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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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112/126

反応

1569年春

 初夏の日差しが廊下に差し込む午後、氏真は嫡男・龍王丸を呼び寄せた。 まだ幼い息子を前に、氏真は一人の統治者として語りかけた。


「龍王丸よ。おそらく来年は、父上は西か北、あるいはその両方へ遠征に行かねばならぬ。その間、そなたがこの今川館の主となり、祖父上を後見として、今川家の顔になってもらうことになる」


 龍王丸は緊張した面持ちで父を見つめている。


「もちろん、今は何も分からなくてよい。そしてな、この父の仕事…天下を治めるという難儀な仕事は、必ずしもそなたが継がねばならぬと決まっているわけでもない」


 氏真は、かつて自分がそうであったように、息子に自由な選択肢を与えたいと考えていた。


「だが、もしそなたがこの仕事に興味を持ち、自分の手で世を良くしたいと願うのであれば…父が何を見て、何を成そうとしているのか、その肌で感じてみるがいい。わずかな時間かもしれぬが、きっとそなたの将来の糧になる」


 龍王丸は、小さく、しかし力強く頷いた。氏真はその頭を優しく撫で、同時に、自分がこれから背負う戦の重みを再確認した。民を富ませ、子供たちに平和な未来を渡す。そのための最後の大仕事が、すぐそこまで迫っていた。



佐竹修理大夫義重

「中将様からは、従属を認める温かな返事をいただいた。だが…」


 義重は地図上の相模を見つめ、拳を握りしめた。


「北条にだけは降るわけにはいかぬ。北条との戦で命を散らした兵たち、将たちに対し、自ら降ったなどという腑抜けた姿は見せられぬのだ。だが、某の意地のために北条とぶつかり、一族の命を無為に散らすこともできぬ。…中将様にお伝えせよ。佐竹一族を丸ごと別の地に移していただけるなら、喜んで臣下に加わると。常陸の地を北条に明け渡す屈辱を味わうくらいなら、見知らぬ地で今川の法を振るうほうが、よほど武士の矜持を保てるというものだ」



伊達左京大夫輝宗

「静謐中将、今川左近衛中将氏真か。これで天下は定まるのだろうな」


 手元に届いた書状には、かつての盟友・上杉に刃を向けたことを厳しく咎める文言が並んでいた。


「陸奥一国に収まるなら領管として認めよう、か。嫡男・梵天丸が育てば今川から姫を出すとも。…寂しくはある。伊達が奥州の覇を唱える夢は、ここで潰えたのだからな。だが、軍神と今川の財力を同時に敵に回して、この雪国が生き残れる道理はない。梵天丸に伊達の家名を繋ぐため、今はその巨大な影に身を寄せるのが唯一の道か。…さらばだ、我が野心よ。これからは今川という名の天下を、北の果てから支えるとしよう」



蘆名修理大夫盛氏

「ふん、若造が。儂が上杉に勝てるわけがないと見縊りおって」


 盛氏は氏真からの書状を投げ捨てた。そこには、地を捨てて他方へ移るなら家名を許すという、情けを装った追放命令が記されていた。


「軍神と戦うか、家を残すか選べだと? どちらも断る。伊達と組み、隙を突いて有利な条件を引き出すまでよ。今川の経済圏とやらは魅力的だが、土地を奪われては元も子もない。伊達を揺さぶり、蘆名がこの地で生き残るための第三の道を探ってやる。若造の静謐とやらが、いかに脆いものか、奥州の厳しさをもって教えてやろうではないか」



南部大膳大夫晴政

「ふん。何が天下静謐使だ。私利私欲のために領土を得ようと、大義を掲げているだけに過ぎぬだろう」


 晴政は冷笑を浮かべ、広大な領土の先にある海を見つめた。


「こちらには海がある。陸路でどれだけ大軍が攻めてこようと、この最果ての地を容易に抜けることなどできぬ。それに蘆名や伊達が壁となれば、今川がここまで辿り着くには数年はかかろう。あちらが焦り、北の交易利権を求めて泣きついてきた頃に、対等な条件で結んでやらんこともない。奥州の主はこの儂だ。駿河の公家風情に指図される覚えはないわ」



山名右衛門佐祐豊

「中将様が、毛利に追われた我らが家を支えてくださる…。尼子の再興にも尽力されているとは、まさに帝の信任厚きお方だ」


 祐豊の瞳には、かつての栄光を取り戻さんとする激しい炎が宿っていた。


「我らは先陣切って毛利を攻め立てる。奪われた領土を取り戻すためなら、たとえ地獄へ至る道であろうと進むつもりだ。今川の理がどれほどのものか、この身をもって西国へ示してやろう。命をかけてでも、この絶好の好機を逃すわけにはいかぬ。毛利の首を、中将様の足元へ届けてやるのが、我ら山名に残された唯一の使命よ」



長宗我部弥三郎元親

「土佐の統一がようやく近づいてきたというのに…これでは三好が四国の覇者だと、公に認めろというようなものではないか」


 元親は四国の地図を指で強く叩いた。


「今はまだ、力で言えば長宗我部は弱い。だが、ようやく光が見えてきたのだ。俺にはまだ継ぐべき子もおらぬ。ここで今川に屈し、三好の風下に立てば、長宗我部の家名は歴史の片隅に消える。…後ろに道は無いのだ。どれほど無理だと言われようと、立ち上がるほかあるまい。土佐の波涛を、今川の静謐とやらにぶつけてやるまでだ」



毛利陸奥守元就

「こうきたか、今川め。力で解決せぬやつは、なんと面倒な…」


 元就は深く溜息をついた。戦えば綻びも見えるが、戦う前に構造で勝負を決めに来る氏真のやり方は、元就にとっても未知の脅威であった。


「受け入れれば最後、二度と自力で立ち上がることはできまい。幸い、毛利にはまだ力が残っておる。山名や尼子の残党が集っているというが、ぶつかれば押し戻せるはず。だが、宇喜多は信用ならんし、三好も牙を研いでいる。…今はまだ結論は出せぬな。あの男の本質がどこにあるのか、もう少し見極める必要がある」



宇喜多和泉守直家

「なんと面白いことを考えるお方よ。かような方は初めてであるな」


 直家は今川の書状を読み、独り不敵に笑った。


「武力による支配でないとなれば、むしろ私に分がある。今川という巨大な組織の内に入り込み、毒を撒く。組織が大きければ大きいほど、必ずどこかに腐った箇所は生まれるものだ。その腐った肉を食いちぎり、私の血肉とする。…今川さえ食らえば、日ノ本のすべてが手に入るのだ。これほど絶好の機会、逃す手はない。まずは自分を売り、中将様に気に入られることから始めようか」



大友修理大夫宗麟

「中将は伴天連にも理解があるというではないか。私と同じ教えを尊ぶお方かもしれぬな。であれば、組まぬ理由はない」


 宗麟は十字架を指でなぞりながら、窓外の海を見つめた。


「だが、九州は遠い。時をかければ、さらに良い条件を引き出す余地はあるはずだ。まずは東の壁となって立ちはだかる毛利よ。あの邪魔な連中が今川とぶつかる瞬間、背後から心臓を刺してやる。その功績をもって、西海全土を我が手に収めるのだ。今はまだ慌てる時ではない。神の導きと今川の理、どちらが私に利をもたらすか、ゆっくりと眺めさせてもらおう」



龍造寺山城守隆信

「家格や実績を問わず、か。俺のような成り上がり者には最高の条件だ。だがな…」


 隆信は大きな身体を揺らし、不満げに鼻を鳴らした。


「今降れば、せいぜい肥前一国。そんなつまらない野望のために、血反吐を吐いてここまで来たわけじゃない。最低でも三、いや四の国は欲しい。大友か島津、どちらかを食らわねば腹が収まらぬ。奴らが今川に靡いた瞬間、その横槍を突く。俺が最も得をする、俺だけが肥える策を練れ。今川の静謐とやらも、俺の胃袋を満たしてからだ」



島津修理大夫義久

「南の端にいると思って、舐めてかかっているのだろう。お高くとまった公家風情が」


 義弘は愛刀の感触を確かめ、鋭い眼光を放った。


「我らには南蛮からの物資もある。荒波を越えてここまで来ることが、どれほど容易でないか、思い知らせてやらねばならぬな。今川が来る前に、まずは薩摩、大隅を固め、相良や伊東を呑み込んでおく。さっさと九州を平らげ、奴らの前に立ちはだかってやるわ。言葉の理よりも、本当の力がどちらにあるか、戦場で教えてやるぞ」



 号令から数ヶ月。各地の大名たちの反応は、氏真の予想通り、あるいは予想を超えるほどに多様であった。恭順、反発、そして密かな野心。静謐の理が、日ノ本という巨大な坩堝に投じられ、新たな争いの火種と平和の萌芽が同時に芽吹き始めていた。一年後という期限に向け、歴史はかつてない速度で動き出す。

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