運命
1560年春
冬が去り、駿河に桜の便りが届く頃。氏真は小田原から訪れた義父・氏康と、人目を忍んで対峙していた。
五年前から着々と進めてきた国産硝石・火薬の製造プロジェクトは、ついに結実していた。輸入品を凌駕する品質の火薬が、今や今川の倉に溢れんばかりに積み上がっている。
しかし、氏真はこの事実を公にせず、あえてこれまで通り高価な輸入品を、徐々に数を減らしつつも、買い続ける姿勢を維持していた。情報漏洩を防ぎ、他国を油断させるためである。
「義父上、実は少々持て余しておりましてな」
氏真は、積み上がった硝石と火薬の在庫を、北条家へ格安で流すことを提案した。
「な、何だと…? これほどの量を、この値でか」
百戦錬磨の氏康も、提示された数字に目を剥いた。北条家は現在、関東において長尾景虎との激しい攻防を続けている。長尾の軍事的圧力に対し、火薬は喉から手が出るほど欲しい資材であった。
「昨年はまだ準備が整っておらず、十分な支援ができず申し訳ございませんでした。だが、今ならばこれだけの数をお渡しできます。…理由は問わないでいただきたい。ただ、東の守りを盤石にするため、とだけ」
氏真の狙いは、単なる親族への支援ではない。現在、北条家内では急進的な改革を進める今川に対し、不信感を募らせる保守的な家臣団も少なくなかった。
武力衝突こそ起きていないが、今川と北条の間に冷たい風が吹く瞬間もあったのだ。だが、この安価で独占的な火薬の供給という事実は、すべてを覆す。
「北条が関東の覇権を維持するには、今川の火薬が不可欠である」
この依存関係を築くことで、氏康、そして後継の氏政を、物理的かつ経済的に今川の陣営へ縛り付ける。氏康が今川を重視する姿勢を崩さなければ、家中がどれほど不満を持とうとも、反今川へと舵を切ることは不可能になる。
「治部大輔よ。其方は…恐ろしい男になったな」
氏康は苦笑いしながら、氏真の手を取った。
「優しさと見せかけて、逃げられぬ鎖を巻きつける。だが、その鎖が北条を守る盾となるのもまた事実か。よかろう、この話、確かに受けた」
氏真は微笑み、茶を啜った。東の北条を火薬で繋ぎ止める。この春、今川の算盤は、日ノ本の東半分を完全に固定する平和という名の檻を完成させつつあった。
北伊勢の統治を誰に任せるか。これは、氏真にとって今川の未来を占う重要な一手であった。北伊勢は他国に比べれば面積こそ小さいものの、そこには北伊勢四十八家と称される極めて自意識の強い国衆が割拠しており、統治の難度は極めて高い。
「この地は力で押さえつけるのではなく、彼らの誇りを尊重しつつ、今川の理に組み込む忍耐が必要だ」
氏真が白羽の矢を立てたのは、三河の松平元信であった。史実では徳川家康として天下を統べる男である。彼の慎重さと、人の懐に深く入る胆力こそが、この複雑な土地にふさわしい。元信には領管として、四十八家の取りまとめと、今川が最優先課題とする木曽三川の治水工事の総監督を命じた。
元信を支える副官には、交渉術に長けた石川数正ら三河の精鋭を同行させた。彼らは、反発する国衆一人ひとりと膝を突き合わせ、今川の下にいることが、いかに自分たちの領民と財を守ることに繋がるかを説いて回った。
元信に託されたもう一つの極秘任務は技術の蓄積である。
「次郎三郎よ。いずれ我らは日ノ本すべてを治め、その水流を統べる時が来るやもしれぬ。北伊勢での治水経験は、そのための壮大な実験場だと思ってほしい」
氏真の視線は、すでに日ノ本全土に向けられていた。
木曽三川の上流から下流までを完全に今川が掌握したことで、物流の動脈は一本に繋がった。
「あとは、人と金を注ぎ込むだけだ」
国境線が延び、不気味な沈黙を保つ北畠具教への警備を厳重にしつつ、元信という静かなる楔が伊勢の土壌をじわじわと今川の色に染め変えていった。
領土の急拡大に伴い、氏真が直面したのは深刻な人材不足であった。どれほど優れた法や技術があっても、それを現場で運用する人間がいなければ絵に描いた餅に過ぎない。
そこで氏真は、敵対勢力を吸収した尾張の地を人材の育成牧場と位置づけ、大規模な採用活動を展開した。
「尾張には、既存の枠に収まらぬ奇才が眠っている。それらを適材適所で使い倒すのだ」
まず、川並衆のリーダーとして知られる蜂須賀小六。彼には、その川の流れを知り尽くした知識を活かし、木曽三川の治水工事の案内人としての役目を与えた。土木工事の最前線で、自然の猛威をいなす彼の知恵は、今川の工兵隊にとって欠かせぬものとなった。
そして、ひときわ異彩を放つ男、木下藤吉郎である。その人たらしの才能と、驚異的な気配りの早さ。氏真は彼を、美濃の統治を任せている信長の下へと送った。
「三郎よ、この男は使いようだ。其方の苛烈さを和らげ、人心を掌握する潤滑油として厳しく育ててみよ」
信長と秀吉。史実では主従として天下を掠めた二人が、今川という巨大な傘の下で、美濃の発展のために切磋琢磨するという奇妙で強力な構図が出来上がった。
さらに、前田又左衛門利家、佐々内蔵助成政といった将来の有望株たちは、尾張領管の鵜殿長照の元に集められた。
「尾張の若武者どもに、今川の理を叩き込め。彼らが一人前になった時、日ノ本の形は完成する」
氏真の算盤は、未来の将星たちを買い上げ、今川という巨大な資本で磨き上げるという、究極の長期投資を行っていたのである。
一五六〇年五月十九日。史実においては、今川義元が桶狭間の雨の中で織田信長に討たれ、今川家の没落が始まるはずだった運命の日である。
しかし、この世界の駿府には、悲劇の予感など微塵もなかった。 外ではしとしとと静かな雨が降っているが、館の中は温かな茶の香りに包まれている。
「…五郎よ。この茶、実に美味いな」
そう言って微笑むのは、健在なる父、義元であった。かつての海道一の弓取りは、今や軍事的な野心以上に、息子・氏真がもたらす新しい理による国造りに深い関心を寄せ、後見としてどっしりと構えていた。
「父上、お口に合いましたか。これは新たに試作させた茶葉にございます」
氏真は、父の向かいに座り、穏やかに茶を啜った。もし、自分が前世の知識を活かさず、ただ流されるままに生きていたならば、今頃この館は血の海に沈み、自分は無様な敗残兵として歴史に名を残していたはずだった。
「桶狭間という地名があるそうですな。かつてそこを通る策もありましたが、今はこうして、父上と茶を飲める。これ以上の戦勝はございません」
「ふふ、何を妙なことを。そなたの算盤が、この雨を恵みの雨に変えたのだ。もはや、武力で天下を語る時代ではないのかもしれぬな」
義元は、雨に濡れる美しい庭を眺めながら、満足そうに目を細めた。父が生きている。早川殿が傍にいる。そして、信頼できる部下たちがそれぞれの地で汗を流している。 氏真の心には、かつてない達成感と、同時に次なる時代への強い使命感が湧き上がっていた。
「さあ、父上。次はどこを、この茶のように清々しく整えてみせましょうか」
二人の笑い声が、五月の雨音に溶けていく。今川の算盤は、ついに死の運命を完全に書き換え、誰も見たことのない太平の未来へと、力強く、そして優雅に動き出していた。




