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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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富士札

1565年春

 道中、商人たちから興味深い話を聞いた。 伊勢神宮の門前町である山田や宇治では、「羽書」なるものが使われているというのだ。 本来は商人の間で釣銭の代わりにやり取りされる、単なる預かり証に過ぎない。


 だが、その紙切れが、伊勢という神聖な地と商人たちの信用の下で、ごく一部とはいえ銭と同じように流通し始めているらしい。


 この話を聞いた時、氏真は背筋に電流が走るような興奮を覚えた。もし、この羽書の仕組みを昇華させることができれば、どうなるか。今川領内全域で使える紙幣が作れるのではないか。


 他国との取引にいきなり紙幣を使うのは難しいだろう。だが、今川領内だけでも紙幣が流通すれば、その恩恵は計り知れない。なにより持ち運びが容易になる。重い銭の山を荷車で運ぶ必要がなくなり、物流の速度は飛躍的に向上する。


 さらに、金や銀、銅といった貴重な鉱物資源を、貨幣の鋳造に浪費しなくても済むようになるのだ。これは資源の少ない日ノ本において、革命的な意味を持つ。


 紙幣の流通において最も重要なのは信用である。ただの紙切れを、銭と同じ価値があると人々に信じさせねばならない。そのためには、絶対的な裏付けが必要だ。


 氏真は、伊勢神宮への参拝を兼ねて、この紙幣についての見解を神宮側に直接問うことに決めた。



 伊勢に入り、まずはこの地を見事に平定した松平元信の陣所を訪ねた。久しぶりに顔を合わせた元信は、以前にも増して逞しく、精悍な顔つきになっていた。


「よくやった、次郎三郎。北伊勢の調略にはじまり、南伊勢の平定。すべてを通じてほとんど味方にも民にも被害がない。私の理想とする銭と理による戦を、これ以上ないほど見事に体現してくれた。そなたは間違いなく、今川の将来を担う者だ」


 氏真は手放しで彼を褒め称えた。事実、彼の働きは完璧であった。


 だが、一点だけ、どうしても言っておかねばならないことがあった。氏真は表情を引き締め、声を一段低くした。


「しかし、一点だけ言っておくことがある。中納言との一騎打ち…あれは、なぜ受けたのだ」


 元信は小さく身を硬くした。


「勝ったから良いものの、総大将が自ら刃を交える必要などどこにもない。ましてや、勝敗が完全に決した後のことだ。万が一にも、そなたの身に何かあれば、私は…今川はどうなると思っていたのだ」


 氏真の厳しい問い詰めに対し、元信は深く頭を下げた。


「殿。ご心配をおかけしたこと、そして勝手な判断を下したこと、深くお詫び申し上げます」


 そして、顔を上げ、氏真の目を真っ直ぐに見返した。


「されど、負けることなどあり得ぬと思っておりました故、受けてしまい申した。…それに、理由がございます」


「理由、だと?」


「はい。今川は銭や調略の力ばかりが目立ちますが、決して武でも侮ることができぬのだと、他国の者共にも知らしめる必要がご座りました。中納言は日ノ本中が知る武の達人、剣聖の弟子です。それが若輩の私になすすべもなく負けたとなれば、もはや誰も、今川を武力の無い軟弱な国だとは思いますまい」


 氏真は言葉を失った。 ただ血気にはやって受けたわけではない。彼は、今川の武威を天下に轟かせるための、最高で最良の舞台装置として、剣聖・北畠具教を利用したのだ。


「…そこまで考えていたというのか。さすがだな、次郎三郎。そなたの判断は、いつも正しいな」


 氏真は感息を漏らし、そして彼の肩にぽんと手を置いた。


「だが、当主としてはその働きを称賛するが、私はそなたを弟のように思っているのだ。二度と、兄に冷や汗をかかせるような真似はするな。良いな?」


 氏真の言葉に、元信の目がわずかに潤んだように見えた。


「…もったいなきお言葉。松平次郎三郎元信、命に代えても、さらに精進いたします」



 数日後。氏真は公家装束に身を包み、伊勢神宮の内宮、その厳かな対面所にて、神宮の要人たちと相対していた。 香の匂いと、静寂が支配する空間。神に仕える者たちの澄んだ視線が、氏真に注がれている。


「この度は、北畠の旧弊を払い、神域の静謐を取り戻せましたこと、何よりの喜びに存じます」


 氏真は扇を手に、静かに語りかけた。


「伊勢という尊き地を、野蛮な戦火や、理を解さぬ者たちから守ることができたこと。私にとって、何にも代えがたい喜びにございます」


 皆は静かに頷き、氏真の言葉に耳を傾けている。


「先程、門前の山田や宇治の者らとも対面いたしましたが、ここは誠に素晴らしい地ですな。人々の心が清浄で、澄み切っている。争いもなく、皆が穏やかに商いを行っている。これもひとえに、宮司様をはじめとする皆様の、神威によるお力によるところでしょう」


 氏真は一呼吸置き、本題へと入った。


「その山田の町で、一点、非常に面白いことを耳にしました。羽書なるものが、銭の代わりに機能しているという話です」


 要人たちの間に、わずかなさざ波が立った。神域での商習慣に大名が口を出すことを警戒したのかもしれない。


「誤解なきよう。私はそれを素晴らしいと申し上げているのです。紙切れが銭の代わりになる。これはすなわち、神宮の権威と伊勢の民の繋がりが、絶対的に信頼されている証に他なりませぬ」


 氏真は京の情勢を引き合いに出した。


「京におられる帝が、深く憂いておいででした。近頃は質の悪い撰銭が横行し、銭の価値が乱高下している。あろうことか、神への供物すらその価値を疑われ、弾かれる始末であると。これは八百万の神々への不敬であり、世の乱れの象徴であると嘆いておられました」


 氏真は彼らの目を見据えた。


「しかし、ここ伊勢ではそんなことはない。羽書という、確かな信用の理が築かれておられる」


「どうにか今川も、この伊勢の理の力を借りて、日ノ本を安定させたく思っております」


 氏真の言葉に、要人の一人が口を開いた。


「…理の力、とは、いかなることでしょうか」


「武力で民を従えるのではなく、誰もが信じ、等しく豊かになれる。そんな新たな理を、『富士札』という紙の銭として作りたい。そう考えたのです」


 氏真は懐から、美しい和紙を取り出した。


「この紙には、三つの力を宿したいと考えております。一つは、我が今川が誇る、富士の不動なる力。二つは、帝の公なる力。朝廷の許可を賜り、この紙に五七の桐紋を配します」


 氏真は深く頭を下げた。


「そして三つ目。これが最も重要な、伊勢の神なる力でございます。この札に、神宮の御印を賜りたいのです」


 対面所が、しんと静まり返った。


「神宮の皆様が危惧されることはわかっております。神聖なる御印を、俗世の商いに使うなど言語道断と。なれど、このただの紙に信用という命を吹き込むことができますのは、もはや神宮の権威をおいて他にありませぬ」


 氏真は熱を込めて語った。


「伊勢の神風を、日ノ本中になびかせたい。神の加護を、貧しき民の懐にまで届かせたいのです。銭の重さに苦しむ商人を救い、粗悪な銭に泣く農民を救いたい」


 さらに、氏真は最大の提案を口にした。


「無論、ただでとは申しませぬ。この富士札を発行し、ご協力をいただく度に、神宮の式年遷宮の費用として一定の銭を積立させていただきます。今川が保証する限り、遷宮が資金不足に陥るようなことは、二度とございませぬ」


 その言葉に、目の色が変わった。戦国乱世において、莫大な費用がかかる式年遷宮は常に資金難に悩まされており、延期されることも珍しくなかったのだ。その永続的な資金源が約束されるという提案は、彼らにとって干天の慈雨であったはずだ。


「この富士札を、単なる銭の代わりではなく、伊勢の神々が守る平和の象徴としたいのです。何卒、ご検討をいただきたく存じまする」


 氏真が深々と頭を下げると、長い沈黙の後、要人たちは顔を見合わせ、そして一様に明るい、安堵と希望に満ちた顔つきを見せた。彼らの反応を見る限り、首尾は上々といったところだろう。


 春の柔らかな日差しが、対面所の奥まで差し込んでいた。伊勢の神威と今川の経済が結びつく。新たな貨幣の歴史が、今まさにこの場所で始まろうとしていた。

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