第十二話:北への使者と夜明けの誓い
作戦会議を終えた後も、店の空気は張り詰めたままだった。
決意は固まった。だが、それはあまりにも無謀で、途方もない計画の第一歩に過ぎない。特に、「誰が、どうやってイヤリングを届けるか」という問題は、私たちの前に大きな壁として立ちはだかっていた。
「俺が行く。兵士として、これが最後の御奉公だ。この命に代えても、リリアーナ様の想いを……!」
「いえ、ダミアン。あなたのその傷では、森を抜けることさえ難しいわ。それに、あなたの顔は王都に知られている危険性がある。あなたの無事を、これ以上危険に晒すことはできません」
私が彼の無茶を諫めると、今度はリヒトが、私の肩の上で叫んだ。
「だから僕が行くって言ってるんだ! ティーカップの姿なら、誰にも怪しまれない! どんな街にだって、潜り込んでみせるぜ!」
「いいえ、リヒト。あなたは小さすぎて、長旅はあまりにも危険よ。途中でピクシーにからかわれたり、それこそカラスに巣に持って行かれたりしたら、どうするの?」
「うぐっ……そ、それは……」
議論は、堂々巡りだった。私自身が行ければ、それが一番確実なのかもしれない。だが、私がこの店を離れるわけにはいかなかった。この場所が、私たちの唯一の拠点なのだから。
皆が黙り込んでしまった時、カイさんが静かに、しかし決定的な一言を告げた。
「使者は、私が用意します。貴女たちは、心配しなくていい」
その言葉通り、三日後の朝、店の前に一羽の、息を呑むほどに美しいハヤブサが、音もなく舞い降りた。陽光を浴びて輝く羽、全てを見透かすかのような鋭い金色の瞳、そして何より、その全身から放たれる誇り高いオーラは、彼がただの鳥ではないことを雄弁に物語っていた。
「彼の名は『疾風』。私の、数少ない古い友人の一人です」
カイさんがそう紹介すると、ハヤブサは私たちに向かって、恭しく騎士のように頭を垂れた。
『カイ様、お久しゅうございます。貴方が私を呼ばれるとは、よほどのことでしょうな』
その声は、人間の壮年の男性のものとしか思えない、凛として、知性に満ちた響きをしていた。彼もまた、永い時を生きる、特別な存在なのだ。
「ああ、そうだ、疾風。お前の力を借りたい。このイヤリングを、北の街『霧氷の関』にいる"あの男"の元へ、届けてほしい。途中の危険は、承知の上だろう」
『霧氷の関……懐かしい名ですな。承知いたしました。カイ様の頼みとあらば、たとえ竜の巣であろうと、この翼で越えてみせましょう』
疾風は、微塵の迷いも見せずにそう答えた。カイさんは、イヤリングを収めた小さな革袋を、彼の屈強な足に、しっかりと括り付けた。
「リリアーナさん。貴女の想いを、このイヤリングに込めてください。届け先の相手は、貴女の声に導かれるはずです。想いが強ければ強いほど、疾風の道行きも、守られるでしょう」
私は、カイさんに促され、疾風の足に括り付けられたイヤリングに、そっと指で触れた。ひんやりとした金属の感触。ここに、私たちの未来の全てがかかっている。
(お願いします……。北の街にいる、カイさんの知人の方。どうか、私たちの声を聞いてください。私たちは、この国を救いたいのです。アネットの偽りの支配から、民を、そして父を救いたい。そのために、どうか、貴方の力をお貸しください)
心の底からの祈り。それは、いつしか、私自身の決意表明へと変わっていた。
(そして、父上……もし、この声が、この想いが届くのなら、どうかご無事でいてください。かつての無力な娘では、もうありません。必ず、私が、あなたを迎えに行きますから)
私の強い祈りに応えるかのように、イヤリングが、一度だけ、蛍のように温かな光を、ぽうっと放った。
『……確かに、その熱き想い、お預かりいたしました、姫君』
疾風は、私をまっすぐに見つめてそう言うと、力強く地面を蹴った。巨大な翼が一気呵成に風を捉え、彼の体はあっという間に空へと舞い上がる。そして、北の空へと向かって、一直線に、一筋の希望の光となって、やがて蒼穹の彼方へと消えていった。
私たちは、その姿が見えなくなるまで、ただ黙って、空を見上げていた。
反撃の狼煙は、上がった。だが、ここからが本当の始まりだ。
「……カイさん。私、ただ待っているだけではいられません」
疾風が消えた空を見つめたまま、私は言った。
「もし、父を救い出し、アネットと対峙することになった時……今の私には、何も力がありません。妃教育で学んだ作法や知識だけでは、この戦いは勝ち抜けません。私に、戦うための力をください。私が、みんなを守れる力を」
それは、私の心の底からの叫びだった。
私の真剣な眼差しを受け、カイさんはしばらく黙っていた。そして、静かに、しかし力強く頷いた。
「……分かりました。貴女の覚悟が、そこまで固いのであれば」
彼は、私を店の奥にある、彼の工房へと導いた。そこは、ありとあらゆる道具や素材が並ぶ、神秘と知識に満ちた空間だった。
「リリアーナさん。貴女は、自分が『何も力がない』と思っているようですが、それは間違いです。貴女には、生まれ持った特別な力がある。それは、"物の声を聞き、その心と共鳴する力"です」
「私の、力……」
「ええ。リヒトたちと自然に対話できるのも、エミリーさんのコンパスが正しく作動したのも、風の精霊たちが心を動かされたのも、全てその力の表れです。ただ、貴女はこれまで、その使い方を知らなかっただけ。今日から、貴女に、その力の使い方を教えます」
カイさんは、工房の棚から、一冊の、何の変哲もない真新しいノートと、一本の美しい白鳥の羽根ペンを取り出した。
「まずは、この世界のあらゆる物に宿る『魔力』を感じる訓練から始めましょう。それは、剣を振るうよりも、魔法の呪文を唱えるよりも、遥かに地味で、根気のいる訓練です。ですが、それを会得した時、貴女は、世界そのものを味方につけることができるようになるでしょう」
私は、言われるがままに椅子に座り、ペンを握った。
「目を閉じて。そして、呼吸を整えてください。魔力とは、世界の呼吸そのものです。吸う息と共に、周囲の清浄な空気を取り込み、吐く息と共に、貴女の中の焦りや怒りを、外へ出すのです」
カイさんの穏やかな声に導かれ、私はゆっくりと深呼吸を繰り返した。だが、私の心は乱れていた。王都の惨状、アネットへの怒り、父への心配……。様々な感情が渦巻き、心を鎮めることができない。
「焦ることはありません。その怒りも、悲しみも、今の貴女を形作る、大切な力です。無理に消そうとせず、ただ、受け入れなさい。そして、その荒れ狂う嵐の中心に、静かな湖面があるのを、イメージするのです」
私は、カイさんの言葉を信じ、意識を集中させた。どれくらいの時間が経っただろうか。荒れ狂っていた感情の渦の中心に、ふっと、静かで、澄み切った一点が生まれたのを感じた。
その瞬間だった。
私の心の中に、様々な"感覚"が、静かな波のように流れ込んできたのだ。
棚の古書から感じる、静謐な知識の重み。壁の石が持つ、幾星霜を耐え抜いた、不動の誇り。床の木材から伝わる、カイさんや、多くの道具たちの足音を受け止めてきた、温かい記憶。
それらは、声ではない。言葉でもない。だが、確かにそこに存在する、物たちの「心」だった。
「……感じる……。聞こえる、わ……」
私がそう呟いた時、手に持っていた羽根ペンが、私の意志とは関係なく、ひとりでに、さらさらとノートの上を滑り始めた。そして、私が感じ取った物たちの心を、美しい詩のような言葉で、紙の上に紡いでいったのだ。
『我らは語る、言葉なく。我らは記憶する、形なく。耳を澄ませ、心を拓け。さすれば、世界は汝に、その秘密を明かすだろう』
それだけではなかった。ペン先からは、淡い光の粒子が放たれ、詩の周りに、複雑で美しい、幾何学模様のような紋様を描き出していく。まるで、世界の設計図の一片を、垣間見たかのようだった。
ノートに記された文字と紋様は、やがて淡い光となって消えていったが、その感覚は、確かに私の魂に刻み込まれていた。
疲れ果てながらも、かつてないほどの充実感に満たされて、私は顔を上げた。窓の外は、すでに白み始めている。
「カイさん……これが、私の力……?」
私の問いに、カイさんは、満足そうに、そしてどこまでも優しく微笑んだ。
「ええ。貴女がこれから育てていく、始まりの力です」
私は、まだ何も書かれていないノートを、ぎゅっと胸に抱きしめた。そして、朝焼けに染まる空を見上げる。
待っていて、父上。待っていて、私の愛した国。
偽りの月が、この国の夜を続けるというのなら。
私は、夜明けを告げる一番星になってみせる。
そう、心に、強く、強く、誓った。




