39
ツォエを抱き、山葉は無人の屋上に降り立つ。コンクリートの地面を踏みしめると、不快な浮遊感は薄れた。北国の突風が耳元で喧しい。屋上の外縁を囲むのは、旧式のフェンスだった。ぎちぎちと揺れ、不愉快な音楽を奏でていた。熱した金属線のような空からは、はらりはらりと黄雪が降り始めていた。風に引かれた雨雲が、天蓋を覆うグラデーションにささやかな彩りを添えていた。
クーリロワとここで会話したことが、ずっと昔に思えた。
山葉の腕の中、ツォエは死んだように静かだった。片腕の取れた《変な生き物》を抱き締めたまま、濁った瞳は宙を彷徨っていた。彼らが機体から数歩離れたところで、PBAを持つクロフスとウォルフレンがアイドル状態になったヘリから降りた。
「綺麗な空だ」
クロフスはまるで独り言のような、何でもないような口調で喋る。
「空爆の日を思い出すな。あのときもこんな色だった。赤く染まって、太陽から血が垂れているようだった」
山葉はツォエをかばうように前に出た。
「……どうしてここに連れてきた?」
「真実を教えてやると言われて、それがお前の知りたいことなのか?」
山葉は一瞬怯んだ様子を見せた。目線を下げ、ひび割れたコンクリートの隙間、綿毛のような雪の散らばりに目を落とす。やがて面を上げたとき、その顔には決心の表情が浮かんでいた。
「空爆の目的は」
それを聞くと、クロフスは薄笑いのまま口を開こうとした。そして確かに真実を告げるつもりだったのだろう。しかし山葉には必要なかった。彼は続けた。
「――聖女を探すためだった」
クロフスが表情を変えた。見ると、ヘリの機体に身を寄りかからせ、腕組みをしているウォルフレンも驚いたように眉を上げている。
「……驚いたな」
額に手を当てて、クロフスは言った。
「いつ気付いたんだ?」
「あなたと話すまで、確信はなかったさ」
山葉の眉間に皺が寄る。いっそ外れていればよかった。苦々しく心の中で呟く。
「軍事会社として、開戦の引き金を引くことはやはり重要だったんだろう。だけど地上侵攻のきっかけを作るため“だけ”なら、相手は難民じゃなくてもよかったはずだ。殺されたのがただの難民で、しかも汚染地帯出身だったからこそ、国内では仇討ちの主張が舵を取れず、厭戦ムードになってしまった。これは容易に想定できるシナリオだ、予想できなかったはずがない。となると、わざわざ汚染地帯出身者を狙った理由はひとつ」
「――聖女の炙り出し」とクロフスが正解を与える教師の口調で言う。
「あなたたちにとっては戦争すら隠れ蓑だったのかもしれない。どちらにせよ、正気の沙汰じゃない」
一歩前に出ると、山葉は大きく手を振った。
「だけど目的は何だ? PMCは聖女を使ってなにをしようとしている?」
クロフスはその問いに直接答えなかった。ふむ、と銃を持ったまま腕組みをして、考え込むような仕草を見せた。
「勘が良過ぎるのも困り物だな」しみじみと言う。「俺は正しかった、お前は優秀だが、だからこそ潜在的に危険なんだ。共に戦うか、始末するか――中間はありえない」
その声色に潜められた圧迫感に、氷山の中心から切り出した氷塊がみぞおちに沈むのを山葉は感じる。それはそのまま、恐怖が花開く重みでもあった。
「もう一度聞くぞ、本当に戻る気はないんだな?」
ヘリの傍から静観していたウォルフレンが、戸惑いの声を上げた。賽は空高く投げられ、運命の天秤は傾いたのだと、そう言いたいのだ。山葉という愚鈍な男の行く末はすでに決まっているのだから、ここで問答を始めること自体がそもそもの過ちなのだ。
しかしクロフスは振り返りもしなかった。律儀に山葉の返答を待っていた。かつて憧れた人物がそうまで自分を特別視することに、また、自分が断わらなければならないことに、山葉は何度でも心の一部が千切られるような疚しさを覚えた。すぐに、真実を知ることへの代償を求められていることはわかっていた。しかし心変わりの時代を過ぎたこともまた、事実であった。
「ツォエはどうなる?」
「残念だが、俺が必要としているのは戦士だ」
今更嘘はないのだろうが、それでいて、わかりきった答え。思わず吹き出してしまいそうな、とんだ見込み違いだった。どのような結果や真実が目の前に転がろうと、山葉が最初目指した到着点には、失望に波立つ水溜りがあったわけだ。
「……あなたとは、行けない」
クロフスは、笑いが真顔に変わるときのような息をついた。
「真相究明委員会に提出された、お前の精神分析の結果を思い出すな」
灰色の上着のボタンに、夕空の欠片がちらついた。サングラスのブリッジを軽く押し上げ、ポケットに片手を突っ込んだ。
「個人主義でありながら利他的、合理主義でありながら直情的、経験主義でありながら直感的、懲悪主義でありながら偽悪的……。矛盾した要素が絡み合い、美的感覚や価値観の根本を築いている。中でも面白いのは、当の本人は一貫性があると思い込んでいることだ。専門家やプロファイラーでも、こういった人間の行動を予測するのはひどく難しいらしい。だからクーリロワの場合と違い、お前とこうなるのはある意味必然だったのかもしれないな。こうして予想が外れ、決裂するのは」
その言い方はひどくさりげないものだったが、山葉にとっては聞き逃せないものだった。
「どういう意味だ? どうしてあなたが彼女を――クーリロワを知っている」
「何を驚く、そんなに不思議なことか? お前が聖女について知ったのは、彼女からだろう? 彼女に教えたのは俺だ」
「《タブラ・ラサ》と彼女が繋がっていたと言ってるのか?」
「……もしかして、知らなかったのか? なるほど、だったら今までの反応にも納得がいくな。いや、それにしても」
大げさに首を振り、ははっと笑う。
「まったく、あの女も大したものだ。いくらお前にでも、都合の悪いことは話さないのか。……まぁ、だからこそ親の権力は別にしても、泳がせて問題ないと判断されたのか。打算で動く、卑しい性根だとわかっていたから」
「……彼女になにをした?」
「逆だ、彼女”が”なにかをしたのさ。信念に基づいてな」
動揺を浮かべた山葉の表情を視線で舐りつつ、クロフスは続けた。
「いいか、彼女には信念があった。そこらの祈り屋とか拝み屋の、日替わりの信心とは違う。何かを救うということは、何を救わないか決めるということだ。彼女はそれを理解していた。だから汚染地帯の死に損ないどもからなにを懇願されようとも、平気な顔で無視できた。大した度胸だと思ったよ。いい女だ、あれは。聖女を探し当てる嗅覚とでも言うのか、一種の才能があった」
不注意にもクロフスは馬脚を現した。山葉は若干の冷静さを取り戻し、
「安い挑発だ」と口を開く。
「ほう?」
「俺がこれも彼女から聞いてないと思っているんだろうが、残念だな、予想は外れだ。いいかクロフス、彼女は聖女に会ったことなんてない。どこの汚染地帯でも見つけられなかったんだ。よく覚えている、俺はクーリロワから直接聞いて――」
ちちち、とクロフスは舌を鳴らし、芝居じみた動作で人差し指を振った。
「国内で一人、国外で三人――計四人、クーリロワは聖女を発見している。おおかた、軽蔑されるのが怖くて言えなかったんだろう。発見した聖女を《タブラ・ラサ》に保護させていたとは、ナイーブなお前にとってはいかにも衝撃的じゃないか」
固まった山葉に哀れみの目線を向けながら、クロフスは続けた。
「ふぅ……聞け山葉。クーリロワが首を突っ込むずっと以前から、《タブラ・ラサ》は聖女の存在に気付いていたんだよ。いや、俺たちだけじゃない。同時期に発生した聖女の噂に、世界中の国家機関や大型PMCが興味を持った。彼女が知っている情報は皆、俺が教えてやったものだ。それも一握りでしかないがな。例えば聖女とは何であるか、あの女は未だ蒙昧な意見しか持っていない。なんだったか……そう、予言者と呼んでいたように。はっ、まるで夢見る乙女だ」
「……利用したんだな」
「いいや、あれは彼女の意思だ。心酔していたよ。彼女は聖女の信奉者だった」
怒りの霧がもくもくと湧き上がり、視界を覆い隠していく。この赤さが光のためか、怒りのためか、山葉にはわからない。
発見ではないのだ。また、保護でもない。
拉致だった。
クーリロワは聖女を拉致し、《タブラ・ラサ》に捧げていた。
それが真実だった。そして彼女は実体験として、“そういうこと”をする人間がいると知っていた、だからこそマフィアの襲撃を拉致と結びつけることに、いささかの躊躇もなかった。聖女と信じる限り、ツォエを守ることは彼女にとって、唯一罪を贖う方法だった。
「勘違いしているようだがな、“保護”は必要な措置だった」
拳を震わせる山葉に向かって、クロフスは淡々と語る。
「よく考えろ。重度汚染地帯に出自を持つ聖女の運命は、そもそもひどく儚いものだ。二十歳を越えて生きるものは稀だ。大抵、内臓をやられているからな。発見して連れ出しても、かなり大掛かりな方法で治療しなければ、すぐに命を落としてしまう。脚を折った鳥みたいなものだ。加えて、予言者なんて絵空事を信じる者はそういない。となると選択肢は限られていた。結果的に、《タブラ・ラサ》に協力するのは、俺と既に接触を持っていたクーリロワにとって、考えうる最上の落とし所だったことになる」
「じゃあ何で彼女は嘘をついた?」
山葉の胸には、はっきりと焼きついていた。聖女について初めて話したときの、あの思い詰めた横顔。
「後悔していたからだろう? お前らの言う保護がひどい欺瞞だと知って。彼女の信念は報われなかった。信仰は裏切られた。だから本当のことを言えなかったんだ。最後まで、ツォエを聖女だと信じ続けた俺には……」
『――過去は消せない、いつまでもついて回るわ』
彼女の言葉。行動の真意。
どうして自分のためにここまでしてくれるのかと聞いた山葉に、彼女はそう答えた。
『――私はそれを“知っている”から……』
《タブラ・ラサ》出身のエリートだという山葉に最初向けた、あの異常なまで攻撃的な態度の理由も、今ならはっきりと理解できるのだった。彼女は自分の過去を憎んでいたが、それと同じくらい、過ちを知られたくなかった。声を殺して葛藤を理性の鞘に収めるのは、彼女にとって大変な苦痛であったに違いない。決して殲滅できない黴のように心の隅から滲んだ憤りは、そうして内から外へ向けられたのだ。同時に、押し込めた正義も無視できなかった。だからクーリロワは何度も婉曲的な手段で、辿った真実の一片を伝えようとした。しかし、その全てのサインを彼は見落としたのだった。
くだらないな、とクロフスは両断した。
「感傷的になっていいのは喜びのためだけだ。彼女の献身は報われた。三ヵ月前、科学者たちは聖女に特質する脳内ニューロマップの解読を終えた。一ヶ月前、粒子の思考を言語と可逆的な方法で再現するシミュレーション試験にも成功した。わかるか、山葉。人間の歴史はとどのつまり、人工化の歴史だ。家畜を、欲望を、社会を、己の肉体さえ人工化した。なら聖女だけが例外だとどうして思う? 最早、汚染された生身の聖女など必要ないんだ」
クロフスはゆっくりとサングラスに手をかける。長い時間で初めて、その双眸が顕わになる。山葉は鳥肌が立つのを感じた。文明は発展しても精神は洞窟で闇を恐れた時代と変わらないと人は言う。しかしそうではないのだとクロフスは主張する。かつて神聖を愛した人々はとうの昔に滅びたのだし、聖性はうらぶれた一角の排水溝に流されたのだ。
「この試作品で視えるのは、まだ極短の未来でしかない」
爪を短く切りそろえた指先で目の縁を叩きながら、クロフスは言う。
「しかし連中は楽観的だよ。まがりなりにも人類の希望に見合うだけの犠牲を払った力だ。最も困難な部分は乗り越えたから、後の課題は時間と共に解決すると見ている」
中心が、暗く、鈍く、紅く輝いている。
眼球に替わる、微細な紋様を秘めた球体が山葉を見据えていた。
数本のコードが左目の端から伸び、こめかみの生え際に繋がっている。これまではサングラスのツルにまぎれてわからなかったが、コードは皮膚を突き破り、おそらく脳のターゲット部位と直接接続するような、大掛かりな外科手術が行われていた。
「――そろそろだ、クロフス」
無意識に山葉が一歩引いたとき、沈黙を守ってきた迷彩服の巨人が口を開いた。
「もうすぐロックが完了する。コードはいつもと同じだ。セットすれば、いつでも実行できる」
「わかった、すぐに終わる。ウォルフレン、お前はそこで見ていろ」
「何だ……? 何が実行できると言っている?」
クロフスの指示にウォルフレンは不満気だった。しかし予想していたのか、大きな溜息をつくと、刈り込んだ頭に指を走らせた。ヘリの機体に再び背中を預け、腕組みをする。
「ふん、”約束”さえ守ってもらえれば問題ない。それまで俺は観客として、せいぜい楽しませてもらうさ」
「おい、答えろ。いったいなにを――」
「構えろ、山葉」
そう言うとクロフスは、スーツの上着をウォルフレンに向かって投げた。ワイシャツの腋下にくくりつけたガンホルスターにPBAを戻す。
「ツォエを守るのがお前の目的だというなら」
(こいつ……)
たった数秒だった。それだけの間に、クロフスの纏う雰囲気が一変していた。そこにいるのは冷徹な狩人だった。右腕を振ると、かしぃん、と硬質の音が鳴り、ワイシャツの袖から小振りのナイフが伸びた。加分子補強された合金特有の、水晶を思わせる煌き。
「――だったら、最後まで貫いてみせろ」
斜陽を抱き、燃えていた。
「クロフス……」
及び腰になりかけた自分を、山葉は叱咤した。心臓がとてつもない速さで脈を打っている。ツォエを振り返り、「もっと下がっているんだ」と言うと、一応は聞こえているようで、彼女は覚束ない足取りで移動した。そして狐の尻尾に顔を寄せ、丸くなり、なにか柔らかくて優しい世界に閉じこもった。そんな彼女を見るのは、身を切るような痛みだった。
「聖女は一種の神だ。粒子で思考し、世界を構築する……」
向き直った山葉を見つめ、クロフスは言った。手を返すと、水晶の刃は合わせてくるりと踊り、透明な、炎の帯を方々に散らした。
「考えてみればそれは、頭の中にそっくり同じ世界を持っているということじゃないか? そして事実、そうだった。占い師の、決して間違えない水晶玉――それが聖女だった。ならば生きるとは、わかりきった結果の投影でしかない。写し世とは、頭中の事象をなぞることでしかない。だが始めからそんな世界に生きるなら、過去や未来といった概念を習得することすら難しい。だから大多数の聖女は予言者よりも、白痴に似ているんだ」
「……白痴に子は愛せない」
きぃん、と刃鳴りが響く。山葉がナイフを抜いた音だった。
「山葉……」
彼の台詞になにかの理解を得たように、クロフスは一瞬だけ緊張を緩め、微笑んだ。
深く頷くその様子には、愛しさすら見出せた。
「ああ、彼女は特別だった。空爆を生き抜いた彼女は、紛れもない本物だった。この眼を産んだ母……俺の母と言ってもいい。並みの聖女など比するべくもない、あの桁外れの演算容量に、無限とも言える最適化分布……。バタフライ効果など意に介さず、不確定原理さえ眼中にない。今百年で築かれた物理法則を軽々と、一種、獣の伸びやかさで飛び越えて……」
落としたサングラスを踏み潰す。
「それが今、俺の中にある。彼女の世界を、俺は視ている」
視線が噛み合った。
事象の果てを覗く、人工の聖女。
「――本気で来い。この場で、刈り取らせてもらう」




