薩埵峠の戦い
1559年冬
富士山西麓での別働隊壊滅と時を同じくして、武田信玄率いる本隊八千は、万沢口の険しき山道を抜け、内房へとその姿を現した。
信玄の狙いは、富士川を渡り、東海道の要衝・薩埵峠を一気に駆け抜けて駿府を強襲することにある。今川側も内房の地で迎え撃つ選択肢はあった。しかし、山間部での小競り合いに終始すれば、老獪な信玄は形勢不利と見るや即座に撤退し、牙を研ぎ直すだろう。
「生かして甲斐へ帰してはならぬ。此度の裏切り、武田という家そのものを根絶やしにする覚悟で挑め」
義元の命は非情であった。真田源五郎がもたらした詳細な軍事情報により整備した防衛計画が、今、薩埵峠という名の巨大な罠を起動させようとしていた。
薩埵峠。そこは、右手に駿河湾の荒波が打ち寄せ、左手には切り立った山がそびえる、東海道随一の難所である。軍勢は必然的に細長い蛇のような縦陣にならざるを得ない。
信玄の本隊が峠の狭隘部に差し掛かった時、異変は起きた。
「止まれ! 前方に障害物だ!」
先鋒隊が叫ぶ。道の先、急坂の上から突如として、地響きと共に巨大な岩と丸太が猛烈な勢いで転がり落ちてきたのだ。
「うわああああっ!」
「岩だ! 避けろ、海に落ちるぞ!」
重力という名の無慈悲な暴力が、武田の精鋭たちをなぎ倒していく。大木は馬を叩き潰し、巨岩は兵を鎧ごと粉砕した。急坂を塞ぐように積み重なった岩と丸太、そして兵の骸。武田軍の機動力は、開戦からわずか数刻で完全に奪われた。
前方が塞がり、軍が停滞したその瞬間。山側の尾根に、数多の旗印がひらりと舞い上がった。赤鳥の紋―今川義元本隊である。
「…放て」
義元の静かな号令と共に、尾根にずらりと並んだ鉄砲隊が火蓋を切った。それは、氏真が南蛮商人から買い付け、尾張の職人に改良させた新式の火縄銃であった。数百丁の銃身が一斉に火を吹き、辺りには耳を塞ぎたくなるほどの凄まじい轟音が鳴り響いた。
「な、なんだこの音は! 雷か!?」
当時の武士たちにとって、これほどの数の鉄砲が一斉に放たれる音は未体験の恐怖であった。火薬の煙が峠を白く染め、銃声の反響が兵たちの平衡感覚を奪う。何より、この轟音に耐えられなかったのは馬たちであった。
狂乱した武田の騎馬たちが、主人を振り落とし、あるいは乗せたまま暴れ狂う。
「落ち着け! 止まれ!」
叫びも虚しく、何十騎という馬が、断崖から荒れ狂う駿河湾へと自ら飛び込んでいった。海面には赤い飛沫が上がり、名馬も猛将も、等しく波間に消えてゆく。
その別の側、すなわち駿河湾。そこには、今川の誇る駿河水軍の安宅船が、城塞のように立ち並んでいた。
「海からも来るぞ! 弓だ、盾を構えろ!」
船上からは、揺れを計算に入れた熟練の射手たちが、矢の雨を降らせる。山からの投石、尾根からの鉄砲、そして海からの狙撃。三方を完全に封じられた武田軍は、もはや組織的な抵抗すら不可能な地獄絵図の只中にあった。
「秋山からの連絡はどうした! 別働隊はどうなっている!」
信玄は、荒れ狂う馬を必死に抑えながら叫んだ。だが、別働隊はすでに朝霧高原で全滅している。信玄に届くのは、波の音と、絶え間ない銃声、そして部下たちの断末魔だけであった。
「…撤退だ! 全軍、富士川まで退け! ここでは戦にならぬ!」
信玄は断腸の思いで退却を命じた。峠を降り、富士川の河口を抜けて甲斐へと逃げ延びる。それ以外に道はない。
信玄が峠を駆け降り、富士川の河口が見える浜辺に辿り着いた時、彼の目に映ったのは、さらなる絶望であった。
駿河湾から富士川の河口に至るまで、今川の水軍がずらりと防波堤のように並び、そこから数多の小舟が浜へと押し寄せていたのである。
「退路も…断たれていたか」
浜辺には、すでに上陸を完了した今川の伏兵たちが、槍を揃えて待ち構えていた。四方を囲まれた武田軍。逃げ場はどこにもない。
「裏切り者には死を! 信玄の首を上げよ!」
今川の将兵たちの執念は凄まじかった。三国同盟を、愛する姫を、そして武士の誇りを踏みにじった武田への怒りが、一振り一振りの刀に宿る。かつて最強と謳われた武田の赤備えも、この包囲網の中ではただの標的であった。
一人、また一人と、信玄が信頼した名だたる将たちが、今川兵の槍に屈し、その首を落とされていく。
日も傾きかけた頃。薩埵峠から富士川にかけての地は、もはや戦場ではなく、一方的な処刑場と化していた。武田軍七千のうち、動ける者はわずか数百。信玄の周囲を守る盾も、今は数えるほどしか残っていない。
信玄自身も、肩に矢を負い、その豪華な兜は血と泥に汚れきっていた。目の前には、義元が率いる直轄軍が、静かに、しかし圧倒的な威圧感を持って歩み寄ってくる。
「…ここまでか」
信玄は、自らの愛刀を杖代わりに、ゆっくりと雪の上に膝を折った。戦の天才と呼ばれ、日ノ本を震撼させた甲斐の虎が、今、駿河の大地に這いつくばったのである。
その背後では、駿河湾の波が静かに打ち寄せていた。信玄が誇った騎馬軍団の残骸を、冷たい海が飲み込んでゆく。
一方、今川館。まだこの決定的な勝利の報は届いていない。氏真は、静まり返った書斎で、ただ一音。
「…パチン」
と、算盤の珠を弾いた。それは、武田という巨大な債務を、歴史から抹消するための、最後の一撃であった。




