問題
また雨だ。
俺は梅雨が嫌いだ。
雨を見ると負けたあの日を思い出す。
俺は飲み物を買いに体育館を出た。
自販機の前に立つと、お金を入れてボタンを押す。
その間にふとグラウンドの方を見る。
雨の中買える生徒がちらほらとうかがえる。
その中に、見知った顔があった。
背の高い男と小さく髪の長い少女。
高月ツミキと古式岸子だ。
二人はどちらかが傘を忘れたのか、一つの傘で歩いていた。
その後ろを、波倉未来が二人を茶化しながら笑顔で、しかし無理をしていると分かるどこか明るすぎる笑顔で、続く。
「高月……」
俺は自販機からペットボトルを取り出す。飲む。
のどが灼けるように冷たかった。
不穏なる宣戦布告から数日、俺は何事もなく過ごしていた。
理由は簡単である。
闇討ちすると宣言されたのだから夜出歩かなければいいだけの話で、俺はひそかな楽しみである、夜のコンビニでの買い食いを我慢するだけで問題なく生活ができた。
その分体重が微妙に減ったし、早寝する習慣がついたので人間としては正しい在り方に近付いたようだ。
人間として正しい在り方が、俺として正しい在り方かどうかは置いといて、最近体の調子が以前よりも良くなった。
欠片も感謝する気持ちは、さらさら、全く、ないのだが。
閑話休題。
しかし、一つ無視できない問題が浮上した。
現在の教育システムが出来て以来、数多の高校生たちを苦しめ続けてきた――肉体的には過労を強い、精神的には追い詰め続けてきた――とある行事が行われたのである。
俺はそれを個人的に現在の教育システムが形式化した遠因の一つであり、特に英語なんかはこのシステムによってマニュアル化された教科書英語となって、実用性が雲散霧消してしまった事は否めないと思っている。
とまあ、柄にもなく小難し事を回りくどく語って見せたが、端的に何があったのかというと、
「……やべぇ、さっきの化学のテスト問題の解き方どころか、何を聞かれてるのかが分からなかった」
そう、中間テストだ。
そしてさっきの独白は科学のテスト中に暇すぎてちょっとトリップしてたのである。
……モルなんて概念考えたやつ滅べよもう。
っとと、心が荒んできた。
こんな時は古式でも眺めて癒されたいところであるが、あいつは別のクラスだ。それにあいつは成績がいい方みたいだし、清々しいほどいい顔をしているだろうから今の俺には神々しすぎて直視に堪えない。
化学に関しては丸が一つもない気がするんだ。
しかし、中学の頃テストにおいて丸が一つもない事はあり得ないと主張するとある委員長がいた。曰く、「零点を取ったら取ったで‘0’も丸じゃん」だそうだ。
ちなみにやつは三角一個で一点取って見事に持論を崩壊させた経歴を持つ。
彼女のあだ名はしばらくオンリーワンに決定した。
しかし、その後彼女は「only oneには丸が二つあるよねっ!?」と大幅かつやけくそ気味に持論を修正しやがった。
見習いたくないタイプの前向きさだ。
眼鏡で真面目で委員長とくれば、成績優秀と相場は決まっているもんだが、やつはさっきの化学のテストの時、俺より先に寝ていた。
ちなみにこのクラスでも委員長をやってる。
世の中にはモル以外にも理解できないものがあるもんだ。
「アンタ、さっきから何してんの?」
実のない思考を断ち切ったのは波倉のいつも通りの不機嫌そうな声だった。
「うん? ……現実逃避?」
「ずいぶん余裕ね。次は古典よ、大丈夫なの?」
「大丈夫そうに見えるか」
俺はにんまりと笑ってやった。
「アホそうに見えるわね」
波倉はにんまり笑って言った。
そんな会話をしているうちに、貴重な休み時間の終了を告げるチャイムが鳴る。
まずい。
俺が恐れているのはこのテストで驚異的、というかむしろダイナミックなまでに悪い点数を取る事なんかじゃない。
赤点を採った場合、補習があるのである。
そしてそれは七時近くまで続くのである。
七時ともなれば既に辺りは暗いのである。
つまるところ絶好の闇討ちの機会である。
だからこそ俺は自らの平穏のために、全力で赤点を回避しなければならない。
「はーい席につけー。今頃悪あがきしたってどうにもならないぞー」
俺はいかにも体育会系な感じのする教師の指示に従って席につく。そして前の席からテスト用紙が後ろへと手渡されていく間にも俺は考える。
奇しくも古典は担任の外堀先生の作ったテストだ。
彼は若くてやる気に満ち溢れた先生であるし、生徒からの信頼も篤い。
そんな外堀先生が俺たちを困らせるようなテストを作るはずがない。
「よーし後ろまで回ったな、よしよし。テスト時間は今からこの時計で六十分間だ。よーい……始めッ!!」
俺はクラウチングスタートでもしろってか、というものすごくどうでもいい突っ込みを飲み込みながら、外堀先生への全幅の信頼を胸に抱き、問題用紙を表にした。
「こ、これは!!?」
俺は思わず小さな声を上げた。
主に基礎を問いつつ変化球的問題も加え、時折ひっかけ問題を混ぜた上でほんの少しだけサービス問題もあり、果ては授業を受けただけでは答えにくい記述式問題まで搭載されたこれは……。
なんて良いテストなんだ。
勉強したら勉強しただけ点数が取れる仕組みになっている。
クソッ、つまり俺じゃ解けないじゃないか。
しかも記述式じゃさっきまで頼りきりだったサイコロ鉛筆も歯が立たない。
俺は絶望に頭を抱えた。
待て待て、落ち着こう。仮にサイコロ鉛筆が使えたとしても正答率は変わらない。むしろ部分点がある記述式の問題を出来るだけ埋めるべきだ。何か書いておけば一点ぐらいくれるかもしれない。
俺はとりあえず、三つある記述式回答欄を埋めてしまう。
一つ目を今売れているアイドルの名前でしりとりをして埋めてみた。
二つ目には牛肉の臭みを取るにはショウガを使うと有効である旨を記しておいた。
三つ目は特に書くことがないので最近の政治情勢について知ったかぶりで語った。
正直自分で自分の首を絞めている気がしてならないが、まあいい。
……古典文学なんて信長に焼き打ちされればよかったのに。
あ、また荒んできた。
俺は記号で答える部分を夢の狭間に飛んでった、外堀先生の授業の記憶を手繰り寄せて埋めた。
考えた末の八割は勘だ。
ちなみに残り二割は問題を読んですらいない。
無情にもチャイムが鳴ったため急いで埋めたのだ。
後ろから順番に解答用紙が前へと手渡されていく。
教師は厳粛な顔でそれらをまとめると、そそくさと教室を後にした。
扉が閉まると同時、怒涛のようにテストに関する会話多々、それに混じって安堵と絶望のため息が少々、教室に木霊する。
俺は右隣の親友に声をかけた。
「なあ弾希」
「なんだツミキ」
「職員室に隕石が落ちてテストの答案が木っ端微塵になる確率ってどのくらいだと思う?」
「お前が補習を受けなくて済む確率と同じくらいじゃないか?」
「やったぜ勝率が二倍になった!!」
「……前向きだな」
どこぞの委員長を見習ってみたんだよ。
いいじゃないか前向きで。