先生、先生。
短編集 ひとつめ
今回は、お題「イタリア式の小説家たち」、必須要素「ピスタチオ」でした。
「先生、コーヒーを淹れてきました」
「……うん……」
私がお手伝いとして雇われている主人は、著名な小説家だ。日本にいながらも、様々な国を巡った経験と豊かな感性を生かして、異国の情景を鮮やかに描き出す。
ジャンルも国境も関係ないとばかりに激しく、そして優しい言葉で描きあげられる物語は老若男女を問わず、大勢の人が陶酔してしまう。実は、私もその一人だった。
「先生、寒くないですか」
「……うん……」
「先生、暑くないですか」
「……うん……」
先生は執筆を始めると、周りがまったく見えなくなるようだった。そのストイックな姿勢は素敵だけれども、何を聞こうが何を持っていこうが反応がない。さっき持って行ったコーヒーも、手つかずのまま冷めている。それだけなら構わないのだが、先生は、食事や睡眠にもまったく頓着しなくなる。すでに朝も昼も抜き、時刻は夕方。なんとか夕食は食べてもらわねばならない。
私はがさり、と秘密兵器を取り出した。
「先生、ピスタチオです」
「……くれ」
昨日の夜から数えて初めてまともな返答を返し、先生はペンを持っているのとは逆の手を差し出す。
先生はイタリアに行った折り、この緑色のナッツに心を奪われ、放っておくと一日中食べる。ご飯を食べなくなる上、そこまで安い物でもないため、普段は取り上げているが、今回ばっかりは仕方がない。
「執筆の手を止めないと殻が剥けないでしょう」
「……君が剥いてくれればいい」
「ご自分で剥けばいいでしょう」
「……じゃあいらない」
そのまま執筆に溺れていこうとする先生を、私は慌てて引き留めた。
「わかりました、わかりました。5つだけ剥いて差し上げます。それ食べたら手を止めて、夕食を召し上がってくださいね」
「……ん」
ぱきり。ひとつ。
「先生、今回の作品の舞台はどこですか」
「……イタリア」
ぱきり。ふたつ。
「先生、イタリアにはいつ行ったんですか」
「……15歳、と、32歳の時」
ぱきり。みっつ。
「先生、今回は短編小説ですか」
「……長編」
ぱきり。よっつ。
「先生、今回の作品のジャンルはなんですか」
「……恋愛小説」
ぱきり。いつつ。
「先生、ピスタチオ以外に好きなものはありますか」
「……君が」
私の家事で荒れた指先を、先生の細い指先が絡め取る。
いつの間にか先生は顔をあげていて、鳶色の瞳と目があった。
「……イタリア男の、口説き文句は、まねできないけど」
先生は、私の指先へ視線を落とし、それから、もう一度顔を上げてはにかむように笑った。
「……君がいなきゃ、僕は、小説を書けない」
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