第二十話:地下水路の闇と声なき扉
冷たい岩肌に背を預け、私たちは、息を殺して夜明けを待った。
永遠のようにも思えた闇の時間が過ぎ、東の空が、インクを水で薄めたように、ゆっくりと白み始める。遠くで、鳥の鳴き声が聞こえた。
「……時間です」
カイさんの静かな声が、緊張に満ちた空気を破った。
私たちは立ち上がり、巨大な岩で塞がれていた、かつての水路の入り口へと向かう。カイさんが、岩の表面にそっと手を触れた、その瞬間だった。
ごう、という音もなく。
まるで幻影であったかのように、あるいは、長い年月をかけて風化した砂の城のように。巨大だった岩が、さらさらと、静かに、その形を失っていく。その神秘的で、少し不気味な光景に、歴戦の猟師であるゴードンでさえ、息を呑むのが分かった。
やがて、岩は完全に砂と化し、その向こう側に、黒々とした、洞窟のような入り口が姿を現した。中からは、ひんやりとした、カビと湿った土の匂いが、まるで古い時代の吐息のように、漂ってくる。
道は、開かれた。
私たちは、顔を見合わせ、静かに、しかし力強く頷き合った。
「これより、潜入を開始します。ここからは、音を立てないことが絶対条件です」
カイさんはそう言うと、荷物の中から、手のひらサイズの革バンドを三組取り出した。靴の上から装着するもので、裏には、猫の肉球のような、柔らかな素材が貼り付けられている。
「『静寂の靴音』。これを着ければ、足音は完全に消えます。ゴードンさんも、これを」
「……ありがてえ」
ゴードンは、ぶっきらぼうに礼を言うと、その不思議な道具を手際よく自分のブーツに装着した。
次に、カイさんは、手のひらサイズの、滑らかな丸い石を取り出した。
「松明では、煙と光が目立ちすぎる。これは**『導き石』**。前方を、ぼんやりと照らすだけの、ごく弱い光を放つ道具です」
カイさんが石に魔力を込めると、石は、まるで蛍のように、穏やかで優しい光を放ち始めた。闇を完全に払うほどではないが、足元を確かめ、進むべき道筋を見るには、十分な光量だ。
私は、フードにもなる『月影のマント』を深く被り、リヒトごと、その闇色の布で身を隠した。カイさんも、似たような闇色の外套を羽織っている。
「では、行きます。ゴードンさん、先導を。私は、リリアーナさんのすぐ後ろに」
「おう、任せとけ」
ゴードンの屈強な背中が、最初に、洞窟の闇へと吸い込まれていく。
私は、深呼吸を一つして、その後に続いた。私のすぐ後ろから、カイさんの気配が伝わってくる。それが、何よりの心強さだった。
地下水路の中は、外の世界とは完全に隔絶されていた。
壁は、湿った滑らかな苔で覆われ、天井からは、ぽつり、ぽつりと、冷たい水滴が滴り落ちている。その音が、不気味なほどに、静寂の中に響き渡る。不快な臭いはなく、むしろ、古い遺跡の中にいるような、清浄で、厳かな空気さえ感じられた。
道は、人間が一人、ようやく通れるほどの幅しかない。私たちは、一列になって、慎重に進んでいく。
しばらく進むと、道が二手に分かれている場所に突き当たった。どちらも、同じような闇が続いているように見える。
「ちっ、こいつは聞いてねえな。どっちが当たりだ?」
ゴードンが、低い声で毒づいた。
私は、一歩前に進み出ると、それぞれの道の入り口の壁に、そっと手を触れた。
目を閉じ、意識を集中させる。
右の道からは、何も感じない。ただ、冷たく、閉ざされた石の感触があるだけだ。
だが、左の道からは、微かに、ほんの微かに、空気が流れているのを感じる。そして、その先の石たちが、「久しぶりの風だ」「もっと、光を」と、微かにざわめいている声が聞こえた。
「……左です。こちらから、微かに、空気の流れを感じます」
「おい、リリアーナ。こっちの道、なんだか空気が澱んでやがる。気味の悪い感じだぜ」
フードの中から、リヒトが私の判断を裏付けるように囁いた。彼の鋭い感覚も、右の道の淀みを嫌っているらしい。
「……姫様を信じよう」
ゴードンの決断で、私たちは左の道へと進んだ。
さらに進んだ時だった。先行していたゴードンが、ぴたりと足を止めた。
『導き石』の光が、その先の障害物を照らし出していた。
私たちの行く手を阻んでいたのは、錆びついた、分厚い鉄格子でできた扉だった。何十年も前に設置されたものだろうか、巨大な錠前で、固く閉ざされている。
「カイの旦那、どうする。こいつは、びくともしねえぞ」
「……酸で、蝶番を溶かすことは可能です。ですが、少し時間がかかりすぎる上に、刺激臭が地上に漏れる危険性がある。それは、最後の手段です」
カイさんがそう答えると、私は、一歩前に進み出た。
「カイさん、ゴードンさん。私に、少しだけ時間をください」
私は、そう言うと、冷たい鉄格子に、そっと両手を触れた。そして、意識を集中させ、この扉の「声」を聞こうと試みる。
私の心の中に、鉄格子の、頑固で、重々しい意思が流れ込んできた。
『通さぬ。我は門番。我が役目は、ここを閉ざし続けること』
それは、憎悪や悪意ではない。ただ、永い年月、与えられた役目を、忠実に、ただひたすらに、守り続けてきた者の、誇りと執念だった。
力ずくでこじ開けようとすれば、この扉は、その誇りにかけて、決して開かないだろう。
私は、アプローチを変えた。扉に抵抗するのではなく、その心に、寄り添うように。
(あなたは、とても長い間、本当によく、その役目を果たしてきたのですね。誰にも知られず、褒められることもなく、この暗闇の中で、ずっと……。あなたのその誇りを、私は、尊敬します)
私の想いが、指先から、鉄格子へと流れ込んでいく。
頑なだった扉の心が、ほんの少しだけ、揺らいだ気がした。
(ですが、もう、その役目から、解放されても良いのですよ。貴方をここに縛り付けていた主は、もういない。永い務めは、もう終わったのです。どうか、その重荷を下ろして、安らかに、眠ってください。そして、私たちのために、道を……)
私の祈りに応えるように、鉄格子の心の中から、深い、深い、安堵のため息のような感情が伝わってきた。
「……カイさん。錠前の、右下の部分。そこが、この子の心が、一番、長い年月に疲れている場所……。もう、力を失っている、と」
私の言葉に、ゴードンは短剣を抜き、私が指し示した場所を、その切っ先で、ぐっと押した。
ギ、と、鈍い音がする。
彼は、さらに力を込めた。すると、ミシミシ、という軋み音と共に、錠前の部品が、内側から崩れるように歪んでいく。
そして、ついに。
カラン、という乾いた音を立てて、錆びついた錠前の心臓部が、床に転がり落ちた。
扉は、ゆっくりと、重々しい音を立てて、開いた。
「……本当に、開きやがった……。姫様、あんたの力は、一体……」
ゴードンは、驚きと畏敬が入り混じった目で、私を見つめていた。
鉄格子を抜け、さらに奥へと進む。
すると、前方から、これまでとは違う、微かに乾いた空気が流れ込んでくるのを感じた。そして、『導き石』の光の先に、上へと続く、石の階段がおぼろげに見えてくる。
「……間違いない。この上が、砦の地下食料庫あたりに繋がっているはずだ」
ゴードンが、声を潜めて囁いた。
カイさんが、階段の下で、私たちを振り返った。
「ここから先は、本物の"敵地"です。心の準備はいいですか?」
私は、左手の『鎮静の指輪』にそっと触れ、力強く頷いた。「はい」と。
階段の先から聞こえてくる、微かな物音。それは、この砦が生きている証。リリアーナは、息を殺し、次の一歩を踏み出す。
闇の中の旅は終わる。そして、敵の心臓部での、新たな息詰まる戦いが、始まろうとしていた。




