第2話 「行っておいで」の裏側
帰宅して最初に見たのは、テレビ台だった。
観覧車は、そこにあった。
賞状の隣で、朝と同じ向きに置かれている。青い星も、三人の紙人形も、汚れていない。輪に指を添えてみても、どこも破れてはいなかった。
ちゃんと、ある。
美咲は鞄を下ろすのも忘れて、しばらく立っていた。
同じ材料なら、どこの店でも買える。星をきれいに切れない子だって、莉子だけではない。
頭の中で理由を並べるほど、短い角が目についた。
「ママ、ただいま」
振り返ると、莉子がランドセルを下ろしていた。
「何見てたの?」
「観覧車。やっぱり上手だなって」
「もう見たでしょ」
「何回見てもいいでしょ」
「いいけど」
莉子は笑い、座席の真ん中の人形を指した。
「こっち、ママだよ」
「うん。分かってる」
黄色い紙を切って作った髪。その下に、黒いペンで描かれた笑顔。
美咲はそこから指を離した。
夕食の間、健太は娘の学校の話を聞いていた。
先生が金賞のことをみんなに話してくれた。クラスのみんなが拍手してくれた。莉子は一度話した出来事を、今度は友達の言葉まで添えて話した。
「そうか。うれしかっただろ」
「うん!」
美咲は盆を持ったまま、夫の横顔を見つめた。
この人が、あんな文章を書くだろうか。
「美咲、どうした?」
「ううん」
「疲れた? 忙しかった?」
夫の眉が少し寄った。いつもの心配そうな顔だった。
「少しだけ」
「あと、俺がやるよ。座ってて」
受け取ろうと伸ばされた手に、美咲は盆を渡した。
ありがとうと言えば、健太は何でもないことのようにうなずく。
疑っている自分の方が、間違っている気がした。
*
数日後、友人の松井奈緒から連絡が来た。
『日曜、こっちに帰るよ。久しぶりにランチしない?』
美咲は休憩室で画面を見ながら、返信を書きかけた。
『会いたいけど、日曜日は莉子が』
そこで止まる。
奈緒と最後にゆっくり話したのが、いつだったか思い出せなかった。買い物の途中で会うのとは違う、座ってお茶を飲んで、話の続きを急がずに済む時間。
断る前に、一度聞いてみてもいいのではないか。
『奈緒が日曜に帰ってくるんだって。お昼、誘われたんだけど』
健太へのメッセージは、すぐ既読になった。
『日曜、行っておいで』
『いいの? 休みの日なのに』
『莉子は俺と遊んでるから。たまにはゆっくりしておいで』
美咲は、息を吐いた。
お昼を作っておこうかと尋ねても、二人で作るから大丈夫だという。
奈緒への返信を消して、書き直した。
『会いたい。何時にする?』
日曜の朝、美咲が玄関で靴を履くと、莉子がハートを描くように両手を動かした。
「パパとお好み焼き作る!」
「そうなの?」
「丸くなるかは分からないけどな」
「ハートにするの」
健太が困ったように笑った。
美咲も笑い、バッグを肩に掛ける。
「お昼、本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。何かあったら連絡する」
「帰ったら聞かせてね」
「時間、気にしなくていいから」
扉を閉める前、莉子がもう一度手を振った。
奈緒とは、話が尽きなかった。
昔よく行った店のこと。共通の友人のこと。今の仕事の、誰に聞かせるほどでもない失敗のこと。
美咲がふとスマホを見ると、奈緒は「大丈夫?」と聞いた。夫に任せてきたのだと答えながら、美咲は少し誇らしかった。
夕方、食卓には白い皿が一枚、取り分けてあった。
「ママの分!」
莉子が指したお好み焼きは、ちゃんとハート形をしていた。
右上の丸い部分だけ、少し欠けている。
「わあ、ちゃんとハートだ」
「パパが早く返そうとしたから、ここ、崩れたの」
「ごめん、ごめん」
「二人ともありがとう。うれしい」
健太は向かいに座り、奈緒の様子を尋ねた。
「話、全然尽きなくて」
「よかったじゃん。また会えばいいよ」
美咲はうなずいて、お好み焼きを切った。
久しぶりに外で過ごした時間も、帰ってから聞く娘の声も、どちらも自分の暮らしにあっていいのだと思えた。
*
翌日の休憩室で、由紀が言った。
「あのパパ、昨日も大変だったみたい」
美咲はペットボトルの蓋に手を掛けたまま、顔を上げた。
「また奥さん?」
「子どもを置いて、一日遊びに行っちゃったんだって」
「昨日……ですか」
「うん。休みの日まで一人で全部」
差し出された画面に、白い皿が写っていた。
ハート形のお好み焼き。右上の丸い部分が、欠けている。
『妻は友達と遊びに。残された娘と昼食作り。ハート形にしたいというので挑戦したけど、片方が崩れてしまった』
星だけなら、まだ別の誰かの作品だと言えた。
でも、この欠けたハートを、美咲は昨日食べている。
「ちゃんと娘さんの希望を聞くんだね」
「こんなにやってくれる旦那さん、なかなかいないよ」
蓋を握った手に力が入った。
開けようとしていたのか、閉めようとしていたのか、分からなくなった。
「その投稿……私にも、送ってもらえますか」
「うん。ちょっと待ってね」
由紀から届いたリンクを、美咲は開かなかった。
仕事中に読めば、もう立っていられない気がした。
深夜、隣で健太が眠ってから、ようやく画面に触れた。
『パパの休憩室』
フォロワー、三十万人。
見間違いかと思い、数え直した。
こんなに多くの人が、夫の書いた妻を知っている。
写真を一枚ずつ開く。
白いタオル。莉子の体操服。見慣れた流しと、重ねて置いた茶碗。
『夕飯、風呂、洗濯。今日も全部、俺一人。妻はソファでスマホを見ている』
その体操服を畳んだのは、美咲だった。
袖を内側に折り、学校で使いやすいように袋へ入れる前の写真。自分が少し席を外した間に撮ったのだろうか。
『奥さん、結婚に向いてないんじゃない?』
『よその家庭のことは分からないけど、これはひどい』
画面を閉じて、夫とのやり取りを開いた。
『日曜、行っておいで』
『たまにはゆっくりしておいで』
何度読んでも、同じ言葉が並んでいる。
美咲は昨日の自分を思い出した。奈緒に夫の話をしたときの、少し得意になった自分を。
「ねえ……」
「ん……?」
声を掛けた途端、胸が詰まった。
何を聞けばいいのだろう。
これを書いたの、と聞くのか。
私のことが嫌いなの、と聞くのか。
「……何でもない」
「寒い? 布団、取っちゃってた?」
健太は目を閉じたまま、美咲の肩まで布団を掛けた。
その手つきも、いつもと同じだった。
翌晩、食器を運ぶ美咲に、夫はまた言った。
「置いといて。俺が洗うから」
「いいよ。私がやる」
「昨日、あんまり寝てないんじゃない?」
「そんなことないよ」
「目、赤いぞ」
美咲は盆を抱え直した。
洗ってもらったら、今夜もまた、自分は何もしない妻になるのだろうか。
「ちょっと、スマホ見すぎたかも」
「珍しいね」
夫のスマホは、食卓の端にあった。
美咲はその横を通るとき、自分でも気づかないうちに、盆で顔を隠すようにしていた。





