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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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半兵衛

1565年冬

 堺の今川館は、駿府よりも幾分冷える。海風が強く、時折小雪が舞うこともあるため、どうしても室内での遊びが増える。広間からは、楽しげな子供たちの声と、大人の芝居がかった声が響いていた。


 すくすくと育ち、元気一杯の嫡男・龍王丸、弟の五郎丸、そして側近である明智光秀の娘・玉。三人の幼児の相手をしているのは、その光秀と、小姓の竹中半兵衛であった。彼らが興じているのは、最近この館で流行っている奇妙な遊び、今川官僚ごっこである。


「ええい、ここの数字が違うぞ! 説明せよ!」


 龍王丸が小さな指で帳面のふりをした紙を叩く。悪徳商人に扮した光秀と半兵衛が、大げさに驚いて見せる。


「おやおや、どこが違うとおっしゃいますか? こちらの数字はすべて合っているはずですよ、お代官様」


「それは…うーんと、全部だ! ぜんぶー!」


「だー!」「ぜんぶー!」


 五郎丸と玉も一緒になって声を上げる。


「はっはっは、それでは到底納得できませんな。しっかり証拠を見つけなければ、この取引は成立しませんぞ」


 半兵衛が涼しい顔で言い返す。理詰めを好む今川家らしい、高度な知育遊びだ。


 そんな他愛ないやり取りを、少し離れた場所から氏真と早川殿、光秀の妻の煕子、そして駿府から連れてきた侍女たちが、茶を飲みながら微笑ましく見守っていた。その時、侍女の一人がすっと動き、龍王丸に近づいた。安藤守就の娘、得月院である。彼女は龍王丸の耳元に口を寄せ、小さく囁いた。


「若様。…ここの、三と八が書き換えられておりますよ」


 龍王丸はパッと顔を輝かせ、半兵衛に向かって叫んだ。


「わかったぞ! ここだ! 三を八にしてちょろまかそうとしたな!」


「むむっ、見破られたか!」


 半兵衛が大げさに仰け反ると、子供たちは大喜びだ。


「ほう。安藤殿。わかるのか」


 氏真が感心して声をかけると、得月院は恥ずかしそうに頬を染めた。


「はい。…竹中様にお時間があるときに、算術や帳簿の見方を教えてもらっておりますゆえ」


 半兵衛が苦笑しながら補足する。


「ええ、安藤殿は非常に覚えがめでたい。若様よりも先に、たくさんのことを覚えてしまうかもしれませぬよ」


 それを聞いた龍王丸が、頬を膨らませて対抗心を燃やす。


「負けないぞ! 半兵衛の一番弟子はわらわだ!」


「ふふ、若様を超えるなんて滅相もございませぬ」


 得月院が慌てて手を振る。その様子は、姉と弟、あるいは未来の家族のような温かさを帯びていた。


「随分仲睦まじいのだな、半兵衛」


 氏真がからかうように言うと、半兵衛は視線を逸らし、しかし満更でもない表情を浮かべた。外は寒風が吹いているが、この部屋には春のような陽だまりがあった。



 数日後。氏真は執務室に半兵衛を呼び出した。


「半兵衛よ。そなたは穏やかで理知的で、非常に優秀だ。私の知恵袋と言っても過言ではない」


「過分なお言葉、恐れ入ります」


 半兵衛が平伏する。


「しかし一方で、その理知ゆえに冷徹に見える部分もある。…そんなそなたが、つきっきりで教えている安藤殿とは、どうなのだ」


 半兵衛の肩がピクリと動いた。


「…どう、とは」


「とぼけるな。もし縁を結びたいというのであれば、私が間を取り持つが」


「そんな、殿にそのようなことをしていただくわけには……」


「関係は否定せぬのだろう?」


 氏真は悪戯っぽく笑った。


「それに半兵衛、そなたを小姓から側近に引き上げようと思っているのだ」


 半兵衛が顔を上げた。


「側近、でございますか」


「うむ。十兵衛は近頃、京との連絡や公家衆との折衝で忙殺されている。十兵衛の補佐が必要だ。半兵衛、そなたはそのあたりに非常に聡い。どうだ。私をさらに側で、支えてはもらえぬか」


 半兵衛は居住まいを正し、深く頭を下げた。


「…それは、大変光栄なことにございます。謹んで、お受けさせていただきます」


「うむ。頼りにしているぞ」


 氏真は頷き、そして話題を戻した。


「さて、側近となれば、家臣らもさらに一目置く。何かと業務も増え、精神を削ることもあろう。そのためには、身の回りを慮り、心を休ませてくれる者がおらねばな」


 氏真は、遠くを見るような目をした。


「私が早川殿にどれだけ救われているか、そなたも近くで見ていてわかるだろう?」


「はい…とても仲睦まじいことと、常々羨ましく存じております」


「そうだ。半兵衛にもそんな相手がいると良いと、前々から思っていたのだ」


 半兵衛は観念したように、小さく息を吐いた。


「…安藤殿が、もし認めてくださるのであれば、この上ないことと存じます」


「うむ。聞いたか、太郎左衛門よ」


 氏真が声を張り上げると、襖がスッと開いた。そこには安藤守就が腕組みをして立っていた。


「き、聞かれていたのか…」


 唖然とする半兵衛を横目に、守就は豪快に笑った。


「半兵衛は儂の娘に惚れているようだぞ、と殿に呼び出されてな。…まさか、これほど直接的な物言いとは思わなんだが」


 守就は半兵衛の前に座り、ニヤリと笑った。


「貴殿ならば何の不満もない。むしろ、あのじゃじゃ馬が算術などに熱心な理由がようやく分かったわ。…娘を、よろしく頼む」


「は、はい! 必ずや!」


 普段は冷静沈着な半兵衛が、耳まで赤くして頭を下げる。


 こうして、春の訪れとともに、一つの出世と、一つの良縁が結ばれた。天才軍師の足元が固まり、今川の中枢はより強固なものとなったのである。

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