日浄月穢
オルベルの放った電撃は個人の扱う魔法としては破格の威力を誇る。人間であろうと魔物であろうと、そして忌血種であろうと直撃を受ければ一瞬にしてこの世からの退場を強制される、それ程の威力を秘めていた。
「……………………?」
故にオルベルは首を傾げる。目の前の焦土と化した大地に動くものがいることの異常さを理解していたから。
「馬鹿が……。やせ我慢して勝手に逝きやがって……」
黒煙の中で影が揺らめく。
オルベルは躊躇いなくその影に向かって手を翳す。するとオルベルの前面に魔法陣が瞬時に形成され、その中心から再び雷撃が放たれる。
しかし、それはいままでのものとは訳が違う。
初撃、そして二撃目の雷撃が掌程度の大きさの魔法陣から放たれていたことを考えるといま現れた魔法陣は規格外の大きさであるといえよう。オルベルの身体を覆い尽くしても余りあるその魔法陣から現れたのは黒い雷。
漆黒の雷撃は四方八方にその身を伸ばし、紫電がもたらした破壊とは比較にならない程の被害を撒き散らした。
黒雷に触れられた地面は溶解し、その姿を歪められる。
城壁。
周りに広がる森。
辺りに散乱している死体。
その全てを黒雷は触れた端から溶かしていく。
勿論それは紫電に耐えきった男とて例外ではない。彼がどれ程強かろうがこの禍々しい雷を喰らえばひとたまりもないだろう。大地や死体たちと同じく溶解するのみだ。
しかし。
それでも男は、グァルドは立っていた。黒雷が荒れ狂う中、ただオルベルだけを見据えて。
「……………………?」
オルベルはまたも首を傾げる。しかし今度は男が立っていたという事実に対してではなく、黒雷がまるで彼を避けるかのような動きをしていることに対してであった。
そうしている間にも再び一筋の黒雷が彼に迫る。だがそれも彼の目前で突如進路を変え、彼の身体に届くことはない。
『…………う、ううむ、何やら騒がしい……ぬおおおぉおおおお!? 何事だ、これは!?』
リアに弾き飛ばされ地面に突き刺さったまま気を失っていたエイヴィルが目を覚ます。グァルドはそれに気づくと一度オルベルから目を逸らし、エイヴィルを回収するべく彼の突き刺さっている方向へゆっくりと歩き出した。
「……よう、やっと目覚ましたか」
『ぬ、小僧……か? 一体何がどうなってる? あのルーシェとかいう小娘はどうした? それに――貴様のその姿は何だ?』
矢継ぎ早に質問を投げかけるエイヴィルにため息をつきながらもグァルドはそれに答えることにした。
「……いまオルベルが魔法を使って大暴れしてる。ルーシェは死んだ。……俺のこの姿はルーシェから力を譲り受けたせいだろうな、多分……」
グァルドはそう他人事のように述べ、改めて自分の姿を確認する。
エイヴィルの刀身に映るグァルドの姿は以前の彼とまるで違っていた。
彼の黒かった髪には紅い斑が混じり、鋭い眼の下には紅い痣が刻まれていた。その痣はそこだけに留まらず胸や腕にも刻まれ、まるで刺青のようである。
そして、何より目を引くのは彼自身ではなく彼の周りに浮かんでいる物体。ルーシェが纏っていた紅い雫が彼を守るように浮かんでいた。
何を隠そう、先の黒雷を弾きその進路を変えさせたのもこの雫である。グァルドの周りに薄い膜のように展開し、彼を守ったのだ。
「……今度はこっちが聞く番だ。オルベルはどういう状態にある?」
『……恐らくだが、致命傷を負ったことで自動治癒の魔法が働いたのだろうな。そしてそれをきっかけにして十七年間貯め込んだ魔力が活発化し暴走した。こんなところだろう』
「……待てよ。オルベルには何の力もない筈だろ? アイツ自身もそう言ってたじゃねえか」
『いや、そうではない。それは孫が勝手にそう思い込んでいただけで、実際孫にも魔王の一族が持つスキルはちゃんと備わっていたぞ』
「……ああ?」
『むぅ、どうやら本当に貴様も気づいとらんかったようだな。まあ、無理もないといえば無理もないが』
大きく咳払いをし、勿体ぶった様子でエイヴィルは続ける。
『我ら魔王一族のスキルは『一能突出』。自身の能力の中で最も適性の高い能力を他の追随を許さぬレベルにまで引き上げるものだ。余は膂力全般の底上げがされておるし、見たところ孫は魔力適性が高かったようだな。いとも容易く魔法を扱いよるわ』
「……それでアイツは正気に戻れるのか?」
『絶対、とは言い切れんが……。方法としては孫がその身体に蓄えている魔力を外に吐き出させれば良い筈だ。孫の気を狂わせているのは十七年間溜めこんだ膨大な魔力なのだからな』
「……要はこうして魔法で攻撃させるか、オルベルに傷を負わせて治癒魔法を使わせるかってことか」
『そういうことだ。このまま籠城するのも手だと思うが?』
「……そうできれば楽だったんだけどな」
『うん?』
「……もうそろそろ限界っぽい」
その言葉に反応してか、二人を守護する紅い雫に亀裂が走る。
『おおう!?』
エイヴィルは驚いているがそもそも紅い雫の形成した盾は紫電すら完全に防ぐことができていなかったのだ。黒雷の威力に耐え切れなくなったとしても何ら不思議はない。
ならば何故、これまで黒雷による破壊を免れることができたのか?
ルーシェから譲渡された時点で聖領の兵士七十八人、オルベルに仕えていたウィニたち使用人二十九人、そしてスキル目当てに儀式に使用されたスタンレイ、計百八人から成る紅い雫は現在グァルドの一部として機能しており、当然のことながら蒐集奪取で奪われたグァルドのスキルも既に彼の手に戻っている。
三得七失による魔抵抗力強化。他の九つの能力を全て犠牲にして漸くオルベルの魔法による攻撃にある程度耐えることができるようになっていたのだ。
そしてそれは、今際の際にルーシェが万物伝達でグァルドにその所有権を譲渡した紅い雫にも反映されている。それなればこそあの獰猛かつ強大な黒雷を防ぎ得たのである。
「……爺さん、あの黒い雷切れるか?」
『悔しいが、無理だ。余といえどもあのような破格の魔法相手では押し負ける』
「……これでも無理か?」
グァルドがエイヴィルの柄を掴み再び尋ねる。
『何度聞かれても答えは同じだ。余の魔抵抗力では防ぎ――うん?』
「……経路形成、……万物伝達、……開始」
その言葉を合図にグァルドからエイヴィル、エイヴィルからグァルドへと繋がる経路が二人の間に形成される。そしてその経路を通り、グァルドが変換した魔抵抗力がエイヴィルへと徐々に流れ込んでいく。
『おお、よくわからんがこれなら何の問題もない!! だが、これでは小僧が保たんのではないか?』
「……最悪、もう一度生命力を変換する。ルーシェが変換してくれた分を使えば何とか凌げるだろ」
『…………余は賛成しかねるがな。そうやってオルベルを元に戻したところで小僧が死んでは意味がなかろう』
「……大丈夫だ、今度は本当に補助としてしか使わねえから。一瞬だけ、しかも一つの能力しか底上げしないようにすりゃあ大した消費にはならねえよ。それに俺だってルーシェの命を無駄に使いたくねえ」
『なら良いが……』
「……じゃ、行くぞ」
グァルドはそう言うと紅い雫の膜が弾ける。エイヴィルへと魔抵抗力を流しこんだことで更に脆くなった膜が黒雷に消滅させられたのだ。
膜の防御を突破した黒雷がグァルドへと襲いかかるが、その攻撃もエイヴィルによって防がれる。
『フハハハハハ!! いまの余にはこの程度の魔法など心地良いだけよ!!』
「……自分の手柄みてえに言うなよ……、まあ爺さんの元々の魔抵抗力が高いのは認めるけどな」
グァルドは変換した魔抵抗力のうち半分はエイヴィルに注がなければならないと踏んでいたのだが、エイヴィルの魔抵抗力はその予想よりも遥かに高かったため、実際は二割程度で済んだのだ。
(……さっきはああ言ったがこれなら生命力を変換しなくても十分戦えそうだな)
「……流石は初代魔王ってか? スキル抜きにしても化物すぎるだろ……」
『うん? 何を言うか、力こそ余の方が上だが、魔法力、魔抵抗力に関して言うならジュスティクスの方が上なのだぞ?』
「……………………」
何てことなさそうに言うエイヴィルにグァルドは若干呆れたような目を向ける。
『何だ?』
「……いや、何でもねえ。さて、と、ならその頼もしいもう一人と一緒にオルベルを元に戻すとすっか。……腕力四、脚力四、再配分」
そう言ってグァルドがエイヴィルを振るうとそれまで二人に牙を剥いていた黒雷は一瞬にして霧散する。
そしてオルベルが新たに魔法陣を描き追撃をかけようとしたときにはもうその場にグァルドの姿はなかった。
「……よう、起きてるか?」
『……起きてるわよ、気分は最悪だけどね』
オルベルがグァルドの姿を発見したとき既に彼はジュスティクスを手にし、事情を説明し終えていた。
『それで? これからどうするつもりなの?』
「……オルベルを元に戻す。オマエも手伝え」
『……はあ、わかったわよ。これも尻拭いの一環だと割り切ることにするわ。私だって彼女のこと嫌いじゃないしね』
「……じゃあ、行くぞ。準備はいいな?」
『応とも』
『ええ』
「……腕力三、脚力五、再配分」
グァルドが詠唱を終えるのと同時にオルベルの方も準備が整ったようだ。両手を前に付き出しそこから二つの魔法陣を描き出す。
生まれたのは二匹の獣。人間の大人程の大きさのそれらはその姿を現した。
右手の魔法陣から飛び出した白い毛を持つ狼は雄叫びを上げ、一足飛びにグァルドへと襲い掛かる。
左手の魔法陣からゆったりと現れた黒い体毛を持つ山羊はその独特の瞳でグァルドを一瞥する。
「……何だコイツら?」
『召喚魔法の一種だろう。無論、人間どもが使う使い魔とは格が違うがな』
狼の牙と爪をその身で防ぎながらエイヴィルはグァルドにそう言う。
『グァルド後ろ!!』
鋭いジュスティクスの声が響く。その声に反応してグァルドが振り返るとそこには螺旋状の角で刺し殺そうと猛進する黒山羊の姿があった。どうやら白狼に意識を向けている間に回り込まれていたらしい。
『むぅ……、小僧、こっちの白いのは余がどうにかする!! 貴様とジュスティクスはその黒いのを何とかしろ!!』
まずあの角を受け止めるのは不可能である。魔抵抗力をエイヴィルに割いている状態では完全に受け止めることは叶わないだろう。
避けるか、捌くか。グァルドの脳裏にその二つの選択肢が浮かぶ。だがそのうち避ける選択肢は前方でエイヴィルに牙を剥いている白狼のせいで選ぶことができない。
捌くのも現状では不可能。力の二割をエイヴィルに割き、かつ身動きが取れない状態では流石のグァルドといえどもあの突進を捌き切ることはできない。
ならばどうするか?
彼にとってはそんなこと問題にもならなかった。
「……行け」
グァルドの声に従い、彼の周囲に浮かんでいた紅い雫が黒山羊の行く手を阻む。しかし、黒山羊はその脚を止めることなく、突進を続け、接触した雫を次から次へとその身体で弾き散らしていく。
だが、それもすぐに終わりを迎えた。
黒山羊の脚は動き続けている。それは間違いない。いまもグァルドを刺し穿とうとその強靭な脚を前へ、前へと送り出す。
しかし、それでも。
黒山羊がそれ以上グァルドに近寄ることはできなかった。
『…………ッ!!』
余りの光景にジュスティクスが息をのむ。
彼女が見ているのは紛れもなくさっきまで動き、グァルドに向かって駆けていた黒山羊だ。しかしいまやその面影は何処にもない。
そこにあるのは中から無数の紅い棘が飛び出している何か。数秒前まで黒山羊であったモノはその頭部も、胴体も、脚も、その全てを接触の際に黒山羊の身体の内部に入り込んだ紅い雫によって突き破られていた。
「……こっちは片づいたぞ、爺さん」
『フハハハハハ!! ではこちらもさっさと片づけるとしよう!! 小僧、生命力を少し頂くぞ!!』
そう吼えるエイヴィルの刀身には未だその爪と牙で以ってグァルドを噛み殺そうともがく白狼が絡みついていた。
『いい加減失せるが良いわ、犬ッコロが!!』
瞬間、白狼の姿がグァルドの視界から消え失せる。グァルドが肉の潰れる嫌な音のした方を見るとそこにはエイヴィルの刀身によってその頭部を跡形もなく粉砕された白狼の姿があった。
その脚は数度激しく痙攣したかと思うとピタリと動かなくなる。
『フハハハハハ!! 孫が召喚したものといえども所詮は犬よ!! 余に勝てると思うてか!!』
「……やっぱすげえな、刃潰だったっけか? その技」
『…………アナタたち、もうちょっと倒し方ってものがあるでしょうに――――グァルド、思いっきり飛んでッ!!』
「……ッ!?」
ジュスティクスの刺すような声に反射的にグァルドは地面を蹴り、上空へとその身を躍らせる。
「……何だ、ありゃ?」
グァルドが呆けたような声で誰に尋ねるでもなく呟く。彼がそう呟いたのもおかしなことではない。誰であろうとこの光景を目の当たりにすればそんな言葉しか出てこないだろう。
大地が腐り蕩けている。いまグァルドの直下で起こっている現象はそう表現するしかない。地面が溶解したことでそこに根を張っていた木々は支えを失い、その逞しい幹を無様に横たえる。更に地面に接触した部分が次々と溶け、大地と同化していく。
木々だけではない。
岩も。
城も。
オルベルが召喚した二匹の獣も。
その全てが腐っていく。
ただ一人を残して。
「……オルベル…………」
腐敗した大地の中心に佇む少女を見つめ、唇を噛みながらその名を呼ぶ。しかし、少女がグァルドに向けるのは感情のない瞳のみ。
『……いまは戦いに集中しなさい、でないと死ぬわよ』
「……わかってる」
そう言ってグァルドは改めて上空からの観察を続ける。
彼女の足下には巨大な魔法陣が展開され、あの陣こそが大地を腐らせている根源であることは明白であった。
『それでどうするのだ? このままでは我らも落下し、蕩けるだけだぞ?』
『あら、それは大丈夫よ? この私が何の考えもなしに飛べなんて言う訳ないじゃないの』
「……それでどうするんだよ?」
グァルドの身体はとっくに最高点に到達し、既に落下し始めている。このままではエイヴィルの言う通りの末路を辿ることになるだろう。
『私を地面に向けて投げて突き立てて頂戴。それでアナタたちの安全な着地は約束してあげる』
「……そんなことして本当に良いのか?」
『大丈夫だから早くしなさい。腐りたいの?』
グァルドとて他に手がある訳ではない。半信半疑ではあったが、僅かな逡巡の後、彼はジュスティクスの案に乗ることに決めた。
「……行くぞ」
『ええ、じゃ行ってくるわ。エイヴィル、アナタはこの子を守りなさいよ』
『何だと?』
エイヴィルの問いに答える前にジュスティクスはグァルドによって射出される。彼女はその身を眩い光で覆いながら腐敗する大地へと飛んでいく。
『どういうことかわかるか、小僧?』
「……俺にもわかんねえ――うおっ!?」
突如二人を閃光が襲う。咄嗟にエイヴィルで防いだグァルドであったが、あと少し反応が遅れていたらその体を閃光が貫いていた筈だ。
そしてその閃光の発生源は考えるまでもなくオルベル。グァルドが目を凝らすと彼女は足下に展開した魔法陣とは別に、自身の前方に新たにもう一つ魔法陣を展開していた。
そこから放たれる幾筋もの光は寸分違わずグァルドを襲う。そしてその全てを悉くグァルドはエイヴィルを振るって防いでいく。
「……ジュスティクスが言ってたのはこういうことか」
『のようだな』
「……まあ、こっちは何とかなりそうだが……、ジュスティクスの方は上手くいくのか?」
グァルドは閃光を弾きながら遥か下方を見つめる。そのとき彼の目に映っていたのは以前見た金色の光であった。
『……さてと、そろそろかしらね』
腐り果てた大地に向かって落下しながらジュスティクスはその身に光を宿し始める。かつてエイヴィルが魔王城の周りに張っていた結界を破壊したときと同じ光。
術式崩し。
ジュスティクスが持つ自らの魔力を使った魔物とは系統の異なる固有能力。結界や魔法などの術式を解析し、正反対の術式をぶつけることで結界、魔法の効力を消滅させる力。
以前使われたときはエイヴィルが構成した結界の術式を破壊しただけであるが今回は違う。オルベルが使用している魔法はエイヴィルの結界とは桁違いに綿密で複雑な術式を用いている。それはオルベルの魔法の有効範囲の広大さ、威力から考えれば明らかだ。
そしてジュスティクスはそれを破壊しようとしている。
『(……もって三十秒ってとこね。術式の構成解析に、私の記憶から有効対抗術式の検索、構成……、それに破壊と……、かなりギリギリだけどやってみせなくちゃ)』
彼女には聖領の人間が聖魔大戦のルールを破ったという負い目がある。しかし、いま彼女を動かしているのはそれだけではない。
『(はあ……、私もつくづく甘いわ……。あの二人の、グァルドとオルベルちゃんの力になりたいなんて思っちゃうんだから。魔王の力になるなんて聖君失格も良いとこだわ)』
自嘲気味にジュスティクスはそう呟く。
『(でも……、それでも私は――あの二人に幸せになってほしい。自分らしく生きてほしい。私のようになってほしくない)』
ジュスティクスも人間であった頃、聖君として完全な存在であるために自分を殺し続けてきた。同年代の友人はいなかったし、趣味や娯楽に興じることもできなかった。
そのことに納得はした。受け入れもした。だが、普通の暮らしに対する憧れは止められなかった。
彼女はその憧れを現実のものにすることはできなかったがグァルドとオルベルは違う。あの二人は未だ間に合う。
『だから――私は』
ジュスティクスの刀身が腐敗した大地に勢いよく突き刺さる。そしてその瞬間彼女の美しい刀身が蝕まれていく。
『ッ……!! 術式構成解析開始!!』
薄い金色の光を纏いながらジュスティクスは大地を腐らせているオルベルの展開した魔法を解析する。
『全……術式構成……解明!! 続けて……有効術式を検索!!』
ジュスティクスが作業に入ってから十秒が経過する。彼女がオルベルの魔法からの浸食に耐えられると予想した時間まであと二十秒。彼女の魔抵抗力でもその程度しか持ち堪えることができない。オルベルが大地に放ったのはそういうレベルの魔法だということだ。
『……え?』
順調に進んでいたジュスティクスの作業が停止する。
『該当術式……なし……ですって? そんな馬鹿な……、全く新しい魔法だとでもいうの――ッ!?』
ジュスティクスの声に絶望の色が浮かぶ。限界時間まであと十秒。一体その僅かな時間で何ができるというのか。
『(あと十秒程……。絶対に間に合わないけど……それでも!!)』
彼女は一瞬浮かんだ絶望を振り払う。残り時間を計算することを止め、最後の希望に縋りつく。
『(有効術式が存在しないなら、いまこの場で私が作ってしまえば良い!! 術式構成は把握したんだから出来ない筈がない!!)』
ジュスティクスの刀身はとうに黒く染まり、あの銀の美しい刃は最早見る影もない。しかし彼女が放つ金色の光だけは未だ力強く輝き続けていた。
『(あと……少し……。これに再生魔法の術式構成を組み込めば――。くぅ……、身体が粉々になりそう……)』
限界時間である三十秒は既に過ぎた。ジュスティクスは意識を侵されながらも懸命に術式を編んでいく。
一秒。その僅かな時間の間にオルベルの魔法はジュスティクスの命を食い潰す。だがジュスティクスはそれを上回るスピードで有効術式を編み続ける。
そしてそのときは訪れた。
『術式……崩し……!!』
硝子が割れるような鋭い音と共に、それまでジュスティクスを侵食していたオルベルの術式が破壊される。
腐り果てた木々や大地が元に戻ることはないが、術式を破壊したことによりこれ以上の腐敗は免れることができた。
術式崩しの発動により金色の光を周囲に撒き散らすジュスティクスの姿は先ほどまでの黒い醜いものではなく侵食される前の美しい銀に戻っていた。
『はあ~、何とか成功したわね。正直死ぬかと思ったけど』
ジュスティクスの声は疲弊の色を隠せずにいたが、その声にはどこか喜色をも孕んでいる。
『さあ、私たちとの殺し合いを続けましょうか、オルベルちゃん。――アナタの魔力が尽きるまで、アナタのその仮面が剥がれるまで』
彼女がそう言い終わると同時に空から一振りの黒い大剣を手にした鬼がぬかるんだ大地に着地した。
「……腕力二、脚力六、再配分」
グァルドは着地と同時にジュスティクスを引き抜き、一直線にオルベルへと接近する。対してオルベルは再び足下に魔法陣を形成してその進行を阻もうとしていた。
魔法陣が展開された瞬間、グァルドとオルベルを結ぶ一直線上に異変が生じる。初めに変化したのはオルベルの足下。そこから人一人分程の大きさの鋭い棘が一つ現れたとグァルドが認識し警戒を強めた瞬間、次から次へと二人の一直線上に棘が大地から突き出してきたのである。
それを間一髪前方に大きく跳躍することで回避したグァルドはそのまま左手に握ったジュスティクスをオルベルに向かって振り下ろす。
「……………………」
グァルドが振り上げた時点で右手を前方に突き出し、防御用の魔法陣を展開していたオルベルはその一閃を難なく受け止める。そしてグァルドの命を奪おうと左手にもう一つ魔法陣を広げようとしていた。
『あら、こんなもので私を防いだつもり?』
オルベルが敷いた防御陣に阻まれているジュスティクスが呟く。
『術式崩し』
一瞬にして宙に浮かぶ防御陣に無数の罅が刻まれ、ジュスティクスの刃がその防御陣を粉々に砕くことに成功する。
「……腕力二、動体視力六、再配分」
『許せよ、孫!!』
着地したグァルドはすぐさま右手のエイヴィルでオルベルの胴体に狙いを定め、一気に振り抜く。しかし、エイヴィルの刃がオルベルに届く前に、魔法陣の展開を終えていた彼女の左手からエイヴィルと同等の大きさを持つ氷柱がグァルドの顔面目がけて伸びていた。
そして互いの攻撃が相手に届いたのはほぼ同時。
だが、負った傷まで同じとはいかない。
オルベルは脇腹に重い一撃を食らい、勢い良く吹き飛ばされる。彼女の身体が未だ上下くっついているのは、グァルドがオルベルの身体に当てる直前に手首を捻り、エイヴィルの刃ではなく腹の部分で打ちつけたからである。
そしてグァルドはといえば、左頬を薄く切っただけで他に大した外傷はない。着地した瞬間にそれまで脚力に使っていた力を全て動体視力に再配分したことで凄まじい勢いで飛び出した氷柱も止まっているかのように見えていた。となれば避けるのは容易い。
『アナタ……、オルベルちゃん相手でも容赦ないわね……』
「……そうか? 俺なら肋骨を数本折られるのと、上半身と下半身に分けられるのとなら肋骨を折られる方を選ぶけどな」
『…………肋骨を折らない選択肢はなかったのかしら』
『フン、そこまで余裕ぶっていられんわ。あれを見てみろ』
『?』
ジュスティクスの視線の先にはその華奢な脚で再び立ち上がるオルベルがいた。その動きは緩慢ではあったが、それは決して傷のせいではない。服が所々破けてはいるものの、立ち上がった彼女の身体の何処にも傷などなかった。
『あ、アレを受けて無傷だっていうの?』
信じられないという様子でジュスティクスはそう呟く。
「……無傷じゃねえ。オルベルは『ちゃんと』傷は負っていた。ただ、その瞬間に治癒魔法を展開して傷を治しやがったんだよ」
『うむ、どうやらアレは自動で発動するらしいな。それにしてもジュスティクス、貴様ともあろうものが気づかんかったのか?』
『う、五月蠅いわね。アナタみたいに直接オルベルちゃんに触れた訳じゃないし、わからなかったのよ――――って、ちょっと!?』
傷を癒していたのはオルベルだけではなかった。彼女が宙に両手を広げたかと思うとグァルドの両脇から二つの影が蠢く。その正体はグァルドとエイヴィルに無残に殺され、オルベルの術式で腐敗してしまった二匹の獣。
白狼は頭部のないまま、骨の見え隠れする四肢で立ちあがり、黒山羊は全身に開いた穴から臓物をはみ出させながら、動き出した。
しかし、二匹がその姿であったのは一瞬だった。オルベルが両手をそれぞれに向けると二匹の身体の表面に無数の魔法陣が浮かび上がり、壊された箇所を次々に修復していく。そしてものの数秒でその全ての傷が癒されていた。
『……第二ラウンド開始といったところか?』
『……みたいね』
「……まあ、別に問題ないだろ」
修復を終えた二匹は間髪入れずに戦闘態勢に入り、迷うことなくグァルドへと猛進する。
「……腕力四、脚力四、再配分」
グァルドはエイヴィルとジュスティクスを強く握りしめる。
「……俺たちはオルベルの魔力が切れるまで殺し続けるだけなんだから」
そう言い終わらないうちに、グァルドは泥濘の上を駆ける。いずれ来る戦いの終わりを見据えて。
「……ハッ、ハッ……ハァ…………ッ!!」
グァルドがオルベルと戦い始めて既に四時間。既に空の支配権は太陽から月に移り、魔王城の庭園を照らすのは満月と星の光、そして刃の煌めきと雷。
グァルドはただひたすらに白狼と黒山羊を殺し続け、オルベルに治癒魔法を使わせることで彼女の貯蔵している魔力を削り取ることのみに没頭していた。
オルベルはただひたすらに二匹の獣の傷を癒し、グァルドへ攻撃を仕掛けさせ、また彼女自身もグァルドに対して強力な魔法を放ち、自身の脅威を排除しようとし続けた。
「……オオオオオォオォオオオォ、ラアアアァァァァァァアアアアア!!」
飛びかかってきた白狼の爪と牙を掻い潜り、グァルドはエイヴィルとジュスティクスをその胸に突き立てた。狼の見事な白い体毛が一瞬にして赤に染まり、グァルドが両手を横に払ったことで白狼の胴体が切り離される。
「……これで……、百、回目」
グァルドの目の前には白狼と黒山羊の骸が転がっており、そしてその更に先には疲弊の表情を微塵も見せることのないオルベルが佇んでいた。
「……まだ……、アイツの魔力は……、尽きねえのか……?」
『私にもそんなことわかんないわよ。でも、いくら十七年分の魔力を貯め込んでいたとしても、これまでに使った魔法のタイプと規模を考えると限界は近い筈なんだけど……』
オルベルがこれまでに使ったのはその殆どが雷や、氷といった自然物を利用するタイプのものだ。自然物を利用する魔法、つまり自然魔法は威力の高さが特徴であるが、その威力に不釣り合いな量の魔力を消費する。その消費量たるや、才ある魔導師でも一回使用しただけで魔力が尽きてしまう程だ。
そのため現在使用される魔法は魔力の消費の少ない結界といった自然物を利用しない人工魔法が主流であり、自然魔法を自在に操る魔導師などというものはこの世にはもういないと考えられていた。
しかし、オルベルは涼しい顔で自然魔法を使いこなし、さらには生命力の回復という禁忌魔法まで乱発している。
『確かにな……。まだ余裕、というのならいくら余の孫といえども強すぎるわ』
「……ならゴールは近いって考えて良いんだな?」
『絶対、とは言い切れないけどね』
ここまで二人と話してグァルドはある違和感に気づく。
「――――てねえ」
『え?』
「……生き返ってねえ」
グァルドのその言葉にエイヴィル、ジュスティクスも遅れて異常に気づく。これまでずっとオルベルの魔法により何度も、何度も殺された数秒後には生き返っていた白狼と黒山羊がいつまで経っても死んだままなのである。
「……ッ!?」
尋常ではないプレッシャー。まるで喉元に刃物を押し当てられているような、そんな感覚が突如グァルドを襲う。
ゆっくりと、しかし恐れることなくグァルドはプレッシャーを感じた方向へと顔を向けた。
そこにあったのは満月。そして暗い夜空に煌々と光るその満月の中心にプレッシャーの正体である少女がいた。
宙に浮いたオルベルはその瞳を閉じ、月光をその身に受ける。その光景は神々しく、まるで女神のようであった。
『まさか、あの子……ッ!?』
ジュスティクスが悲鳴にも似た叫びを上げる。
「……何だ、どうした?」
『どうしたもこうしたもないわよ!! グァルド早く逃げ――っていまからじゃ間に合わない!! ……しょうがないわ、グァルド、私とエイヴィルを地面に刺して!! エイヴィル、アナタは私と一緒に結界を張りなさい!! 全力でよ!!』
『無論だ!! 余とて消えとうない!!』
エイヴィルにはジュスティクスの動揺の理由を察したようだが、グァルドには二人の動揺が全く理解できない。だが、それでもグァルドはジュスティクスの指示に従うことを選んだ。それはジュスティクスの言葉に流された訳ではなく、彼も本能的に理解していたのだ。これから自分たちを襲うモノがどんなモノなのかを。
「……これで良いのか?」
グァルドは二人を地面に垂直に突き刺し、問題がないかジュスティクスに尋ねる。
『ええ、大丈夫!! 行くわよエイヴィル、もう時間がない!!』
『わかっとる!!』
そうして二人が結界を展開する言葉を紡ぐ。
『――浄界具現』
『――穢界具現』
グァルドを中心とした大地の内側に白い円が、外側に黒い円が描かれる。そしてそれと同時にオルベルは碧眼を開く。両手を広げ自らの胸の中心にコイン程の大きさの魔法陣を展開し、すぐさま発動させた。
「……うぉお!!」
オルベルが魔法を発動した瞬間、グァルドの周囲の大地が消失する。しかしグァルドは何が大地を消し去ったのかを捉えることができなかった。彼がその目で見たのは突如抉り取られた大地という結果だけでその原因となったモノを見ることすらできなかったのだ。
「……ちょ、説明してくれねえか!? 完全に俺だけ現状理解してねえんだけど!? 蚊帳の外なんだけど!?」
『ああ、もう五月蠅いわね!! この状況で詳しく説明なんてできる訳ないでしょう、見てわからないの!?』
「……だからその状況がわかんねえんだよ!!」
ジュスティクスは軽く舌打ちをしながらもグァルドに掻い摘んだ説明をする。
『アナタには見えないだろうけど、オルベルちゃんがいまこっちに向かって打ち続けているのは月神光弓!! 満月の夜しか使えないって条件はあるけど、現存する自然魔法の中で最上級のもの!! 私とエイヴィルは結界を張ってそれを防いでる!! これで良い!?』
月の光を利用した六本の不可視のレーザー『月神光弓』。その威力はグァルドの周囲を見れば一目瞭然である。たとえグァルドであってもその攻撃が当たったと認識する間もなく消滅することだろう。
勿論そのような代物に対抗しているエイヴィルとジュスティクスもまともではないが、彼らがいま持ち堪えているのはオルベルの魔法の発動前に張った二重の結界があってこそだ。
エイヴィルが張った結界は害意を持って侵入した物、全てを惑わせる「穢界」と呼ばれるもので、かつて魔王の城に張られていた結界も同様のものである。故にあのときグァルドは自覚なしに森の中を彷徨わされ、いまは月神光弓の軌道さえも狂わせている。
一方ジュスティクスが展開した「浄界」の性質は鎮静。その効果は月神光弓が見えてさえいればグァルドもすぐに理解できた筈だ。エイヴィルの穢界が軌道を狂わせ切れなかった光線が浄界に侵入した瞬間に霧散し消滅していたのだから。つまり光線から害意を取り除き、ただの無害な光に戻すことでジュスティクスはグァルドを守っていたのである。
エイヴィルが極力光線を逸らし、彼の結界を突破した光線はジュスティクスが処理する。そうすることで完全に防ぎ得ない筈の月神光弓を凌ぐことに成功していた。
『もう良いかしらッ!?』
「……お、おう」
そうして凄まじい剣幕で説明を終えたジュスティクスは再び結界の維持に集中する。エイヴィルに至っては結界を張ってから一度も口を開いていない。初代聖君と初代魔王が二人がかりで防御に徹している姿を見てグァルドも事態の深刻さを感じ取っていた。
(……そんな化物みたいなモンをこのまま抑えていられるのかよ…………?)
そしてそのグァルドの危惧は現実のものとなった。
二分が経っただろうか。オルベルの放つ月神光弓を真正面から防ぎ続けていたエイヴィルとジュスティクスに異変が起きた。正確にいえば二人の展開している結界にだが。
展開当初は直径にして十メートル程あったエイヴィルの穢界が次第に収縮を始め、五メートルにまでその範囲を狭めた。それによりジュスティクスの広げる浄界との間隔も短くなり、完全に光線の軌道を逸らし切る前にジュスティクスの結界内に侵入してしまう。
『ちょ、ちょっとエイヴィル!? もっと結界を広げなさいよ!!』
『ッ……、結界を……これ以上維持できん……』
『ええっ!?』
エイヴィルのその言葉にジュスティクスが驚愕する。
『えっ、ちょっと、それ本気で言ってるの?』
『仕方なかろう!! 魔力量が少ない余が広範囲を担っておるのだ、燃料切れも早いに決まっておるだろうが!!』
『それにしても早すぎよ!! これじゃ浄界の鎮静が間に合わな……、しまッ――!!』
ジュスティクスが叫ぶがもう遅い。鎮静に失敗した一筋の光線はその力を弱体化させながらも直進し、そして。
グァルドの右目を消失させた。
「……ッア、グァアアアァァア!?」
月神光弓を見ることができないグァルドは不意に訪れた痛みに対して叫ぶことしかできない。右目を抑え、その場に蹲る。
『グァルド!!』
『小僧!!』
ジュスティクス、エイヴィルがグァルドに声をかけるが、答えは無い。
『くそがあぁぁ!!』
エイヴィルは結界の術式を再び編み直し、有効領域を広げる。ジュスティクスもそれに倣い乱れた術式を整える。
『グァルド、生きてる!? 生きてるわよね!?』
「……あ……、あ」
そう言ってようやく顔を上げたグァルドの右目は完全に消し飛んでいた。眼窩から流れ出る血にジュスティクスが息をのむ。
「……二人とも……、もう限界か?」
『そんなことない――』
「……強がりは……、良い。本当のことを言え」
『…………本音を言えば私もエイヴィルももう保たない。…………それにオルベルちゃんも』
「……どういう、ことだ!?」
『余もおかしいとは思っておったのだ。あれほどの魔法を使った後に月神光弓を維持する魔力が残っている筈がない。いくら孫が長期間にわたって魔力を溜めこんでいたとしてもな』
そう答えたエイヴィルの言葉をジュスティクスが引き継ぐ。
『グァルド、魔法っていうのはね、発動、維持、停止、そのどれをするにも魔力を使うものなのよ。そしていまのオルベルちゃんには月神光弓を停止させるだけの魔力は残っていない。彼女を見なさい』
グァルドは無事な左目で宙に浮くオルベルを見、驚愕した。
「……な、んだよ、アレ?」
オルベルが左右に広げた両腕は血に塗れ、彼女が身に纏っていた白い服は既に全身から流れ出る血液によって赤く染まり、深紅のドレスへと変貌を遂げていた。
それでもオルベルは表情一つ変えずに魔法を打ち続ける。
『魔力不足による制御不全……、とそれに伴う反動……ね。詳しく言ってもわからないだろうから端的に言えば、このままだとオルベルちゃんは死ぬ』
「……死ぬって、オマエ……、魔力が尽きればアイツは元に戻るんじゃないのかよ!?」
『元には戻る、戻ったと同時に死ぬだろうがな……』
エイヴィルの諦観を含んだ物言いに噛みつこうとするグァルドをジュスティクスが静かに、しかし重い口調で止める。
『聞きなさい、グァルド。魔法は発動者が停止を行うか、発動条件が阻害されないことには止まらない。でも一つ目の方法はオルベルちゃんがああなった以上、不可能よ』
一度言葉を切り、ジュスティクスは再び口を開く。さっきとは違い、自らの不甲斐なさを恥じるように声を震わせて言う。
『だから――あの子はアナタが止めなさい』
「……俺が? でもどうやって……」
『それは小僧が考えるのだ。恥ずかしい話だが我らは一緒に考えてやる余裕がない』
『月神光弓の発動条件は教えるわ。だからオルベルちゃんを助けたいなら後はアナタが何とかして頂戴』
「……んな無茶なこと言うなよ。月神光弓を見ることすらできねえ俺に何ができるってんだ!?」
『取り乱すな、小僧!!』
雷鳴の如くエイヴィルの怒声が響く。
『貴様、余の孫と交わした約定を反古にするつもりか!? 共に歩むと誓ったのだろうが、この程度の困難乗り越えてみせよ!!』
約定。オルベルとの契約。その言葉がグァルドの胸を打つ。
「……そうだよな。契約……したもんな」
絶望を、諦観を力へと変換し、グァルドはその二本の足で立ちあがる。
「……だから……、俺がオマエを助けてやる」
グァルドの声は疲弊し、お世辞にも力強いものとはいえなかったが、そこには確固たる意志が込められていた。
そして、到底その言葉が届き得ない距離にいたオルベルに初めて変化が生まれる。彼女の表情は覚醒したときから変わらず無表情だ。しかし、いまはその頬に一筋の雫が流れていた。
『よくぞ言った!! グァルドよ、貴様は余とジュスティクスが命を賭して守ってやる。だから貴様はオルベルを助けることだけ考えよ!! 行くぞ、ジュスティクス!!』
『え、ええ!!』
ジュスティクスはグァルドに手早く月神光弓の発動条件を伝えると自らの結界の強化作業に戻る。
そしてグァルドは力強い眼差しでオルベルを見つめていた。
『良い? 月神光弓の発動条件は二つ。一つは満月の光をその身体に浴びること。もう一つは発動中、その場から動かないこと。どちらか一つでも守られなかった場合、アレは消滅するわ』
グァルドは頭の中でジュスティクスに教えられた条件を何度も何度も再生する。そしてそれと現状とを照らし合わせ最善の方法を導き出した。
「……やっぱりこれしかないか」
『思いついたか!?』
既にエイヴィル、ジュスティクスともに結界の維持が困難なところまできていた。何とか人一人分を守れる程度の結界は展開しているが最早時間の問題だ。
『なら、早く!! あの子ももう保たないわ!!』
「……わかってる」
グァルドは周りに浮かんでいる雫を全てその手に集め、武器を形作る。
姿を現したのは弓と四筋の矢。しかしそれはルーシェの使っていたような長弓ではなく三十センチ程度の小振りなものだ。
対して矢は異常なまでに巨大だった。そのどれもがグァルドと同等の長さを持ち、先端の鏃が箆の太さに比べて明らかに大きいという、およそ矢としての機能を果たせそうにない外見であったがグァルドはその出来に満足げに頷く。
『ちょ、ちょっとそんなものでどうする気よ!?』
ジュスティクスの言葉を無視し、四筋の矢を同時に弓に番え、オルベルに視線を向けたまま天に向け構える。
「……エイヴィル、ジュスティクス。一瞬で良い。だから結界の領域を思い切り広げてくれ」
『グァル――』
『一瞬で良いのだな?』
ジュスティクスの呼びかけを遮り、エイヴィルがそう短く尋ねる。
「……ああ」
『よし、わかった。やるぞジュスティクスよ』
『はぁ、もうしょうがないわね……。二度目は無いわよ?』
そう言って二人は限界まで結界を展開する。二人の結界は驚異的にその領域を広げ、ついには魔王城を包み込めるほどの大きさにまで達した。
「……良し。……スキルを借りるぞ、ルー――魔抵抗力八、再配分」
小さくそう呟きグァルドは掴んでいた矢を一斉に放つ。放たれた矢は紅い光の尾を引きながら、天高く昇っていく。
何処までも昇っていくかと思いきや、突如四筋の矢はそれぞれ進路を変え、真の標的に向かって奔る。
心の中でグァルドは繰り返す。この紅い雫はもう俺の身体の一部。思い通りに動かせる筈なのだと。
「……心申必中――万流星」
高速で迫る紅い矢に気づいたオルベルは即座に迎撃態勢に入る。これまでグァルドに合わせていた照準を矢に合わせようとする。
だが、それは叶わなかった。月神光弓の照準をずらすことができなかったのではない。オルベルはどれを狙えば良いのかわからなかったのだ。
彼女の眼前に広がるのは深紅の光が一斉に自分に向かってくる光景。初めは四筋であった矢が、八筋、十六筋、三十二筋と分裂を繰り返し、既に万に迫ろうという数の小さな矢となってオルベルを射んと迫る。
闇雲に矢を撃ち落とそうとするオルベルだがそんな方法では矢を全て破壊することなどできはしない。半分を一掃することに成功したところで残り半分の矢が増殖を繰り返し彼女を襲う。
そうして無数の紅い矢が一斉にオルベルを穿とうとした瞬間、全ての矢はその姿を変えていた。
「!?」
雫の状態に戻った紅い矢はそれぞれを繋ぎ合せ、刹那の間もなくオルベルを覆い尽くす。彼女の頭も、腕も、胴も、脚も。紅がその全てを覆い、月の光を遮断する。
『…………止まっ……た?』
『みたい……だな』
完全に彼女が雫に覆われた頃、ジュスティクスは月神光弓の停止を確認した。彼女もエイヴィルも既に結界は解除して精神を休めていたのだが、ようやく安堵のため息をつくことができた。
オルベルは紅い雫に包まれたままグァルドの元へと運ばれていたが、あと少しというところで限界が訪れたのか、雫が弾けオルベルの身体が地面へと落下する。
しかし、地面にぶつかる前にその華奢な身体はグァルドに抱きとめられていた。血を流し気絶こそしていたが、彼女の心臓は鼓動をグァルドの身体に伝え、その無事を報せていた。
「……おかえり、オルベル」
グァルドは腕の中の少女を強く、だが優しく抱きしめる。二度と離さないと主張するように。
「……おかえり」
そうして戦いの爪痕が残る大地の上で黒い大剣と白銀の剣に見守られながら月の光の下グァルドはずっとオルベルを抱きしめ続けた。