第1話 あなたに急降下
明け方から降り始めた小雨は、昼前には土砂降りになった。私はスツールに腰かけ、足をぶらぶらと揺らしながら、時が経ち、つやのある飴色に変わった頑丈な木のカウンターに頬杖をつき、カフェの中に流れるジャズを聞いて、ぼんやりと外を眺めていた。
近頃雨が多くなってきた。魔都東京に、少し遅めの梅雨が来たようだ。
扉の向こうに見知った顔が現れ、チャイムと共に、今日初めての客が入ってくる。
「いつものを、お願いします」
彼は上品に傘を畳み、帽子とコートをポールハンガーに掛けるとそう言って、一番奥の隅へと座った。
私はスツールから降り、グラインダーにミディアム・ローストのゲイシャを入れて中細に挽く。その間にカップを取り出し、ドリップポットに給湯器の湯をくみ、ハンドドリッパーにフィルターをセットする。カップとドリッパーをポットの湯でよく温めてから、挽いた粉をフィルターに入れ、中心から円を描くように湯を回し入れる。
カツラギは強めの酸味が好みだ。4:6メソッドにのっとって一回目の湯は少し多く入れる。湯が落ちきるまで待ってからあと四回それを繰り返し、出来上がったコーヒーをカップに注いで持って行く。
「ありがとうございます」
旧式のノートパソコンから顔を上げ、カツラギはカップを手に取る。立ち昇る湯気をゆっくりと吸い込み、一口飲むと、彼は満足げにため息をついた。
彼は、私が親父から継いだこの店.........『ヘブンズ・ドア』の、古くからの常連だ。口先のうまさとものを書くこと以外は何のとりえもないじじいだが、持った才能を生かして、そこそこ名の知れた物書きとしてやっていると聞く。
「雨になると、手首が痛んでいけない。梅雨は憂鬱です」
「おぬし、まだ70そこらなんじゃろ。短命種ってのは大変じゃのー」
「ふ.........。マスターは、もう200才近いのでしたか」
「193じゃ。いや、194じゃったか?まあ、同じようなものよ」
「不思議なものですね。僕の目には、あなたは黄色い帽子を被って登校するような少女にしか見えない」
「黄色い帽子?」
「ええ。交通事故から守るために、遠くからでも見えやすい色の帽子を付けるのです」
「ふうん.........人間ってのは妙なことを思いつくもんじゃの」
「あなたたち魔人と違って、僕たちは脆弱な肉体しか持たない。だからこそ協力して弱いものを守る仕組みを作ったのですよ」
「下らん。人生はコーヒーと同じ.........単一品種こそ至高。誰かの助けを借りれば、味が濁る」
「あなたのポリシーは尊重しますが、僕はそうは思わない。互いの長所を引き立て、短所を補い合う.........そんな関係もあるのです。他者との交流は、人生のフレーバーを豊かにしてくれる」
「ほほ。私の半分も生きておらぬひよっこが、生意気抜かすではないか」
私の口の悪さには慣れているカツラギは、穏やかな微笑みを崩さない。
「マスターも、死を前にしてみれば分かりますよ。僕たちは社会の中で生かされている。いくら孤高を願っても、人は一人では生きられないのです」
「ほうほう、ご高説を賜り感謝するぞ。千年後にまた思い出すとするかのう。それまで憶えてたらな」
彼がもう一度カップを持ち上げ、コーヒーに口を付けた瞬間、
ドガラバキキキグワッシャァァァァァァァン!!!!
漫画のような音を立て、空から天使が堕ちてきた。
・・・・・・
私は呆然と天井に空いた穴を見上げた。遠くに鉛色の空が見え、そこから降り注ぐ雨が床に水たまりを作り、跳ねて近くのテーブルに水滴を残す。カツラギは淹れたてのゲイシャをもろにかぶったようで、髭の先から茶色のしずくがしたたっていた。相当熱かっただろうに彼は悲鳴一つ上げず、空っぽになったカップをソーサーに置くとハンカチを取り出し、優雅な仕草で顔を拭き始めた。
ガラララァンッ!!
身体の上に積もったがれきを跳ねのけて、天使が姿を現す。海の泡を集めたようなふわふわの白いシミューズドレスを着た彼女は、緩くカールしたひまわり色の髪に天井の木材の欠片を絡ませながら、夏の空を閉じ込めたような爽やかな水色の瞳できょろきょろとあたりを見回し、大きく開いたドレスの背中から生えた、見事な純白の羽根をはためかせると笑顔で言った。
「よーっし、着地大成功!」
私は泡を食ってカウンターから出て、間近で彼女の様子を見る。
「いや大惨事じゃろ!!目ん玉ついとんか!?つーかケガはないか!?そもそも誰じゃお主!?」
彼女はじっとこちらを見ると、ぱあっと顔を輝かせて、いきなり私を抱きしめてきた。
「わあっ、かわいい~~!」
「なっ、なにをする!?離せっ!離すのじゃ!」
彼女は見た目よりずっと力が強く、魔人の私が全力でもがいてもその腕から逃げる事はできなかった。でかい乳を押し付けられ、さんざん頬ずりされてから、ようやく私は解放される。
「ぜーっぜーっ、酷い目に遭った.........。
で、何者なんじゃお主?」
「空から来た天使だよ!カプルスって呼んでね!!」
「て……天使ぃ?……んなアホな。見たところ、怪我はないようじゃが.........」
「ははは。これはまた面白い来客ですね」
ちゃっかり入り口側のテーブルに移動して雨から逃げながら、カツラギが笑う。
「こんな来店の仕方を認めた覚えはないわい!.........おうおう鳥人族の姉ちゃんよ、私んとこの天井ぶち抜いた落とし前、どーつけてくれるんじゃ!?」
「ごめんね!今から直すよ!」
「待たんか!素人の日曜大工なんざ願い下げじゃわい!銭を払え、銭を!」
「お金?ないよ、天使だもん!」
「なにゃあっ!?
.........むう、確かにお主、なーんにも持っておらんようじゃのう.........」
「わたし、ユウキ君に会いに来たんだ!きらきら通りへ行くにはどうしたらいいかな?」
「ユウキ.........?きらきら通り.........?知らんのう」
「ユウキ君は、赤いスーツを着たカッコイイ男の子だよ!きらきら通りは、夜になるときらきら光るんだ~!」
「マスター。服装から推測するに、ユウキ氏はホストのような接客業に従事しているのではないでしょうか。となればきらきら通りというのは、駅前の繁華街のことになるでしょうね」
「ああ.........なるほどのう。きらきらっつーか、ぎらぎらじゃがの、あそこは」
「知ってるの!?連れて行って!お願い!」
「お断りじゃ!マスターの私がこの店を離れる訳にはゆかぬ!」
「そ、そんなぁ~.........頑張ってここまで落ちてきたのに.........」
天使はかわいそうになるほどしょげ返り、目に涙を浮かべてうつむいている。
「ふ、ふん。天井ぶち抜き犯にくれてやる情けなどないわ.........」
「では、私が案内します」
「いいの!?ありがとう、おじいちゃん!」
「構いませんよ。どうせ、暇を持て余していたところです」
「カツラギ.........ふん、勝手にせい」
「マスター、彼女に傘を一本貸して頂けませんか。美しい天使がこんな老人と相合傘では、美的精神にもとるというものだ」
「客が忘れたのが傘立てにあるじゃろ。好きに持って行け」
「この中から選んでいいの?やった!」
彼女は目を輝かせながら傘を引き出し、時間をかけて何本も柄を確かめたあと、これだっ、と言って青い花柄の傘を手に取ると、肩越しにこちらを振り向いた。
「じゃあねー!きちんとお留守番、頑張るんだよー!」
「むかっ!!子ども扱いするでないわ、このホス狂堕天使が!」
二人が去ると、静かなジャズの音と、天井に空いた穴から降ってくる雨音だけが残った。
「なんなんじゃ、全く.........」
私は深くため息をつくと、馴染みの木材店に連絡するため、レジの横の電話に手を伸ばした。
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