#11 富之
喧しい足音が立つのも気にかけず、板張りの廊下を走り抜ける青年を、富之は早足で追い詰める。走力の差から距離は開くばかりだが、富之は全く気にしなかった。
「くそ……」
青年が悪態をつくが、富之は反応しない。解創を為すのに全神経を集中させて、耳に入っていないのだ。
この解創に対応するうえで、最も重要なのは初期対応だ。逃避による先延ばしは、数ある手の内で最も悪手、時間と共に、恐怖に心が侵されて解創が為せなくなり、ジリ貧になる一方だからだ。
やるなら先手を打って『強奪』か『奪取』の――と思われる――解創で『朧げ恐れ』を奪っておくべきだったのが……それが出来ないのは仕方がない。
形がない影を、いったいどう奪えというのか?
恐怖の願いは侵入者をじわじわと追い詰めていく。壁の隙間、曲がり角、はては床の板の隙間からすら、じわじわと出てくる黒い何かが、視界から見る者の心を喰らっていく……。
たん、と突かれる杖に呼応して、木の床から火が成って、追っ手の進路を阻む。
「む――!」
自分の杖の性能は分かっている。富之は構わず火の中に突っ込んだ。『籠守り』の解創の防壁は『火成り』の火力を防いで余りある堅固さを有している。
足止めにもならない火柱を通過して、さらに富之は『朧げ恐れ』を願いを続ける。逃げる青年の先にある闇まで侵食し、視界の隅から侵食していく……。
「ちっ――」
毒づく青年が進路を変える。まるで無駄な足掻きだった。結末を先延ばしにするだけの行動。富之は脳内に把握している地下の図面を思い出しつつ、『朧げ恐れ』の解創の深度を調整し、方向を誘導して行く。
そろそろだろう――時間にして十分弱の逃亡劇。その間にも青年の心は恐怖によって削り取られている。『火成り』の解創も、明らかに最初と比べると、力が減っている。
獲物が逃げ込んだ曲がり角を曲がると、そこで青年は立ち尽くしていた。前と左右が、それぞれ壁で囲まれており、逃げられる道が存在しない――すなわち行き止まりだった。
「もう逃げようもあるまい」
柵やフェンスなら向こう側に逃げられるが、地下に柵などあるはずもなく、代わりに立ちはだかるのは、天井と一体になった壁。壊す以外に道は拓かず、拓いたとしても、向こうにあるのは土砂の山。追い詰められた逃亡者の最期には、お誂え向きの場所だった。
「最期じゃ――!」
行き止まりのトンネルを、ジワジワと黒が侵食する。燃やさず壊さず、ただ心を朽ちさせていく形の無い怪物。
その恐怖を視覚から入れざるを得ない青年は――足を小刻みに震わせながらも、この場に似合わない、傲慢な笑みを浮かべていた。
「勝ち目は無いと思ってましたよ、俺の力じゃね。けど破れないわけじゃない。その解創――その恐怖は正体不明だからこそだ。それを取り除けば消える」
だからどうしたというのか。取り除く術を持たない彼に、状況を打破する一手は無い。構わず富之は願いを為す。正体不明の恐怖によって、青年の心を喰い殺す――!
「その解創は強力です。けどアンタ忘れてるでしょう? ……俺がこの地下の解創を理解してるって事」
はっとした。地下の部屋移動を把握しているのだとすれば――それを青年が奪っている可能性もあったということを。
普通の追求者ならば出来ない。だがこの青年が持つ解創ならば、可能だ……。
「正確に言うなら、これは『強奪』でも『奪取』でもありません。『盗奪』です。奪うのはもちろん、それと知られずに、物を盗みだせるんですよ」
それと知られずに――おそらく『庭園の眼』の違和感の事かと歯噛みした。あれは『庭園の眼』が盗まれていたことによる違和感だったのだ。そしてそれは地下も同じ……。
富之が地下に来るまでの間に、富之の部屋や隣の部屋に行き、物色することも可能だったのだ。
青年が、もったいぶった仕草で、ポケットからそれを取り出す。
「それは……」
本来は、富之の自室の周りだけを動く部屋――その畳の下に、何重にも張られた防壁の向こうに隠されてある代物だ。
それは、富之の作り出したものではない。だが上宮では代々使われる秘伝の道具。物自体は、なんということはない。大きさにして成人の親指ほど。表面は鏡のような物体だ。実際に銀の塊であり、その表面に施された加工によって、鏡と同様な質で光を反射するように仕上がっている。
見た目だけでは、何の道具か分からない。文鎮の代わりが関の山。しかし何かを知っている追求者にとっては、それは貴重な宝だ。
――『特別良キ童ヲ作リタクバ犠牲ヲ立テルベシ』――!
それは解創の名。もはや呪詛に近い決まり文句から執り行われるのは、作り手を生み出すための上宮秘伝の儀。
いつの時代、どのような環境に陥っても、どこにでも隠せるように考慮され、強大な力に見合わず、あえて小さく作られた上宮の解創。偶然にもそれを知りえた者が奪いに来た時には、時に竹林の竹の中に隠し、時に飲み込みこんで腹の中に隠したという。
使い方など無い。ただそれを持ち、名に従って願うのみ。生け贄を踏み台に、選ばれし者を作る……そのための触媒だ。
子供から才能を奪い取り、別の子供に才能を与える道具――この状況を打破しうるものだった。
特別良い子――今でこそ作り手のみに限定されるが、元来、それはどのような才能でも効果を発揮し、生け贄も人に限定されない……。
「貴様……!」
富之は気付くが、時既に遅し。
秘伝を持った左手が、足元の影に――じわじわと青年を侵食する影に、触れる。
とたん、影から禍々しい不明瞭な恐怖が、一気に消え失せる。――何事かは、すぐに判別がついた。秘伝によって、生け贄――影から、解創が奪われたのだ。
「道具から解創を奪えるってことは、やっぱり追求者って……」
先は聞かずとも、富之にとっては既知の事。秘伝の奪還を最優先とし、行き止まりから離れ、近くの部屋に飛び込むようにして入る。
――ここなら……!
どの部屋に、何を仕込んであるかは覚えている。床の畳みを蹴り上げて、隠してあった薙刀を手に取る。
「逃げないで下さいよ……」
青年が、富之を追って部屋に入ってくる。
秘伝が相手に渡ったと判明した以上、解創だけで渡り合うのは不可能だ。遠くの間合いから、解創が無くとも機能しうる武器で対抗するしかない――即断し、老人のそれとは思えない速度で、喉元めがけて刃を突き出した。
青年は右手の杖で払いつつ、左手で刃の付け根を握り取ると、異様な力で引き寄せる――他人の道具を盗み奪い取る『盗奪』の解創――!
「またか――!」
だが今回は対策出来ている。
たとえ引っ張ったところで、これだけ長い薙刀ならば引き寄せられても問題ない。青年の左腕の長さを大きく上回っているため、距離を詰められないのだ。同様の理由で、杖で突くには間合いが足りず、膠着状態に陥る。
ならば相手の取るべき行動は――薙刀を破壊するか、もしくは持ったままだと大打撃を受ける状況にして、富之自身の意思で放させるかの、どちらかだ。
青年が奪った杖なら、どちらも可能だ。『研削』で柄部を削って切断できるし、『火成り』で床を燃やして富之を火達磨にも出来る。
杖を突く前に、別の道具で反撃する――その選択しかないだろうと決め付けて、杖に意識を集中し――それが、富之の最後の失策だった。
青年は強引に薙刀を引き付ける。青年は退きながら、富之も前に進まざるを得ないので、相対的な距離は変わらない。
腕に衝撃――薙刀の先端が、部屋の柱に深々と突き刺さっている。
「くっ――」
引き抜こうとしたが、青年が懐に踏み込む方が速い。秘伝を指の間に挟んだ左腕が、『籠守り』の防壁を掴み取る――一瞬にして頼り甲斐のある防壁は鉄屑と化し、守りの機能を失って奪い取られる。
富之が懐から牽制の得物を取り出すより先んじて、青年が富之の右腕を掴み取った。
富之は引っ張られるがままに青年の横を通り過ぎようとするが、甘かった。青年の右手が富之の肩を握る。次の瞬間、強引に腕を引き抜かれた。
骨が抜け、肉が破けて、血が吹き出す。富之の右腕が、青年によって奪い取られ、もぎ取られる。夥しい量の出血に、富之は苦悶の声を漏らす。
激痛に気が逸れた瞬間、懐に、青年の鋭い蹴りが見舞われる。若い男の膂力は凄まじく、富之の矮躯を、先ほどとは逆、行き止まりの廊下の奥まで吹き飛ばした。
体中が軋むように痛む。喘息のように嗄れた息を漏らし、出血のひどい右肩を左手で押さえる。富之が上体を上げると――無常にも、目の前には、見知った杖の先端があった。
「……おぬし……何者じゃ?」
これが最期の言葉になると分かっていながら、出てくる言葉は疑念だった。
上宮当主である富之の解創を把握し理解する力、『盗奪』の解創、そして上宮の秘伝を知りうる存在……富之には、この青年が何者なのか、未だに分かっていなかった。
気に入らないらしい青年は、直接名前を言うことなく、代わりにヒントだけを出した。
「……俺の生け贄は、亮平さんですよ」
富之には、それで十分だった。亮平の名がこの場で出た事で、青年の正体に、ようやく気づく事ができた。
「おぬし、国枝の……!」
富之の頭蓋に、大きく突かれる杖の先端――たちまち一人の人間を、生きたままに火葬した。




