19-1
土曜日が来てしまった。ケイトはあまり駄々を捏ねずにダニエルの家に行ってくれたオーウェンに感謝した。今日は彼がいると話しにくいことが沢山ある。
何時に来るか分からないのでケイトは朝オーウェンを送ってからずっと家で待機していた。いつ来るのか尋ねてもどうせ返事はないので気ままに待つことにしているが、ソワソワして落ち着かなかった。
スシが至る所を歩いて安全確認を行っている。この家に引っ越してきてからはこれが彼女の朝の日課だった。安全が確認できるとキャットタワーの一番上で寝て、お昼ごろにまた動き出す。鳥や虫を観察したり、おもちゃでひとり遊びしたり、モカとじゃれ合ったり。
モカは暇そうにリビングで寝転がっていた。今朝は散歩に連れて行かなかった。ドッグランでたくさん走らせるためだ。
時計が午前9時半を指すと玄関のチャイムが鳴った。ヒルデだと思ってケイトは駈け足で玄関に向かう。出てみると頼んだ荷物が届いただけだった。落ち込みながらリビングに戻る。
このせいでケイトは、もしかしたら今日ヒルデは来ないのかもしれないと考えるようになった。仕事が入ったのか、体調が優れず寝ているのか、もしくはリンダか犬たちに何かあったのか。
事故にあったのかも。変な奴に絡まれて喧嘩になっているのかも。まさか警察沙汰で捕まったのか。
悶々として、出ないだろうが電話をかけた。
やはり繋がらない。
今日約束したんだから今日は返事をするのが普通じゃないの?と苛々した。
モカが早く散歩に行きましょうよとリードを咥えて持ってきたのが午前10時。
「ごめんなさいね。もう少し待って」ケイトはリードを受け取ってモカを撫でた。
そのとき、ようやくチャイムが鳴った。
慌てて玄関に行くとそこには待ち望んでいたヒルデがいた。半袖の黒いTシャツにジーンズ。真新しいスニーカーを履いていた。その腕には小さな黒い犬を抱きかかえている。
「よぉ」ヒルデは呑気に挨拶した。
「遅いじゃない!どうして電話に出ないの?約束したんなら時間まできっちり決めなさいよ!」ケイトはぴしゃりと叱りつけた。
「ごめんなさーい」ヒルデは耳を塞ぐとウェっと舌を出した。
「ふざけないで。携帯電話はどうしたの?」ケイトはヒルデの手を降ろさせた。
「充電するの忘れててさ。今日も持ってくるの忘れた。よくあることなんだよ。あたしは電話に執着するタイプじゃないから」わかるだろ?とでも言うようにヒルデは肩をすくめ、悪気なさそうにした。
「執着しないのは知ってるけど、それなら電話ボックスとか誰かに借りるとかしなさいよ」ケイトは腰に手を当てた。
「あんたの番号覚えてないし」
ケイトは落胆した。心配していた気持ちを不意にされた気分。自分だけが楽しみにしていて、自分だけが彼女を想っている。
「私は心配してたのよ。あなたに何かあったのかなって…」ケイトは泣きそうだった。
「ごめんって。怒らせるつもりはなかった」ヒルデはばつが悪そうに頭を掻く。ケイトの泣きそうな声が効いたのか今度は本気で申し訳ないと思っているようだった。
「ほんとに?」
「あぁ…。悪かったよ。今日はとことん付き合ってやるから」アンドロメダをなだめるような優しい声でヒルデは言った。
「…わかった」謝りもしないダニエルと比べると彼女の謝罪が幾分かマシに思えたので、ケイトはヒルデを許すことにして中に入れた。
「んで、そのドッグランはどこにあんの?」リビングに着くとヒルデは言った。「早く行こうよ」
「その前に言いたいことがあるの」ケイトはソファに座った。
「なに?」またお説教されると思ってヒルデは苦い顔をした。
モカがチョコレートの存在に気付いた。チョコレートを床に降ろすと、2匹は互いに恐る恐る近づいて匂いを嗅ぎ合う。
「あなた、ライターを忘れていったでしょ」ケイトはポケットからライターを取り出してヒルデに見せた。今朝からずっとポケットに入れていた。
「あ。そうだった」すっかり忘れていたようでヒルデはライターを取ろうとした。
ケイトはライターを持つ手を遠ざける。
眉間にシワを作ってヒルデはソファの横に立ち尽くした。「なに?」
「危ないじゃない。スシがおもちゃにして遊んでたのよ?うっかり火がついたらどうするの?」
「ごめん」ヒルデは素直に謝った。
「こういうのはちゃんと管理しなさい」
「うん…」床を見つめる。
「私が今ライターを見せるまでひと言も聞いてこなかったわね。それもそうよ。だって連絡してきたのはたった1度だけなんだから。その連絡も雑だったわ。こっちの予定を聞かなかったし、何時に行くとも書いてない」
「はい」正論なのでヒルデは何も言い返さなかった。
「煙草を吸うのは自由だけど、ちゃんと管理できないならやめなさい。もし煙草自体を忘れて、オーウェンや動物たちが口にしたらどうするの?責任とれる?あなたももういい大人なんだからこんなこと注意させないで」ケイトは冷静に叱った。
「はい…」ヒルデは目を泳がせて指を弄った。
ケイトは彼女をじっと見つめる。
「…すみませんでした」ヒルデは小声で言った。
一応ヒルデなりに反省している態度なので、ケイトはため息をついてからライターを返した。
モカはチョコレートのことが気に入ったのか遊ぼうよと身を屈めて誘っている。チョコレートは以前よりだいぶ落ち着いた性格になり、モカの誘いには簡単に乗らなかった。
むしろモカの元気さに戸惑っているように見える。同じ大型犬でもビスケットはおっとりしているので、モカの溌剌さにどう対応すればいいのか分からないのだろう。
「2度とないようにね」ケイトは優しく言った。なんだか自分の子供のように彼女のことを許してしまう。何をされても完全に彼女のことを嫌いにはなれなかった。
「あぁ」ヒルデは緊張を解いた。
「ここまで何で来たの?電車?」
「そう」
「駅からここまで距離があったでしょう。少し休憩してからドッグランに行きましょう」ケイトは立ち上がった。
「あ、そうだ。リンダが言ってたんだけど、ライターを返しにわざわざうちに来たんだろ?」
「えぇ」ケイトはキッチンに立った。「お説教も兼ねてね。あなたは留守だったけど」冷蔵庫を開ける。
だんだんと慣れてきたのかチョコレートはモカをあしらうように遊び始めた。
「リンダは何か言ってたか?」ヒルデはどっかりとソファに座る。
ケイトは薬のことが頭によぎった。「いいえ。なにも」
「ほんとか?あんたがなんか言ったんだろ。リンダは恥ずかしいのか詳しく言わないけど、なんか急に優しくなっちゃってさ。ちょっとキモイくらい。支払いも折半になった」
「特に何も言ってないわ。ただ…。なんとなく話しただけ」グラスをふたつ用意してジュースを注ぐ。チョコレートにも水を用意した。
「やっぱりな」ヒルデはそれだけで全てを理解した。「おかげであたしは引っ越せるよ。ありがとな」
「引っ越し先が決まったの?」ケイトは水とジュースを盆にのせてソファに戻った。ジュースをテーブルに、水を床に置く。
チョコレートがその水を飲み始めた。隙あらばモカも顔を入れて飲もうとする。
「場所だけな。家はまだ」
「どこなの?」ヒルデの隣に座り、グラスを持つ。
ヒルデは場所を言った。それはここからかなり離れた州だった。
「どうしてそんなところに?ここから車で何十時間とかかるじゃない」ケイトは焦った。
「いいだろ別に。行きたいんだから」
「いつ引っ越すの?仕事は?」
「まだ何も決まってない。金が溜まり次第かな。向こうでも同じ仕事ができたらいいけど」
「その州に何かあるの?ずっと行きたかったとか?」
ヒルデはグラスを手にしてジュースを飲んだ。「……クララがそこに住んでる」
「え?」ケイトは驚いた。「彼女とは別れたんでしょ?」
「そうだけど」
「どうして?」
「この前、なんとなくネットでクララのことを調べたんだ。そしたら、あいつの顔写真と名前が載ってるソーシャルメディアのアカウントが見つかった。ご丁寧にプロフィールに書いてあったよ。その州に住んでるって」
「彼女とコンタクトを取ったの?」ケイトは不安になってグラスを強く握った。
「いいや。でも行ってから話そうかなって」
「無茶よ。もし彼女と上手くいかなかったら?そもそも見つからないかもしれないし…。嘘かもしれない。会えないかもしれない。彼女と話をしてから引っ越しを決めた方がいいわよ」
「上手くいかなくてもあたしは構わない。とにかく真実が知りたいだけだ」ヒルデはジュースを飲み干した。
「あなたの気持ちは分かるけど、いくら何でも無計画すぎるわ。彼女と話すためだけに引っ越すなんて。引っ越したとしても、彼女と喧嘩になったらどうするの?仕事だって見つからないかもしれない。
全てを失ってしまうかもしれないわ。馬たちとも会い辛くなる。私やトニーは、」ケイトは口をつぐんだ。ヒルデらしくない無計画さに怪しさを覚える。
「あのさ、別にあたしは死にに行くわけじゃないんだ。馬たちは元気にやってるよ。アンだってすっかりあそこに慣れて体調もいい。スピカも大きくなってる。あたしがいなくても家族や仲間がたくさんいるんだから」
ケイトは黙っていた。なんだかヒルデに何かを試されている気分になる。
「あんたやトニーとは会う機会が減るだろうけど、あんたはこの家を買ったし息子と暮らしてる。犬も猫もいる。そのうちトニーともいい感じになるだろ?あたしがいなくても寂しくない。むしろガサツなやつがいなくなって清々するんじゃない?」
「そんなこと言わないで。あなたのこと邪魔だなんてこれっぽっちも思ってないわ。あなたがいないと…」ケイトの不安は大きくなった。グラスを持っていられずテーブルに置く。
「なんで?」ヒルデはケイトを見た。
「だって…。あなたがいないから寂しくなるのよ。あなただから…。私たち友達でしょ?」
「友達だからって近くに住んでなきゃいけない決まりはないだろ」ヒルデは目を逸らした。「あんたの友達は全員この辺に住んでんのか?」
「いいえ」
「ほらな」
「でも…」ケイトは躊躇った。自分でも何が言いたいのか分からなくなる。けれどヒルデには遠くへ行ってほしくないという気持ちだけはハッキリとしていた。「もしかして…。私のことが嫌いだから?」
「違う。なんでそんな話になるんだよ」
「なら…」再び躊躇う。
「なんだよ」
「…なにか疚しいことがあるの?」ケイトはひとつの核心をついた。




