第1話 青い星の金賞
「ママ、見て!」
包丁を置いて振り返ると、娘が玄関から駆けてきた。
両手で広げた紙が、歩調に合わせて揺れている。折り目のない賞状だった。藤沢美咲は濡れた手をエプロンで拭いてから、そこに並んだ文字を読んだ。
夏休みの工作。金賞。藤沢莉子。
「え……金賞?」
「うん! あの観覧車!」
莉子が跳ねた。美咲もつられて笑い、もう一度、金賞の二文字を見た。
夏休みの終わり、食卓を何日も占領していた観覧車。紙の輪が傾き、座席が引っかかり、回すたびにどこかが外れた。手を貸そうとすると、莉子は決まって「そこは私がやる」と言った。
「先生がね、ちゃんと回るの、すごいって」
「何回も作り直したもんね」
「あそこ、すぐ取れちゃったから」
「うん。あきらめなくてよかったね」
頬に触れると、外を走ってきたばかりの熱があった。
賞状の端を持ち直した莉子が、台所の時計を見る。
「パパ、もう帰ってくる?」
「今日は早いって言ってたよ」
「じゃあ、まだ言わないで。私が言う」
美咲は、まな板の上に残っていたにんじんを端へ寄せた。
「分かった。内緒にしとく」
そこから夕食まで、莉子は何度も玄関へ行った。
廊下を歩く音がすれば顔を上げ、よその家の鍵の音なら、少し肩を落として戻ってくる。美咲のスマホに夫から帰宅の連絡が届いたときも、画面をのぞいて確かめた。
「金賞のこと、書いてない?」
「書いてないよ」
「絶対?」
「絶対」
こんなに待ってもらえるのなら、健太も急いで帰ってきたくなるだろう。美咲は返事に「莉子が待ってるよ」とだけ添えた。
玄関の鍵が回ると、娘は賞状を抱えて飛んでいった。
「ただいま……お、どうした?」
「じゃーん!」
「金賞!?」
夫の声が大きくなった。美咲が廊下へ出る頃には、健太は鞄を床に置き、莉子の目の高さまで腰を落としていた。
「私の観覧車!」
「観覧車?」
「夏休みに作った工作!」
「そうか、すごい! やったな!」
娘の髪をくしゃくしゃにする、その手を美咲は見ていた。
細かい宿題の名前までは覚えていなくても、こういうとき、健太はちゃんと喜ぶ。莉子の話が長くなっても、途中で立ち上がったりしない。
「帰ってきてから、ずっとあなたを待ってたの」
「そうか。遅くなってごめんな」
「早く見て。こっち!」
居間のテーブルに置いた観覧車を、莉子が得意そうに回した。
輪の上には青い星がある。五つある角のうち、一つだけが少し短い。切り直すための紙は残っていたけれど、莉子は最後に切ったそれを選んだ。
「この三人は?」
「パパとママと私!」
一つの大きな座席に、紙の人形が三人並んでいた。
遊びに行った先の小さな観覧車は二人乗りで、美咲と莉子が先に、健太が次の座席に乗ったのだった。莉子は振り返るたび、後ろの父に手を振っていた。
「これなら一緒に乗れるの」
「なるほど。こっちの方がいいな」
健太が座席へ顔を近づける。
美咲は、三人の人形が同じ方を向いていることに、そのとき初めて気づいた。
「どこに飾ろうか」
「ここ?」
「ここだと、ご飯のたびに動かすだろ。落としたら大変だ」
健太はテレビ台の端に積んであった雑誌を持ち上げた。休みの日に少しずつ読んでいる、趣味の雑誌だった。
「これ、どければ置けるな」
「そこ、空けていいの?」
「せっかくだから、みんなが見えるところに置こうよ」
観覧車の隣に、賞状を立てかけた。
莉子はソファまで下がり、座ったときの見え方まで確かめている。
「ここならテレビ見ながら見られるね」
「どっちを見るの」
「両方!」
「忙しいなあ」
健太が笑うと、莉子も声を上げて笑った。
夕食には、いちごのショートケーキを三つ添えた。
ひとつだけ、いちごが大きい。莉子は箱が開いた瞬間からそれを見ていたくせに、主役から選んでいいと言われると、一応ほかの二つも見比べた。
「これ」
「だと思った」
美咲がスマホを構えると、健太が賞状の向きを直した。
娘のすぐ隣で、夫が笑っている。画面の端には青い星が写っていた。
「ママも入って」
「じゃあ、もう一枚ね」
撮り直した写真には、美咲の肩が少しだけ窮屈そうに収まった。それでも消さなかった。莉子がいちばんうれしそうにしていたからだ。
夜、健太が洗った皿を、美咲が拭いた。
居間では、賞状の袋を膝に載せたまま、娘が眠っている。
「玄関の外から音がするたび、まだかなって」
「そっか……待たせたなあ」
健太が振り返り、声を落とした。
「食器、あとやっとくよ。寝かせておいで」
「うん。ありがとう」
美咲は娘を抱き上げた。もう以前ほど軽くはない。その重ささえ、うれしかった。
うれしいことがあれば三人で喜び、写真を撮り、次の楽しみを待つ。
莉子は、そうやって大きくなっていくのだと思っていた。
*
数日後、パート先のスーパーで昼休みに入ると、同僚の二人が一台のスマホを見ていた。
「うわあ。これ、捨てる?」
「ひどい妻もいるもんだねえ」
長谷川理恵が顔をしかめ、岡田由紀が画面を指でなぞる。美咲は冷蔵庫から弁当を出し、向かいの椅子に座った。
「何の話ですか?」
「インスタ。最近よく回ってくるの、この人」
由紀がスマホを差し出した。
アカウントの名前は『パパの休憩室』。
「家事も子どものことも、ほとんど一人でやってるんだって。娘さん、工作で賞を取ったのに、それをさ」
美咲は、言葉の途中から動けなくなった。
画面には、ゴミ箱の写真があった。
白い紙くずに埋もれるように、紙の観覧車が斜めに入っている。
『娘が金賞を取った作品。妻がゴミ箱に捨てていた。邪魔だから、だそうです』
『俺が拾って元に戻した。娘には気づかれずに済んだ』
「……え?」
「信じられないでしょ」
理恵の声が遠くで聞こえた。
『娘さんにはお父さんがいてよかった』
『私なら絶対に捨てられない。奥さん、ひどすぎます』
美咲は文字よりも、写真を見ていた。
輪の上に、青い星がある。
「これ、もう少し大きく……」
「写真? 見づらいよね」
由紀が拡大してくれた。
五つの角。そのうちの一つだけが、少し短い。
何度も切り直した娘の指を、美咲は覚えていた。
最後まで自分でやると言った声も。
「何か分かるの?」
「あ、いえ。うちも最近、工作を作ったので」
自分の口から出た声が、よその人のもののようだった。
「そっか。余計に嫌だよね、こういうの」
「……そうですね」
美咲の前には、まだ蓋も開けていない弁当箱があった。
時計の針は十二時二十分を指している。
その日、美咲は弁当を一口も食べずに、休憩室を出た。





