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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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吉報

1560年夏

 飛騨の北部を領する名門・姉小路家からの使者が、飛騨特産の高品質な材木を携えて駿府を訪れた。 姉小路家は室町以来の国司の家系であるが、現実は厳しい。新興勢力の三木氏や江馬氏に圧され、その地位は風前の灯火。彼らの要求は極めて切実であった。


「今川の軍門に降る。その代わり、国司としての地位の保証と、今の領土の安堵を願いたい」


 険しい山々に囲まれた飛騨は、大軍を動かせば補給が即座に詰まる難所である。武力を使わずにこの天然の要塞を手に入れられるなら、これほど効率的な話はない。


 しかし、氏真は、彼らが提示した現状維持という数字に、すぐには首を縦に振らなかった。



 これまでの領地拡大を振り返れば、上手くいったのには明確な理由がある。


 尾張では、織田の兄弟喧嘩を収め、兄を引き剥がして家臣団を分散させた。名門・斯波氏は実権のない飾りとして据え置き、旧来の権威を利用しつつ統治の火種を消した。


 美濃では、頭となる義龍を処断し、組織を上から入れ替えた。隣国尾張の統治が上手く行っている様を見て、抗争よりも生存と安全を望んだ。


 甲斐・信濃は、信玄に従った強硬派は戦場で散った。生き残った義信を甲斐に、追われていた小笠原氏を北信濃に配したが、信玄という巨大な重石が取れたことで、互いに恨み合うよりも今川の理に従う利点を選んでいる。


 だが、飛騨は違う。現在進行形で殺し合っている名門と新参が、そのままの形で今川の重石の下に居座ればどうなるか。 三木や江馬からすれば、敗色濃厚だった姉小路が今川を盾にして居座り続けるのは、到底承服しかねる屈辱だろう。


 自らの意思で降るのではなく、降らざるを得ない状況でかつての敵を隣に置く。それは将来の反乱の種を、今川の懐に抱え込むようなものだ。


 飛騨の国衆の結びつきは、他の地域よりも遥かに排他的で強固である。


 山という巨大な障壁が、外部の法や常識を跳ね返してきた。ここに安易に介入すれば、内部で爆発が起き、今川の統治そのものが拒絶される。今後、加賀の一向一揆や越中の上杉を見据える上で、飛騨が不安定な占領地であっては困るのだ。


 飛騨は、今川の背後を支える盤石な資源拠点でなければならない。


「従属は歓迎する。だが、姉小路だけを特別扱いしては、飛騨の山は燃え上がるだろう。まずは三木や江馬とも膝を突き合わせて話さねばならぬな」


 そう考えていた氏真の元に、もう一人の利に聡い男がやってきた。



 夏の暑さがまだ色濃く残る頃、氏真は飛騨の独立勢力、内ヶ島兵庫頭氏理と駿府で会談を持った。内ヶ島氏は帰雲城を拠点とし、独自の鉱山技術と精錬集団を抱える異色の集団である。


 氏理は、姉小路のような古臭い名誉を求めなかった。彼の提示した条件は、極めて現代的なギブ・アンド・テイクであった。


「今川の米、そして清潔を保つ石鹸を。代わりに、我が一族が培った鉱山技術を今川の金山衆と共有しましょう。我らを領主としてではなく、今川の鉱山管理の責任者として雇っていただきたい」


 これは、願ってもない申し出であった。氏理は、領土の安堵という不安定な権利ではなく、自らの技術を今川のシステムに組み込ませることで、地位の安定と安全を勝ち取ろうとしたのだ。


 いわば、今川家という巨大企業の鉱山部門の専門職として就職することを希望したのである。


 飛騨には銀や鉛が豊富に眠っている。当時、銀の精錬には大量の鉛が必要不可欠であった。飛騨の鉛を信濃や駿河の精錬に回す。そして、今川・武田が誇る治水技術を応用し、鉱山の天敵である湧水を排除する排水システムを構築する。


 さらに、氏真の手元には今川火薬がある。 これまで手掘りで行われていた採掘に、火薬による発破を導入すればどうなるか。排水技術の向上と、火薬による破砕。


 この二つが合わされば、この時代における採掘効率は、他国が到底追いつけないレベルまで引き上げられるだろう。


 氏真は、氏理が早いうちに今川を頼ってくれたことに深く感謝し、彼を厚遇することを約束した。


「兵庫頭よ、そなたらの技術が今川を、そして飛騨を救う。我先に今川の傘下に入った功績、決して忘れぬぞ」


 この報せは、飛騨の山々を駆け巡るだろう。


「今川に降れば、食えぬ名誉よりも、温かな飯と最新の技術、そして安定した地位が手に入る」


 姉小路や三木、江馬が互いの顔色を窺っている間に、利に聡い技術者集団が今川の懐に飛び込んだ。


 これで飛騨のパワーバランスは一気に崩れる。他の一族も、自分たちの居場所を確保するために、我先にと声を上げざるを得なくなるはずだ。


 山に閉ざされた飛騨が、今川の算盤によって、日ノ本最大の資源工場へと生まれ変わろうとしていた。



1560年秋

「奥方様、懐妊にございます」


 医師と侍女からの報告を受けた瞬間、氏真の思考は真っ白になり、次いで爆発的な歓喜が押し寄せた。現代人の魂を持つ氏真にとって、早川殿は単なる政略の道具ではなく、この過酷な時代を共に歩む最愛の伴侶であった。


 十五歳の節目を待ち、真に結ばれたあの秋から一年。彼女の体に宿った新しい命は、史実の滅びを回避し、新しい歴史を切り拓いた氏真への、天からの最大の祝福に思えた。


「まことか! まことなのか、御前!」


 普段は算盤を手に冷静沈着を装う氏真であったが、この時ばかりは大騒ぎであった。家中を挙げての祝宴を命じ、自らも溢れ出す想いを和歌に認めた。


「秋深し 駿河の山に さす影の 光を継ぎて 咲くや若草」


 順調にいけば、来年の五月ごろ、ちょうど新緑が眩しい季節に産声を聞くことができるという。五月といえば、史実で義元が倒れた厄月である。その時期に新しい命が誕生するという事実は、今川家が完全に死運を脱したことの象徴であった。


 この吉報は瞬く間に領内を駆け巡った。隠居の義元をはじめ、松平元信や織田信長といった家臣たちからも続々と祝辞が届く。


 殿に嫡男誕生なれば、今川の栄華は盤石。との空気が醸成され、家臣団の結束はかつてないほどに強固なものとなった。


 氏真は早川殿の体を気遣い、最高級の滋養品と安産祈願を惜しみなく注ぎ込んだ。命が繋がるという実感は、氏真の統治への意欲をさらに燃え上がらせたのである。



早川殿:今川の宝

 身体に変化を感じ、皆様のお話を聞いて、どうやら懐妊したようだ。と分かったとき、私は天に昇るような喜びと、同時にほっとしたような、ようやく務めが果たせるかもしれないという安心感と、どちらも同じほどございました。


 殿が授けてくださった石鹸や、衛生という教えのおかげで、領内で赤子が亡くなることは以前よりも相当減ったと言います。


 ですが、依然として子とは弱い生き物です。わずかな異変で命を落とす。珍しいことではありません。産後の肥立ちが悪ければ、母が命を落とすこともございます。出産とは命懸け。お義母様や母から幾度となく教わったことです。


 殿は誰より、この報せを喜んでくれました。普段は穏やかで、冷静で、優雅な立ち居振る舞いの殿が、跳びはね、方々で歌っておりました。あのような殿を見るのは初めてです。


(子が産まれたら、どんなに喜んでくれるのでしょうか)


 まだ随分先になりますが、今から待ち遠しく思います。


 周りからは、身体を労り、今までのようには動かないよう言われております。ですが、当主の妻として、やるべき事は山のようにございます。習慣となっている富士参りはお休みして、代わりに文を認めます。


 家臣の妻たち、北条の家族、公家の皆様へ。


 私の送った文が、その一文字が、殿の理の一助となるように。産まれてくる我が子の、未来への架け橋となるように。


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