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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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34/41

生命

1559年秋

 甲斐の水晶や信濃の養蚕が急速に軌道に乗り始めたという報せは、美濃の地で采配を振る織田信長のもとへも届いていた。


 信長にとって、氏真がこれほどまでに鮮やかな内政の手腕を見せることは、驚きを通り越して一種の焦燥を抱かせるものであった。


 駿府の氏真のもとへ、信長から一通の書状が届く。その筆致は荒々しく、紙面からは彼の咆哮が聞こえてくるようであった。


「治部よ。甲斐や信濃ばかりを磨きおって。こっちだって負けてはおらぬ。美濃の特産品にももっと力を入れろ。我が領地を蔑ろにするならば、承知せぬぞ」


 信長らしい、剥き出しの競争心である。しかし、氏真はそれを受け流し、静かに算盤を弾き直した。氏真にとって、美濃は甲斐や信濃と同じ生産の地ではない。


 地図を広げれば一目瞭然であった。美濃は日ノ本を東西に、そして南北に分かつ結節点である。


 氏真は、落ち着いた筆致で信長へ返書を認めた。


「三郎よ、焦るな。美濃は産業を無理に生み出す必要のない場所だ。美濃は作る場所ではなく、全てのものが通る場所となるべきなのだ」


 氏真の構想はこうだ。街道を東西南北に張り巡らせ、木曽三川の治水を徹底して行う。美濃、尾張を日ノ本日一の物流拠点として整備すれば、あえて特産品を作らずとも、物とともに人が集まり、人が集まれば自然と銭が落ちる。


 美濃そのものを巨大な市場にするという、当時としては革命的な発想であった。


 そのために氏真は、織田家臣団の中でも普請の才に長けた丹羽長秀を美濃へと送り込んだ。


「五郎左よ。そなたに任せるのは城を築くことではない。場を築くことだ。川を制し、道を平らかにせよ。美濃を日ノ本の心臓となせ。直に下流を手に入れる。さすれば上から下、滞りなく流れるようになるぞ」


 作り出すことよりも、物が流れるための器を作る。この氏真の返答に、信長がどのような表情を浮かべたか。おそらく、その深い合理性に舌を巻きつつも、不敵な笑みを漏らしたに違いない。



 秋が深まる頃、今川の右腕として三河を支える松平元信から、喜びの報せが届いた。


「嫡男、誕生いたしました。名は、竹千代と名付けました」


 その名を聞いた瞬間、氏真の背筋に冷たい震えが走った。前世の知識が、その名に刻まれた悲劇を呼び起こしたからだ。史実における竹千代は、信長からの疑いをかけられ、父・家康の手によって切腹に追い込まれる悲運の貴公子であった。


「…竹千代か」


 氏真は呟き、拳を握りしめた。今、目の前にあるこの平和な世界では、そんなことは決して許さない。今川と松平が理と絆で結ばれ、信長ですら組織の一員として機能しているこの歴史において、若い命が政治の犠牲になる必要などどこにもないのだ。


 氏真は、元信へ最高級の絹と祝いの品を贈り、心からの書状を添えた。


「次郎三郎よ、よくやった。竹千代という名は、松平の誇り、そして今川の希望だ。この子が健やかに育ち、我らが築く新しい世を共に歩めるよう、私は全力を尽くして守り抜こう」


 元信は、氏真の言葉の裏にある深い決意を知る由もない。しかし、主君からの並々ならぬ気遣いに、松平家中の忠誠心はより一層強固なものとなった。一人の子の誕生が、三河と駿河の絆を、単なる主従を越えた家族のそれへと昇華させたのである。



 そして、氏真にとって何よりも重く、尊い節目が訪れた。最愛の妻、早川殿が数えで十五歳となったのである。


 現代人の魂を持つ氏真は、この時代の慣習とは裏腹に、心に一つの誓いを立てていた。それは、「彼女が身体的にも精神的にも成熟する十五歳になるまでは、決して手出しをしない」という、現代人としての倫理観に基づいた節度であった。


 しかし、その誓いを維持することは、想像以上に孤独で、かつ忍耐を要するものであった。


 戦国大名の嫡男として、側室も持たず、正室とも夜を共にしない期間が続くことは、周囲からすれば「氏真、不能なり」との陰口を叩かれかねない。幾度となく側室を持たないのかと迫られた。それでも氏真は、早川殿を一人の人間として慈しみ、彼女の成長を待ち続けた。


 秋の月が駿府の館を白く照らす夜。秋の虫の声が、静寂をより際立たせていた。


「…いいのだろうか」


 一人、書斎で算盤を置き、氏真は自問自答していた。彼女は妻だ。政略結婚とはいえ、今や互いに深く愛し合っている自負はある。昨年末、武田の裏切りによって己の策が民を犠牲にしたと打ちひしがれていた際、自分を叱咤し、温かく励ましてくれたのは彼女であった。


「殿、悩むことはありません。すべての人は救えずとも、いつか必ず理を理解してくれるはずです」


 あの時の彼女の言葉は、単なる慰めではなく、一国の主の妻としての覚悟に満ちていた。自分よりもよほどしっかりしている。もはや彼女は守られるだけの箱入り娘ではない。氏真を支える、唯一無二のパートナーなのだ。


 元信に子が産まれたという慶事も重なり、今川家中には「次は殿だ」という空気が満ち満ちていた。ここでさらに先延ばしにすることは、逆に彼女を不安にさせ、妻としての尊厳を傷つけることにもなりかねない。


「勇気を出せ、覚悟を決めろ」


 氏真は自らを鼓舞し、寝所へと向かった。そこには、十五歳を迎え、少女の可憐さと、女性としてのたおやかさを併せ持った早川殿が待っていた。行灯の灯りに照らされた彼女の横顔は、言葉を失うほどに美しかった。


「殿…」


 彼女が静かにこちらを向く。その瞳には、不安も迷いもなかった。ただ、数年間にわたって自分を大切にし続けてくれた夫への、絶対的な信頼と愛だけが湛えられていた。


「御前、待たせたな」


 氏真は、現代の頃の記憶、そしてこの戦国の世に転生してからの激動の日々を思い返しながら、ゆっくりと彼女の手を取った。


 その夜、氏真は今川家当主として、そして一人の男として、彼女と真に結ばれた。それは肉体の結合以上に、二つの異なる時代の魂が、この乱世を共に生き抜くという強い契約を交わした瞬間であった。



 翌朝。秋の清々しい光が部屋に差し込み、目が覚めると、早川殿はすでに身支度を整えていた。彼女の表情は、これまでのどの朝よりも輝き、自信に満ち溢れていた。


「殿、ありがとうございます。これで身も心も、真に今川の女となれました」


 彼女は深々と頭を下げ、そして顔を上げた時、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。


「早く、殿に似た利発な子を成したいものです。今川の算盤を継ぐ子を」


「…ああ、そうだな。だが、焦ることはない。そなたの身体を一番に考えよう」


 氏真は苦笑しながらも、温かな幸福感に包まれていた。かつての暗君というレッテルを剥がし、新しい時代を作ろうとする自分の隣には、これほどまでに強くて美しい妻がいる。


「これからも、よろしく頼む、御前」


「はい。どこまでも、殿にお供いたします」


 駿府の館に流れる空気は、これまでの張り詰めた緊張感とは異なり、穏やかで希望に満ちたものに変わっていた。 秋の実は収穫され、新しい命への準備が整う。氏真の算盤は、もはや己の生き残りのためだけではなく、愛する家族と、守るべき民の、果てしない未来を弾き始めていた。

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