静かに人差し指を口に当てた。
ここからが、本番だ。
闇雲に動くのは危険すぎる。まずは、情報を集めなければ。私は、この食料庫に満ちている、様々な物の「声」に、耳を澄ませた。
近くにあった小麦粉の袋に、そっと触れる。
(重い……早く運んでくれ……腰が痛い……)
(今年の税は、あまりにも過酷だ……子供たちに、腹いっぱいのパンを食べさせてやれない……)
兵士たちの労働の記憶と、その小麦を納めた農民たちの、悲しみと、怒りの声が聞こえる。アネットの悪政の爪痕は、こんな場所にも、深く刻み込まれていた。
次に、ワインの樽に意識を向ける。
(今日の当直は、ルドルフ大尉か……あの人は、規律に厳しすぎる)
(ああ、早く交代の時間にならないか。故郷の許嫁が、夢に出てきた)
(王都は、今頃、華やかな舞踏会だろうな……)
兵士たちの、退屈と、不満の声。彼らの士気は、決して高くない。そして、指揮官であるルドルフ大尉が、部下たちから「厳しすぎる」と思われていることも、分かった。これは、使える情報かもしれない。
「おい、リリアーナ」フードの中から、リヒトが囁く。「あそこの壁に掛かってる槍、見てみろ。穂先が、少し曇ってるぜ。手入れが行き届いてねえ証拠だ。王都の近衛兵に比べりゃ、ここの連中の練度なんざ、三流もいいところだな」
リヒトの鋭い指摘も、重要な情報だ。
私たちは、敵の懐深くにいながら、その内情を、少しずつ、しかし確実に、掴みつつあった。
問題は、父のいる、最上階の塔へ、どうやってたどり着くかだ。
「この砦の"心臓部"……つまり、最も古く、最も多くの記憶を持つ石を探してください。砦全体の構造を、その石は知っているはずです」
カイさんの助言を受け、私は、再び目を閉じた。意識を、この食料庫から、壁を通り抜け、床を突き抜け、砦全体へと、大きく、大きく、広げていく。それは、静かな湖に、自分の心を一滴の雫として落とすような感覚だった。
波紋が、広がっていく。
鍛冶場の、槌の音と熱気が「叫び」となって返ってくる。
兵舎の、いびきと寝言の「ざわめき」が返ってくる。
そして、砦の中央。ひときわ巨大で、古く、そして、威厳に満ちた、深い、深い、「眠りの鼓動」が、私の心に響いてきた。
中央階段の、礎石だ。
私は、その礎石の記憶に、自分の意識を同調させていく。すると、砦のおおまかな構造図が、まるで設計図のように、私の頭の中に、流れ込んできた。
目を開けた私は、皆に告げた。
「……分かります。父上がいるのは、やはり、最上階の東の塔。そこへ行くには、この先の兵士詰所を抜け、中央階段を三階まで上る必要があります」
具体的なルートが、見えた。
だが、同時に、最大の障害も、明らかになった。
「兵士詰所……。そこを抜けるのは、至難の業だ」
ゴードンが、厳しい顔で唸る。「奴らは、交代で、常に誰かが起きている。夜でも、だ」
彼の言う通り、食料庫の扉の向こう側からは、複数の兵士たちの話し声や、時折響く、けたたましい笑い声が、微かに漏れ聞こえてきていた。
どう、切り抜けるか。
皆が息を殺して、次の言葉を待つ中、カイさんが、静かに、そして、不敵に微笑んだ。
彼は、懐から、一つの、手のひらよりも小さな、木彫りの鳥を取り出した。精巧に作られた、美しいヒバリの彫刻だ。
「……ならば、全員に、少しだけ"良い夢"を見ていただきましょうか」
カイさんの手の中にある、小さな木彫りの鳥。
それが、この鉄壁の砦に、最初のささやかな混乱を巻き起こす、小さな嵐の目になる。
リリアーナは、息を殺し、その翼が闇に放たれる瞬間を、じっと待つ。




