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第十三話:記憶の奔流と北からの第一声

 あの日、疾風が北の空へと飛び去ってから、五日が過ぎた。

 店には、嵐の前の静けさにも似た、穏やかで、しかしどこか張り詰めた空気が流れていた。北からの返信は、まだない。逸る気持ちを抑えるように、私はカイさんの指導のもと、来るべき時に備えて、自らの内に眠る力を引き出すための訓練に没頭していた。


 訓練は、私の日常の一部となっていた。最初は工房の中の道具たちだけだった「声」を聞く対象も、今では店の品々、庭の草花、そして風の音や土の匂いにまで広がっていた。世界は、私が思っていたよりもずっとおしゃべりで、生命の喜びに満ちている。その感覚は、私の心を強く、そして豊かにしてくれていた。


「リリアーナさん、今日は新たな段階へ進みましょう」


 ある日の午後、カイさんはそう言うと、私に次のステップを提示した。


「これまでは、物の"今の心"を聞いてきました。ですが、貴女の力の本当の価値は、その先にあります。次は、物に宿る"過去の記憶"に触れてみましょう」

「過去の、記憶……?」

「ええ。物、特に、永い年月を経てきたり、強い想いと共にあったりした物には、持ち主の記憶の欠片が宿ることがある。それを読み解くことができれば、それは何よりの情報となり、武器となる」


 カイさんが訓練の対象として差し出してきたのは、一つの古びた懐中時計だった。美しい銀細工が施されているが、針は止まったままだ。その時計に触れた瞬間、私は微かな哀しみの感情が流れ込んでくるのを感じた。


「さあ、この時計に、触れてみなさい。そして、心の耳で聞くのではなく、心の目で"見る"のです。この時計が、見てきた風景を、その持ち主の人生を」


 私は、言われるがままに懐中時計を両手に包み込み、そっと目を閉じた。呼吸を整え、意識を時計の中心へと沈めていく。カイさんに教わった通り、自分の心を静かな湖面のように平らに保つ。


 最初は、何も見えなかった。だが、さらに深く、深く意識を潜らせていくと、不意に、私の脳裏に、他人の記憶が、激しい奔流となって流れ込んできた。


 ――豪華だが、人の温もりが感じられない屋敷の書斎。山積みの帳簿。窓の外は、いつも冷たい雨が降っている。

 ――男が一人、ため息をついている。彼は裕福な商人だったが、その瞳はひどく孤独だった。彼は、この懐中時計を、まるで唯一の友人のように、何度も、何度も、その手で磨いていた。カチ、カチ、という規則正しい音が、彼の唯一の慰めだったのだ。

 ――場面が飛ぶ。彼は、愛した女性に裏切られる。信じていた部下に、財産を騙し取られる。人間不信に陥り、彼は心を閉ざし、ますますこの時計だけを拠り所にするようになった。

 ――そして、最期の時。病に倒れた男が、薄暗い部屋のベッドの上で、か細い手で時計を握りしめている。誰にも看取られることなく、一人で迎える死。その瞬間の、深い後悔と、寂寥の念、そして、叶うならもう一度、人を信じてみたかったという、痛切な願い。


「……っ、あ……!」


 私は、はっと目を開けた。全身に冷や汗をかき、心臓が激しく波打っている。涙が、自分の意志とは関係なく、頬を伝っていた。まるで、私自身が、あの孤独な商人の、報われない一生を、ほんの数秒で追体験したかのようだった。喜びも、悲しみも、そして、死の瞬間の絶望までもが、あまりにも生々しい感触として、私の心に突き刺さっていた。


「おい、リリアーナ! 無理すんじゃねえぞ! 顔が真っ青だ!」


 私の異変に気づいたリヒトが、ポケットの中から、心から心配するような声を上げた。


 カイさんは、私の手から懐中時計をそっと取り上げると、その瞳に厳しい光を宿した。

「……これが、物の"記憶に触れる"ということです。この力は、諸刃の剣。貴女の共感能力の高さは、美徳であると同時に、危険なものです。他人の記憶の奔流に、貴女自身の精神が呑み込まれてしまう危険性があることを、決して忘れないでください」


 彼の言葉は、この力の本当の重みを、私に教えてくれていた。私は、こくりと、力なく頷く。今はまだ、この力を自在に操ることはできそうになかった。


 その日の訓練は、それで終わりになった。

 私は、精神的な疲労困憊し、ハーブティーを飲んで、ぼんやりと店の窓の外を眺めていた。あの商人の孤独が、まだ自分のことのように胸に重くのしかかっている。

 本当に、道は開けるのだろうか。そんな不安が、影のように心を覆い始めた、その時だった。


 チカッ、チカッ……!


 店の片隅、カイさんの工房の入り口近くに置かれていた、イヤリングの片割れを収めた木箱。その中から、これまでとは違う、強く、そして明確な光が、規則的に明滅を始めたのだ。


「……!」


 カイさんと私が、同時にそちらを向く。

 光は、しばらくの間、規則的な点滅を繰り返していた。そして、次の瞬間。


 私の頭の中に、直接、声が響いてきた。


『……こちら、"霧氷の関"の"フクロウ"……。……カイの言っていた姫君か……?』


 それは、ノイズ混じりの、聞いたことのない男の声だった。少し歳をとっているが、用心深く、剃刀のように鋭い知性を感じさせる声だ。


「……!」


 突然の出来事に、私は言葉を失う。カイさんが、私の様子を見て全てを察し、「落ち着いて。念話です。貴女が、イヤリングの持ち主として選ばれた証拠だ」と、小さな声で助言をくれた。


 私は、意を決して、心の中で返事をした。

(……私が、リリアーナ・フォン・クラウゼルです。貴方が、カイさんの……)


『フクロウでいい』と、男は私の言葉を遮った。『……とんでもないものを寄越してくれたな、カイの旦那は。この鳥、ハヤブサと名乗ったが、そこらの貴族が飼う鷹よりよほど賢い。……で、あんたが、噂の"追放された月"かい?』


 フクロウと名乗る男は、用心深く、私を試しているようだった。


(噂……? 私のことが、北の地にまで……)

『ああ、流れてきているとも。聖女だった姫君が、邪悪な女の罠にはまり追放された、とな。まあ、おとぎ話の類だと思っていたが……。カイの頼みと、このイヤリングが運んできた"想い"の強さは本物のようだ。だが、あんたが本物かどうかは、まだ分からん』


 彼は、私に試練を課してきた。

『クラウゼル公爵家とその縁者だけが知る、"白鳥の古い詩"の、二番の出だしを言ってみろ』


 それは、私が幼い頃、父が子守唄代わりに教えてくれた、一族に伝わる古い詩だった。記憶の奥底から、父の優しい声と共に、その言葉が蘇る。


(……『月影の湖に、銀の羽は濡れども、その気高き瞳は、決して曇らず』……)


 私がそう答えると、念話の向こう側で、フクロウがわずかに息を呑む気配がした。


『……なるほどな。確かに、本物の"月"らしい。疑った非礼を詫びよう、姫君』


 彼の声から、硬さが少しだけ取れた。


『……分かった。カイの頼みだ、引き受けよう。だが、こっちも命がけだ。情報は安くないぜ?』

(ええ、承知しています。報酬は、父が、私たちが、必ず用意します)

『よろしい。ならば、契約成立だ。まずは、公爵閣下の正確な居場所と、警備の状況を洗う。三日……いや、五日はかかるだろう。またこちらから連絡する。それまで、決して軽率な行動はするな』


 フクロウは、そう一方的に言うと、ぷつり、と念話を切った。

 頭の中に響いていた声が消え、店は元の静寂を取り戻す。だが、その静けさは、先ほどまでとは全く意味合いが違っていた。


 カイさんが、安堵の表情を浮かべて、私に言った。

「……どうやら、あの気難しい友人は、貴女を認めたようですね。良かった」


 私は、まだ自分の頭の中に響く声の余韻を感じながら、カイさんと、ポケットから顔を出したリヒトに向かって、力強く頷いた。


「はい。道は、開けました」


 北の地に、確かに、私たちの仲間が生まれた。それは、まだ細く、頼りない一本の糸かもしれない。けれど、この糸をたぐり寄せれば、必ず、父の元へ、そして、王都へと繋がっている。


 私は、光がおさまった木箱に、そっと手を触れた。


「私たちの戦いは、ここから始まります」


 その声は、もう、誰かに助けを求めるか弱いものではなかった。自らの運命を、その手で切り拓こうとする、確かな意志の光が、私の瞳には宿っていた。

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