プロローグ 2
雲の多い満月の夜だった。
その日の夜は。
街灯すらない道。
何度も戦闘で破壊され修理する次の予算が無い為放置されている道路。
自動車やバイクならライトで道路を照らすことが出来るが徒歩では難しい。
幸い深夜では無いのが救いだろう。
周囲に有る人家の明かりは帰り道を照らす。
仕事帰りの電車から降りた僕は帰宅の途についていた。
派遣会社の帰り。
低賃金の会社で長時間拘束されこんな時間に帰宅だ。
深夜という程では無いが遅い時間という事には変わりない。
手取りで十五万円。
はっきり言えば此の派遣会社はブラックと言いたい。
冷凍食品関係の仕事だから仕方ないけど。
仕方ないんだけどね~~。
拘束時間が長い割に給料が低い。
しかも年末は一ヶ月休み無しだ。
労働基準法なんぞ無いに等しい。
しかも忙しい時は食事の時間も無し。
仕事が有るのは良い。
だけど仕事の量の割に給料が安い。
此れでは家庭を持つのは無理だろう。
結婚は夢また夢。
普通に酷いと言えるだろう。
とはいえ和食の料理人程ではない。
何しろアソコは見習いの給料は十万円。
其れは何年経過しても変わらない。
働いた年数で給料が上がるという事はない。
ボーナスもない。
休みもない。
日曜日休み?
なにそれ?
都市伝説?
という感じだし。
アソコは毎日仕事が普通だしね。
最悪な事に拘束時間はほぼ一日。
食と住の保証はされてるが普通にキツイ。
仕事が終わる時は寝る時間と言うのは馬鹿なの?
等と言いたい。
しかも年末は客の鉢盛の為に徹夜が普通。
若い人なら良いよ。
年齢が高い人間にはキツイ環境ですよ。
普通にしんどいのがデフォルトの職場です。
アソコは独立しないと無理だろうね。
和食の……というか料理の世界は。
いや本当に。
それでも客が来ないと商売にならんし。
はあ~~世の中はままならんです。
「早く帰ろう」
うん。
最近物騒な事件が多いし。
確か山から熊が降りて町中を徘徊してると聞いてるし。
早く帰るか。
僕は無意識に懐のお守りを弄る。
そう考えていた時のことだ。
生臭い風が鼻孔を擽った。
生臭い。
そう生臭い風。
此の匂いは何か記憶にあるな?
何だっけ?
そうだ。
思い出した。
以前居酒屋で仕事をしていた時に嗅いだ匂い。
まな板を洗う時に嗅いだ匂いだ。
其れが何で?
お守りを弄る。
満月は分厚い雲に覆われ視界がままならない。
其の光を遮られた先に何かが居るのは分かる。
グチャグチャ。
何かが聞こえる。
何かが。
薄暗い物陰から。
薄暗い物陰に何か居る。
ナニカが。
「うん?」
何かが湿ったような音がする。
まるで犬が餌を催促する音のような。
口に中を鳴らしてる音のような。
犬かな?
飼い犬が脱走したのかな?
其れで飼い主にご飯を貰えなくて催促してるんかな?
犬だよな?
グチャグチャ。
フシュ。
湿った音と共に何かを吹く感じがする。
生物なのは間違いないみたいだ。
此の独特の音は息だな。
動物の息。
匂いを嗅いだ時に吐く息。
犬だよな?
犬と言ってくれ。
湿った音。
湿ったナニカ。
音は正面から聞こえる。
グチャグチャ。
湿った音。
湿ったナニカ。
満月の明かりが届かない暗闇。
ナニカから音が聞こえる。
其れはまるで犬が食べ物を咀嚼してる音に聞こえる。
「あ……」
声が出たのはごく自然な事だった。
……。
そんなときだった。
分厚い雲が晴れたのは。
地上を照らす満月の光。
光は其れを照らす。
……ゴクッ。
何かを飲み込む音。
僕の唾液の音ではない。
音の発生源は視線の先。
其れは大きな獣だった。
夜の暗さも有るだろう。
黒い。
黒い毛皮。
満月の光を受け美しい光沢を放つ固く靭やかな毛。
凛々しくも美しい黒い瞳。
精悍さと凶暴さを象徴する牙を隠す大きな口。
鍛えられた四肢。
元は何処かの訓練施設に居たのだろう。
其の身に贅肉らしきものは見当たらない。
恐らく何処かの訓練施設から逃げ出した獣。
野生化した犬。
獰猛な犬種。
ドーベルマンという品種の大型の犬だ。
其れが野生化して此方を睨んでいた。
恨めしそうな目で。
グチャ。
首を裂かれ食い破られ咀嚼。
骨をかみ砕かれた目で。
其の口からはダラダラと血を流していた。
食われている。
食われている。
ナニに?
眼前の存在に。
大型犬の首を食いちぎる大きな生き物。
大きく。
黒く。
強大な生き物。
いや。
此れを生き物と言うべきか?
目に当たる部分は大きく窪み眼球が無い。
其れにも関わらず此方を見ている。
見ている。
見られている。
此方を見下している。
此方を観察しているのだろう。
上から下まで。
其処に有るのは興味。
というか此れは本当に生物なのだろうか?
仕草は生物のようだ。
機械のような感じには見えない。
此方を見る動作は肉食獣が獲物を見る目に似ている。
いや仕草がそうだと言いたい。
仕草のみが生物に近い。
針金のような金属質の髪。
黒いゴムのような肌。
硬質の硬そうな長い爪。
明らかに生物と言うには矛盾した生き物だ。
ニチャアと血と肉片まみれの口を歪め笑った。
「ミツケタ」
気がついたら走り出していた。
あの後の記憶がない。
何かが聞こえる。
人の声だ。
其れも男の。
近くから聞こえる。
近くから。
其れが自分の悲鳴だと気づいたのは後だった。
ドンドン走る僕。
ドンドン。
ドンドン。
力の限り走った。
体感時間で一時間だろうか?
距離的にはどれぐらいかわからない。
可也走ったことは確かだ。
火事場のクソ力というのだろう。
自分の限界を超えた距離を踏破した事は分かる。
物凄く走った。
物凄く。
なのに既視感がする。
見慣れた風景。
見慣れている。
其れも最近。
先程の場所。
「モウイイカ?」
その声に僕は息を乱し倒れた。
ハアハア吐息が荒い。
息をするのすら苦痛だ。
心臓が破裂しそうだ。
極端な運動が原因だけではない。
何で?
どうして?
「何で……」
それしか言えなかった。
正面にはドーベルマンを骨に変えている化け物がいたからだ。
化け物の様子を見るに動いた気配は無い。
化け物の呼吸が乱れてない。
時間が経過したのは分かる。
眼の前の化け物の食事が進行していたからだ。
つまり僕は同じところを回っていたという事だ。
此の化け物が近くに居る事に気が付かず。
しかもこんな異常が起きてるのに近くの人家から人が出てこない。
「ウマソウダナオマエ……ダガソノマエニ」
ダラダラと涎を垂らした化け物は僕に向け手を伸ばす。
その光景に僕は無意識に懐のお守りを握った。
そんな時だった。
「まてえええええええええええええええっ!」
声がしたのは。
僕は命の危険を感じつつも思わず声の方に顔を向けた。
奇しくも化け物も同じく顔をソチラに向ける。
「ゑ?」
「エ?」
其処に居たものに僕は目を点にする。
化け物もだ。
其処には柴犬を連れた少年が居た。
正確言えば柴犬に乗った少年が。
……。
………。
…………。
ゑ?
今日は此処まで。