#10 富之
夕食の時間は、今までとは打って変わって、物静かな中で進んだ。
斉明の後見人、および洋一郎の件が知れ渡り、積極的に話そうという大人はいない。大人たちの異変に感づいた子供たちも、口を利かずに箸を進めた。作り手ではない者達にとっては、非常に気まずい空気だろう。
察していながらも、あえて富之は何もしなかった。下手に取り繕うよりも、現状の切迫した空気を印象付けておいた方が良い。
全員に視線を走らせる。強張った面持ちで静かな怒りを纏う孝治、父の空気に気圧される息子たち……口数以外は普段と変わらない卓造と眞一……。
一計を案じた斉明は、洋一郎を嵌めておきながら、普段と変わらない振る舞いだ。まったく大した曾孫だと富之は感心した。
――しかし……。
斉明の護衛役である雅は違っていた。洋一郎を罠に掛けた事は、斉明から聞かされている筈だ。しかし気になっているのは斉明より、むしろ別の事らしい。ときどき、目をやっているのはどこかの娘……誰だったか思い出そうとする。年齢に伴う鈍さだけでなく、作り手に関係ない情報となると、どうも覚えが悪かった。
――ああ、洋一郎のところの一人娘か……。
雅が気の毒に思うのには納得がいった。父親が鳩子を殺そうとし、その事実を曽祖父によって暴かれたのだから。
件の美智は、気まずそうに視線を下にやっている。箸もあまり進んでいない。食欲が湧かないのは当然だ。この様子からするに、父がやったことは、知らなかったらしい。
――まぁ、知っていたところで、何か出来る娘でもないがの……。
ほくそ笑みそうになるのを抑えつつ、合掌して立ち上がる。
すっかり暗くなった廊下を進む。外に見えるのは富之自慢の庭園だ。
庭園では夏の虫が凛々と鳴き、月光に照らされた川の水面が美しい。のどかに回る水車も、昼間とは打て変わった静かな趣がある。
だが富之は、風情ある景色など眼中になかった。言い様のない……妙な突っ掛かりを覚えてたのだ。
富之が直々に手入れを施した箱庭『庭園の眼』は、つつがなく機能しているように見える。感覚の共有にも問題はない……だが、自分と庭園の解創的な繋がりに、薄い紙のような邪魔な何かが挟まったような感じがする。
富之はそれを、他人の意図的な所業によるものと断定し、すぐさま警戒の体勢に入る。地下に続く階段に踏み込んだ途端――富之は違和感に気付いた。この地下は富之の空間だ。いない間に何か起これば、再び踏み込んだ時に異常が知れ渡るのは道理だ。
「あ奴……」
洋一郎は、地下牢に閉じ込めている。食事などは米に面倒を見させているが、裁定委員会が来れば、即、引き渡す手筈だ。
老眼鏡をかけ、状況を把握する。地下の各部屋や牢の位置は勿論のこと、富之の自室や牢は、特別に中にいる人間の数なども、監視できるようになっている。
牢の様子を確認すると――洋一郎が、牢にいない。
――逃げるつもりか……!?
早足で牢の方へ向かう。逃げられたら厄介だ。委員会に事情を説明するのも面倒だが、弁明され、孝治らを誑かされたら、厄介な事態になる。
廊下を進み、曲がり角を曲がる寸前――富之は予想外の衝撃を受けた。
鉄同士が接触する甲高い音――予想だにしない一撃に、富之は反射的に後退する。
目の前に、幾つかの六角形が見える……『隠蔽』を宿した蝋が剥離し、『籠守り』の鉄籠が見えてしまっている。
曲がり角から覗くのは、鋭利な刃の銀色の先端。何者かと警戒しつつ、老眼鏡を外して、富之は臨戦体勢に入る。
「流石ですね……常に守りの解創を用意してるなんて。不意打ちしようにも、隙も何もあったもんじゃない」
若い男の声だが、今まで聞いた事のないものだった。
曲がり角から、声の主が姿を現した。
年齢は若く、青年というべきか。まだ二十歳に達していそうにない。
黒いデニムに同色のブーツ。白いTシャツの上には、夏だというのに黒いレザーの上着を着ている。腰や首元で銀色のアクセサリーが煌めく。カジュアルな服装は、和風の地下において、あまりに異質な存在だった。
表情は暗いが、顔立ちはよく、美丈夫と言っても差し支えないかもしれない。皮肉っぽい笑みは似合っているが、妙に狡猾な印象を与える。
僅かに釣り上がった目元は笑っているように見えるが、三白眼の鋭利な眼差しと、一文字に閉じられた口を見るに、とても微笑んでいるようには思えない。
とぐろを巻いて蠢く蛇か、あるいは血走った目の痩せ狐か。見た者に、嫌悪感と威圧感を同時に与えてくる。
「おぬし……何者じゃ?」
監視の『庭園の眼』に引っかからずに侵入し、地下にまで潜り込んだとなれば、もはや追求者……それも上等な部類としか考えられない。
対して青年は、富之の言い分が気に入らなかったらしく、米噛みに青筋を立てていた。
「やっぱり貴方にとって、俺らは、その程度の存在ってワケですか。分かっていた事とはいえ、不愉快ですね。無責任に生み出して、身勝手な理由で縁を切っておいて」
「縁を切る?」
「憶えて無いのかよ」
間を置かず応じた一言は、演技がかったですます調が乱れ、本心が露になる。
言い分も気になったが……それ以上に、富之は気になるものがあった。青年が右手に持っているのは……あれは――『盛者必衰』の解創……洋一郎の道具だ。
「それをどこで……」
「別に。貴方の部屋に隠してあったのを、無断で拝借しただけですよ」
部屋の位置移動の解創すらも把握済みらしい。この刺客は、上等な追求者というだけではない。なにかある。根拠は無い。だが漠然とした実感が富之の中で湧き上がる。
「――ッ!」
ぬるりとした動きは、海蛇の回遊を思わせる滑らかさと唐突さ――その、あまりの自然さに、富之は反応が遅れる――青年が、富之のすぐ手前まで迫ってきたのだ。
伸ばされる青年の右腕――先には富之の杖。あまりに大胆な動きに瞠目しつつ、奪われまいと杖を引く。
見越していたように、青年は左脚を引き付け、身体を右に捻る。放たれたのは、左の膝蹴りだった。
普通の人間ならば、その一撃を腹筋に喰らって悶絶しただろう。だが富之の周囲には鉄籠の守りがある。籠は膝蹴りの直撃を防ぎきった。
不自然な挙動に、富之は警戒しつつ後退る。相手は剣の不意打ちによって、鉄籠の防壁を知っていたはずなのに、無駄な行為に及んだ……あるいは、防壁が全周囲あるとは思っていなかったのか。
だが痛がる素振りも見せず、顔色も変わらないところを見るに、予想していたと思われる。痛がらないのも、膝当てか何か仕込んでいるのだろう。
――ほぅ……凝っておる。
鉄籠の膝蹴りを受けた部分を見ると、『隠蔽』の蝋が衝撃で剥離している。それだけではない。『籠守り』の解創であるにも拘らず、鉄籠は僅かに凹んでいる。ただの打撃ではないと悟る。おそらく膝当てに、打撃に関する解創を宿してあるのだ。
蹴り終わり、踏み込まれた左脚を重心に、今度は左肘が叩きこまれる――位置は寸分違わず、先ほど膝蹴りが命中した箇所だ。
鈍い音――硬い物体が衝突する騒音、僅かに凹んでいた場所が、見るからに変形する――余波の衝撃に、白い蝋の破片が飛び散る――。
狙いは分かった。連撃による『籠守り』の部分破壊だ。――狙いは悪くない……予期せぬ刺客、不意打ちを受けてなお、富之の精神には、相手の実力を評価する余裕があった。
「じゃが――それでは足らんぞ」
そこそこの威力の打撃だが、凄まじいというわけではない。籠守りで防ぎつつ――杖で攻めれば、差は広げられる。
周囲を覆う『籠守り』を操作し軌道を作り、富之は杖を振り上げた。先端で青年の顔を打とうとする――左腕で弾かれる――それこそが狙い、青年の腕が触れた部分が、突如、発火した。
杖に仕込まれた『火成り』の解創――発火に伴う燃焼と灼熱が、青年の左腕を燃え上がらせる。
恐怖か、あるいは激痛か。どちらにせよ表情を歪めるべきところで――青年は、口元を吊り上げていた。
大蛇が獲物に巻きつくように、燃え上がるのも構わず、青年の腕が杖に巻きつく。そのまま青年の左腕が引き寄せられる――引っ張り合いになれば、膂力で劣る富之に勝ち目は無い。すぐさま別の解創を為そうとするが……。
「なん――っ!」
杖を掴み引っ張る左腕は、打撃とは比較にならない、凄まじい力だった。瀑布や波濤のようなものだ、人が敵う域ではない。相対する者を圧倒して超過する力は、逆らう意思を根こそぎ奪う。
このまま持っていたら自分がやられる――富之は諦めて杖を放した。
十歩ほど離れた距離で、二人は睨み合いになる。富之に得物は無い。青年は燃える腕を払って消火し、杖を持ち直す。
――このままじゃジリ貧じゃの……。
まさか杖を奪いにくるとは思っていなかった。最初に奪いに来たのは、次に繋げる打撃の為のフェイントだと思っていた。まさか打撃の方がデコイだったとは……。
「ふーん、面白い作りですね……こうか」
かん、と大きく杖が突かれる。火が生まれ、木の床を這うように奔る――狙いは甘い。富之の足元を燃え上がらせるに留めた。
「流石に最初っから命中ってワケにはいかないか……」
青年が愚痴り、富之は目を見張った。
いくら一度確認して、大方どんな解創か分かっているとはいえ、奪ったばかりの道具で、解創を為せるというのは普通の所業ではない。
他人が使う事を前提に作っている、もしくは類似した物が既存にあるなら別にして……富之は、あの杖を他人が使い易いようには作っていない。
となると――原因は別のところにある。解創の道具による影響と考えれば、全ての辻褄は合う。
「その腕……なにか仕込んでおるの? ……さしずめ『強奪』か『奪取』か」
「早いですね。一見してバレるとは。流石は上宮家当主」
肩を竦めて溜息を漏らす青年――会話をしつつも、じりじりと足を動かし、距離を詰めてくる。
解創の道具に、自分の肉体を使うとは恐れ入った。腕を『他人の道具を奪う』道具にして、あとは『他人の道具を理解しよう』という思いさえあれば、奪った道具をすぐに使うことも、不可能ではないのかもしれない……もっとも、この青年の場合、理解は理解でも、共感というより分析のニュアンスのようだが。
「さて……決着も見えてきましたね」
青年が、杖の先端を向けてくる――洋一郎とは格も質も違う。作り手としてではなく、追求者……いや、追求者の嫌がる事をするのに特化している。追求者が作った道具を、片っ端から奪っていく……あまり趣味がいいとは言えない。
仕方が無い。富之は覚悟を決めた。
次なる解創――童子の頃の記憶を掘り下げる――まだ五つに満たない頃の思い出、夜中に目覚めてしまった時の記憶……。
夢から覚めても目を開けられず、目の前に妖怪の顔がある気がして、瞼をぎゅっと閉じてしまう恐怖……。
便所に行くのに暗い廊下を歩いていると、ふと後ろに何かが居るような錯覚に囚われ、廊下を喧しく駆けたくなる感覚……。
富之の願いが、地下の世界を満たしていく――じわり、じわりと、闇から滲み出す黒い何か。
ありえない筈の曖昧模糊とした恐怖に怯え、こう思う。「いるかいないか分からないから、恐怖となるのだ。ならいっそのこと存在したらいい」と――そういう恐怖から生まれた逃避の感情を元に、『闇』あるいは『影』を道具に作り出された解創――それが上宮富之が作り出した傑作『朧げ恐れ』。
幼い頃に自宅に作り出した他、同じ物を他でも幾つか作っており、端子島の上宮邸の『朧げ恐れ』は四作目になる。
この解創の特徴は、なんといっても解創の道具が、道具の呈を為していない点だ。
刃が欠ければ斬れなくなるように、道具は欠損すれば機能が消える。それは解創の道具も同じだ。しかし『闇』とか『影』というものは、壊そうにも壊せられない。
道具が物質としてない解創『朧げ恐れ』は、肉を食わず、骨も砕かない。だがその存在そのものが凶器となる。個人差はあるが、視界に入る程度から効果は現れる。恐怖が心を侵食し、あらゆる行動を少しずつ阻害し始める。次第に願いより恐怖が上回り、解創を為すことすらままならなくなる。無限に増幅される恐怖は、次第に心を侵し尽くし、観測者を殺しに掛かる。
解創というものは『自分の願いを押し付けて現実に新たな規律を作る』という性質上、他人の心に直接働きかけるようなものは不得手だ。しかし『恐怖』は、誰もが等しく持つ公約数的な感情ゆえに……そして上宮富之という、類まれなる才覚によって作り出された解創ゆえに、他人の願いすら侵食する化け物となったのだ。
恐怖によって、相手の願いも同質の物に変えているとも言える。追求者にとっては天敵だ。願いを、解創を為すことすらできなくなっては、打つ手が無くなるからだ。
「ワシの道具を奪うか小童、ならワシは、おぬしの願いを塗り潰てやろう」
盗人猛々しい不届き者には、小賢しい手癖では敵わない道理を示してやる必要がある。
青年が異常に感づいた。異質さに冷や汗を浮かべて、睨みつけてくる。
「ほぅれ小童――早う決めんにゃ、怖くて何もできんようなるぞ」
からかうような高い声を皮切りに、地下の闇は、よりいっそう深く深く染まっていく。




