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真贋の眼 〜眼の奥に潜む真実〜  作者: えもえもん
第五章 幻の島と還りし者

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第七十話 還りし者


 蓮次郎の呼吸が止まってからも、光留は動かなかった。


 腕の中に残された温もりが失われていく。


 それでも、抱き締める力を緩めることはできなかった。


 誰も声をかけられない。


 山喰らいを倒した者たちも。


 残された眼獣を退けた者たちも。


 ただ静かに、二人を見守っていた。


 やがて、伊織が光留の傍へ歩み寄った。


「光留……」


 肩へ手を伸ばそうとして、止める。


「蓮次郎を運ぶなら、俺も――」


「俺が連れていく」


 光留は弟の身体を抱え直した。


「約束したんだ」


 立ち上がろうとする。


 だが、両脚に力が入らない。


 吸収した眼力は蓮次郎によって取り除かれていたが、全身眼化の傷は残っている。


 膝をついた光留へ、鳴神宗玄が手を差し出した。


「一人で立てとは言っていない」


 光留は差し出された腕を掴んだ。


 鳴神に支えられながら、ゆっくりと立ち上がる。


 蓮次郎を抱く腕だけは、決して離さなかった。


 御影宗十郎が、地面へ突き立てられていた黒刀を抜く。


 鞘へ納め、伊織へ渡した。


 伊織は何も言わず、黒刀を抱えた。


 光留を先頭に、全員が崩れた試合会場を後にする。


 砕けた石。


 泥に沈んだ武器。


 動かなくなった眼獣たち。


 長く続いた戦いの痕跡を踏み越え、門へ向かって歩いていく。


 入口まで来たところで、光留は足を止めた。


 道の脇に、壊れた地蔵がある。


 幼い頃、二人で何度も手を合わせた地蔵。


 蓮次郎と再会したときには、半分が崩れ、泥の中へ傾いていた。


 光留は地蔵の前へ膝をつく。


 腕の中にいる弟を見た。


「帰ってきたぞ」


 穏やかに閉じられた瞼。


 もう返事はない。


「約束通り、蓮次郎を連れて帰ってきた」


 壊れた地蔵へ向かって、頭を下げる。


「遅くなって、ごめんな」


 そのとき。


 島を覆っていた霧が、僅かに動いた。


 海へ向かって、ゆっくりと流れ始める。


 黒く濁っていた雲の隙間から、一筋の光が差し込んだ。


 光は壊れた地蔵を照らし、光留の腕の中にいる蓮次郎の顔へ届く。


 まるで眠っているだけのようだった。


     ◇


 榊原玄斎が消えてから、三日が経った。


 島を閉ざしていた霧は薄くなり、海岸から水平線が見えるようになっていた。


 荒れていた海も静まり、船が島と外を行き来できるようになった。


 蓮次郎は、地蔵のある小高い場所へ葬られた。


 海と、崩れた町を見渡せる場所。


 墓標には、ただ一つの名だけが刻まれた。


 葛城蓮次郎。


 刃眼隊も。


 騎士団も。


 忍たちも。


 一人ずつ墓の前へ立ち、静かに頭を下げた。


 伊織は最後まで何も言えなかった。


 白い義手を強く握り、墓標を見つめている。


 やがて、隣に立つ光留へ黒刀を差し出した。


「返す」


「ああ」


 光留は受け取った黒刀を見つめた。


 玄斎との戦いで使わず、地面へ突き立てた刀。


 しばらくして、鞘ごと布で包んだ。


「使わないのか?」


「今はいい」


 光留は布を結ぶ。


「こいつも、少し休ませる」


 墓の近くでは、壊れていた地蔵が真っすぐに起こされていた。


 光留が崩れた石を拾い集め、割れていた部分を繋いだのだ。


 傷は残っている。


 欠けた場所も多い。


 それでも地蔵は、再び二本の足で立っていた。


 光留は墓前へしゃがみ込む。


「お前が帰る場所は、ちゃんと残しておくからな」


 返事の代わりに、海から吹いた風が草を揺らした。


     ◇


 それから、島の町の復興が始まった。


 眼獣に壊された家。


 山喰らいに踏み潰された道。


 崩れた井戸。


 焼け落ちた橋。


 島には、直さなければならないものが幾つも残されていた。


 霧の外から木材や石が運び込まれる。


 避難していた者たちも、一人、また一人と島へ戻ってきた。


 刃眼隊は倒壊した建物を取り除き、騎士団は港と道を整えた。


 忍たちは森に残る危険がないかを調べていく。


 光留も、毎日のように町へ出た。


 誰よりも早く起き。


 誰よりも遅くまで働いた。


 重い木材を運び。


 崩れた壁へ新しい石を積み。


 折れた柱を一本ずつ立て直した。


 黒の眼は使わなかった。


 右腕を眼化させれば、瓦礫など簡単に片づけられる。


 それでも光留は、自分の手で石を持ち上げた。


 木槌を振るう。


 一度。


 二度。


 何度も。


 その音が響いている間だけは、何も考えずにいられた。


 蓮次郎の最後の声も。


 玄斎が遺した問いも。


 白い光に消されていく町の光景も。


 全てが、僅かに遠ざかった。


「神の裁き……」


 夜になると、時折その言葉が蘇った。


 空に開いた巨大な亀裂。


 地上を見下ろす白い影。


 霧の中に立つ、黒い眼を持った男。


 その男が振り返ろうとするたび、光留は眼を覚ました。


 傍らには、布に包まれた黒刀が置かれている。


 光留は眠ることを諦め、夜明け前の町へ出た。


 直すべき場所なら、幾らでもあった。


 復興には人手が必要だった。


 それは光留が島へ残る理由として、誰もが納得する言葉だった。


 それが全てなのかを、誰も訊かなかった。


     ◇


 さらに幾日かが過ぎた。


 港の修復を終えた日、一艘の船が島を離れることになった。


 月と星は、一足先に忍術島へ戻っている。


 鳴神宗玄も、負傷した騎士たちを連れて本国へ帰らなければならない。


 御影宗十郎と狼の眼も、刃眼隊へ報告するために船へ乗った。


 伊織は、最後まで港に残っていた。


「本当に来ないのか?」


 船へ積み込まれる荷物を見ながら、光留へ尋ねる。


「ああ」


 光留の手には、木材を運ぶための縄が握られていた。


「まだ直す場所が残ってる」


「昨日も同じことを言ってたな」


「昨日は西の橋だ。今日は町の井戸を直す」


「そういうことを聞いてるんじゃねえよ」


 伊織が光留へ向き直る。


「いつまで、この島にいるつもりなんだ?」


 光留は、壊れた町を見た。


 屋根が戻った家。


 壁だけが残された家。


 瓦礫のまま、まだ誰も手をつけられていない家。


「町が元に戻るまでだ」


 伊織の表情が歪む。


「元通りになんて、ならないだろ」


 光留は答えなかった。


「家も、道も直せる。人だって戻ってくる」


 伊織が言葉を続ける。


「でも、失ったものまで全部戻るわけじゃない」


「分かってる」


「だったら――」


「分かってるんだ」


 光留の声は静かだった。


 伊織はそれ以上、何も言えなくなった。


 出航を知らせる鐘が鳴る。


 騎士と刃眼隊の隊員たちが、次々と船へ乗り込んでいく。


 伊織も乗船口へ向かった。


 だが、その途中で足を止める。


「外にもあるからな」


 光留が顔を上げる。


「お前が帰ってこられる場所は、この島だけじゃない」


 伊織は光留を見ないまま告げた。


「それだけは忘れるなよ」


「ああ」


 光留は頷いた。


「忘れない」


「絶対だからな」


 伊織はようやく船へ乗り込んだ。


 綱が外される。


 帆が張られ、船がゆっくりと島から離れていく。


 甲板から、伊織が白い義手を上げた。


 光留も片腕を上げる。


 船が小さくなるまで、港から見送った。


 やがて光留は、海へ背を向けた。


 船の上から伊織が何かを叫んだ。


 だが、その声は風と波の音に消えた。


     ◇


 地蔵のある丘には、新しい草が生え始めていた。


 光留は蓮次郎の墓前へ、一輪の花を置く。


「今日、井戸が直ったぞ」


 墓標の隣へ腰を下ろす。


「明日は、東の家を直す」


 眼下の町から、木槌の音が聞こえてくる。


 人々の声。


 走り回る子供たちの足音。


 夕餉の支度をする煙。


 死んだように静かだった島へ、少しずつ命が戻り始めていた。


「まだ時間はかかりそうだ」


 光留は墓標へ背中を預ける。


「だから、もう少しここにいるよ」


 傍らに立つ地蔵には、新しい赤い前掛けが結ばれていた。


 海風に吹かれ、柔らかく揺れている。


「また明日な、蓮次郎」


 光留は立ち上がった。


 布に包んだ黒刀を背負うことなく、町へ続く道を下っていく。


 霧の晴れた港には、それから何艘もの船が訪れた。


 島を出ていく船もあった。


 新たな人々を乗せて戻ってくる船もあった。


 光留は、そのどれにも乗らなかった。


 町には少しずつ、人々の声が戻っていった。


 それでも葛城光留が島を出る日は――


 それから長い間、訪れなかった。


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