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第十四話:待つ間の誓いと記憶の選別

 北の空へ疾風が飛び去ってから、静かな、それでいて針の上を歩くような緊張感をはらんだ日々が続いていた。フクロウと名乗る情報屋からの次の連絡は、まだない。焦りが胸をよぎるたび、私はカイさんに教わった呼吸法で心を鎮め、自らの力を磨くための訓練に意識を集中させた。この地道な繰り返しだけが、不安という名の雑念から私を遠ざけてくれる、唯一の方法だった。


「それにしても、連絡、まだ来ねえのかよ。あのハヤブサ、途中で寄り道でもしてんじゃねえだろうな」


 昼下がり、私が店のカウンターを磨いていると、隣に置かれたリヒトが、やきもきしたように不満を漏らした。ここ数日、彼がこの台詞を言うのは、もう何度目か分からない。


「焦りは禁物よ、リヒト。疾風はカイさんの古い友人なのでしょう? きっと、無事に役目を果たしてくれるわ。私たちは、今できることをするだけ」


 私はそう言って、布を動かす手に力を込めた。そう、今できることを。その言葉は、リヒトだけでなく、私自身に言い聞かせているものでもあった。


 その日の午後、カイさんは私を工房へ呼ぶと、次の訓練を課した。


「リリアーナさん。これまでの訓練で、貴女は物の"声"を聞き、その"記憶"に触れることができるようになりました。ですが、それはまだ、世界が一方的に見せてくるものを受け取っているに過ぎません」

「……はい」

「今日の訓練は、その逆。情報の奔流の中から、貴女自身が知りたいと望む記憶だけを、的確に釣り上げる『選別』の訓練です」


 カイさんが題材として差し出してきたのは、一本の、古びた片刃の剣だった。刀身にはいくつもの刃こぼれがあり、柄の部分は持ち主の汗で黒ずんでいる。一目見ただけで、この剣が数多の戦場を渡り歩いてきたことが分かった。カイさん曰く、かつては名うての傭兵が使っていたものらしい。


「この剣には、おびただしい数の記憶が宿っています。戦いの興奮、血の匂い、死の恐怖……。下手に触れれば、前回のように、精神が呑まれかねません」


 カイさんの警告に、私はごくりと喉を鳴らした。私は言われた通りに椅子に座り、剣の柄を両手でそっと握りしめる。目を閉じ、意識を集中させると、すぐに、凄まじい情報の奔流が私の精神になだれ込んできた。


 ――剣と剣がぶつかり合う、甲高い金属音!

 ――辺りに立ち込める、鉄錆のような血の匂い!

 ――味方の断末魔! 敵の雄叫び! 斬りつけられる瞬間の、燃えるような痛み! 死への恐怖!


「うっ……!」


 あまりにも強烈で、暴力的な記憶の嵐に、思わず呻き声が漏れる。このままでは危険だ。呑まれてしまう。


「全てを見ようとするな、リリアーナさん!」


 カイさんの、厳しい声が飛ぶ。


「ただ受け身になるな! 貴女が主導権を握るのです! 貴女が、この剣に問いかけなさい! 漠然とした問いではダメだ。もっと、具体的に。例えば、『この剣が最後に斬ったものは何か』。その一点にだけ、全ての意識を集中するのです!」


 私は、カイさんの言葉を道標に、荒れ狂う記憶の嵐の中で、必死に意識を研ぎ澄ませた。『最後に斬ったもの』。その問いだけを、心の中で何度も、何度も繰り返す。


 すると、どうだろう。あれほど混沌としていた情報の奔流の中に、一本の、光る糸のようなものが見えた気がした。私は、その糸を手繰り寄せるように、意識をさらに集中させていく。

 周りの喧騒が、遠ざかっていく。血の匂いが、薄れていく。そして、ただ一つの鮮明な光景だけが、私の脳裏に浮かび上がった。


 ――薄暗い路地裏。一人の男が、この剣を構えている。彼は、主である年老いた商人を守っていた。襲いかかってきた数人の盗賊。剣は、勇敢に閃光を放ち、一人の盗賊の腕を斬りつけた。だが、多勢に無勢。別の盗賊が振り下ろした巨大な戦斧を、剣は、主を守る最後の盾となって受け止めた。パキン、という乾いた音と共に、誇り高き刃が折れる。それが、この剣の、最後の記憶だった。


「……折れた、のね。主人を守って……」


 私がそう呟くと、剣の記憶は、すっと私の中から引いていった。目を開けると、額には玉のような汗が浮かんでいたが、先ほどのような精神的な消耗はなかった。


「……どうやら、コツを掴んだようですね」


 カイさんは、満足そうに頷いた。

 私は、自分の手の中に、新たな力が確かに宿り始めたのを感じていた。ただ受け身で聞くだけでなく、膨大な記憶の中から、必要な情報を能動的に「検索」する力。これは、これから始まる戦いにおいて、間違いなく、強力な武器になるはずだ。


 その日の訓練を終えた後、私は回復したダミアンにお茶を淹れると、改めて彼に向き合った。


「ダミアン、教えてください。今の王都で、アネット妃の側で、特に権力を握っているのは誰なのですか? 彼女の手足となって、民を苦しめている者たちのことを」


 私の真剣な問いに、ダミアンは表情を引き締め、彼が知る限りの情報を語ってくれた。


「まず、筆頭は財務卿のヴァルガス侯爵です。彼はもともと金に汚いことで有名でしたが、アネット妃に取り入ってからは、その強欲さに歯止めが利かなくなりました。ありとあらゆる名目で民から税を搾り取り、そのほとんどを妃の贅沢と、自身の懐へと入れているのです。王都の民が飢えているのは、凶作だけでなく、ヴァルガスによる過酷な取り立てが原因です」


 ヴァルガス侯爵。その名前を、私は記憶に刻みつけた。


「もう一人は、近衛騎士団長のグレイヴス将軍。彼は……本来は、実直で、部下からの信頼も厚い、立派な軍人でした。ですが、彼には賭け事が好きだという唯一の欠点があり、どうやらアネット妃に、そのことで莫大な借金を負わされたようなのです。以来、彼は妃の言いなり……。良心の呵責に苦しみながら、妃の命じるままに、無実の貴族たちを捕らえ、騎士団を私兵のように動かしています」


 グレイヴス将軍。その名には、ダミアンの声にも、悔しさが滲んでいた。かつての上官だったのかもしれない。


 彼らの具体的な悪行を聞くたび、私の心の中の静かな怒りは、より硬く、より鋭利なものへと変わっていくのを感じた。私が正すべきは、アネット妃の罪だけではない。彼女に与して、私腹を肥やし、民を苦しめる者たち全ての罪を、正さなければならない。


 ダミアンは、冷静に、しかし熱い正義感を瞳に宿して話を聞く私の姿に、何を思ったのだろう。彼は、椅子から立ち上がると、私の前に跪き、騎士の礼を取った。


「リリアーナ様……。貴方様のお姿に、私は、亡き国王陛下や、クラウゼル公爵閣下の面影を拝見いたしました。このダミアン、この命に代えても、貴方様をお守りし、正義を成すための剣となります」


 その揺るぎない忠誠の誓いを、私は、静かに、そして真っ直ぐに受け止めた。


 その夜、私は一人、カイさんにもらったノートを開いていた。

 私の意志に応え、羽根ペンが、ひとりでにノートの上を滑り始める。それは、詩ではなかった。ただ、静かに、しかし力強く、二人の名前を紙の上に記していくだけだった。


『財務卿 ヴァルガス侯爵』

『近衛騎士団長 グレイヴス将軍』


 そのインクには、私の決意が込められていた。彼らの罪を正すという、静かな怒りの炎が。


 ノートを閉じ、私は、ふと、窓を開けた。

 嵐が洗い流した後の夜は、どこまでも空気が澄み渡っている。ひんやりとした夜気が、火照った私の頬を優しく撫でていった。


 私は、自分の手のひらを、じっと見つめる。

 かつては、刺繍針やティーカップを持つことしか知らなかった、か弱かった手。貴族社会という狭い籠の中で、決められた作法をこなすことだけが役割だった手だ。

 でも、今は違う。

 この手で、私は、見えないものに触れ、声なき声を聞くことができる。


 私は、その手で、窓辺に置かれていた小さな鉢植えの、瑞々しい葉に、そっと触れてみた。

 指先から、温かい生命のささやきが伝わってくる。


『夜の空気は、気持ちがいいな』

『明日も、お日様は昇るだろうか』


 健気で、力強い、小さな命の声。

 その声に励まされるように、私は、顔を上げた。


 北の空には、無数の星が、瞬いていた。

 その星々の彼方にいる、まだ見ぬ協力者と、囚われの父を想う。

 私の表情は、もう、ただ悲しみに暮れたり、怒りに震えたりするだけのものではなかった。

 静かで、どこまでも澄み切って、それでいて、決して揺らぐことのない湖面のような決意の色を、湛えている。


 夜明けは、まだ遠い。

 けれど、闇が深いからこそ、星の光は、より一層、その輝きを増すのだ。

 私は、その小さな光のまたたきを、しばらくの間、ただ黙って、見つめていた。

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