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絶滅危惧種のペンギンにも似た針山頭の男は自分が有名なマフィアの一員の親友と知り合いであることをそこはかとなく仄めかしながらどうすればこの熱々のコーヒーをぶちまけた側とぶちまけられた側の不幸にも峡谷の隔たりほどもある見解の相違を突き崩し最終的には“とある小さな一事件”として皆笑い飛ばして後腐れなく終われるハッピーな結末に持ち込めるかという提案について訥々(とつとつ)と語った、ペンギン男が示すところそれは完全なノンゼロサムゲームゆえに全員が勝利できる理想的なモデルとなっていて敗者という名の暴力受動装置は存在しないということなのだがまずそういった完全拮抗に持ち込むには全員が彼の言うことを注意深く聞きその通りに行動する必要があるのだという。
つまりところは恐喝だった。
ただ、犯罪を法治国家で完遂するには、それなりの運と知恵と判断力が必要とされる。
彼にはどれもなかった。
まずクーリロワは話を聞いていなかった。アリサもほとんど話を聞いていなかった。二人は男を、雑音を発する異物としてしか認識していなかった。ペンギン男は意識の外側で壁に向かって声を張り上げていただけだった。その仕打ちは、髪型に代表される彼のおがくずの如き無意味な自尊心に満ち満ちたアイデンティティを傷つけ、激昂させ、声量を二割増しにさせるのに充分だった。
その頃には彼の“提案”は周囲の耳目を必要以上に集めていたし、随所随所に神妙な顔つきで突っ立っている警備員が仲裁に入るのも時間の問題だった。であるから突然現われた闖入者が一匹の怒れるペンギンと二人の美女の間に割り込んだとき、固唾を呑んでことの成り行きを見守っていた周囲の人々――見舞い客や入院患者、通院患者に売店スタッフ――は皆揃って胸を撫で下ろしかけた。撫で下ろしかけ、すぐに気付いた。
闖入者は警備員ではなかった、ずんぐりとした体格をギンガムチェックの黄土色のスーツで包み、その上からちょんと突き出た頭部は、胴体の一部かのように頚椎カラーでがっちりと固定されていた。その不気味な出で立ちは明らかに、一般的な警備員の様相とは異なっていた。しかしもっとも異なるのはそこではなかった。
眼。
真っ直ぐにやってきて正面からクーリロワをねめつける、その血走った眼。
かっと鋭く見開かれ、隈で青く縁取られ、脂ぎった前髪の簾の隙間から黒の瞳が爛々と輝く様子はまるで狂人のよう。一瞬彼女は別人だとさえ思ったのだ。しかし目の前に立っているのは、紛れもなく幼い頃から親交のある刑事――小倉だった。
「な、何なんだよオッサン」
異質な空気に気圧されかけている自分を叱咤するように、ペンギンは前脚を踏み出す。そして嘴から、恫喝に慣れた人間特有の、鼓膜を破って脳まできぃんと響く、違法改造車のエンジンのような声を張り上げるのだが、
「ようコラッ、邪魔すんじゃねぇ、何か勘違いしてんなら言っておくけどなぁ、俺はこいつらのせいで顔面火傷した被害者だぞ、オッサン関係ねぇならすっこんで――」
小倉が怒鳴った。
「あいつはどこだっっ」
びくっ、とペンギンの羽が跳ねる。彼の怒声など比較にならないほど、小倉のそれは腹の底から響いていた。膨らんだ鼻穴からは炎が噴出し、噛み締めた歯の間からは硫黄がしゅうしゅうと漏れた。
「お、小倉さん……? あいつって」
小倉は呆気に取られているクーリロワの両肩を掴み、ぐっと顔を近づける。
「山葉のことだ、他に誰がいるっ? クーリロワ君、君は知っているんだろう、もう駆け引きはやめろ、さっさと教えるんだ」
「おい待てやオッサン、舐めすぎじゃねぇのか、俺が先に話をしてるって――」
熟してない果物を硬い床に落としたような音がした、ペンギンがよろめいた。小倉が振り向きざま殴ったのだ。衆人環視の中そのような行為に躊躇なく及ぶということは、彼がどれだけ切羽詰っているのかを表していた。尻餅を突きかけたペンギンを支えたのは、いつの間にか背後に立っていたトレンチコートの刑事だった。そして、射止めた小動物を誇るかのようにペンギンの襟元を引っつかみ、千切れそうなほど上に伸ばしながら、
「貴様も警察舐めるなよ? しょっぴかれたくなかったらとっとと失せろ」
耳元で呟く。そして乱暴に突き飛ばすと、小倉とクーリロワの脇に立った。
「いいですかクーリロワさん」と咳払いして言う。「あなたの協力が必要なんだ。山葉という男は私たちが思っていた以上に危険だ。すでにひとり殺した。正直ここまでとは思わなかった。すぐにでも拘束しないと入間先生だけでなく、次の犠牲者が出るだろう。私たちはあなたが彼の目的を知っているのではないかと」
「殺したって……犠牲ってなによ?」
それまで黙っていたアリサが口を開く。彼女の唇は興奮のためか青ざめ、震えている。いや、興奮と言うよりは恐怖のためだった。彼女はすでに察していた。察した上で信じたくないのだ。悪い予想だけが常に当たるのはあまりに不公平だから。
「誰だ君は」
知らない女の登場に、僅かに冷静さを取り戻した小倉が言う。
「入間の友人よ、いいからなにがっ」
詰め寄るアリサを眺めると、小倉は意味ありげにトレンチコートの刑事を見やった。トレンチコートが肩をすくめると、小倉は視線を戻し、今度は神妙な口調で、
「臨海公園の駐車場付近で、入間先生の死体が発見された。頭を撃たれて即死だそうだ」
無音。
無音。
アリサはよろめいた。トレンチコートが彼女の肩を支える。それすらも彼女は気付いていないようだった。
「あ……う、うそ……うそでしょ……ねぇ……」
足は震え、今にもぐるりと目玉を反転させて倒れかねない様子だった。しかし、衝撃を受けているのはクーリロワも同じだった。最悪の予想が当たってしまった、と思った。そして現状はおそらくそれより悪いのだ。彼女は小倉に向き直り、二の腕を掴もうとした。
「山葉が入間先生を殺したと、そう言ってるのですか?」
「当然だ、他になにがあるっ」
「ありえません、落ち着いて考えてみればそんなことは絶対に――」
小倉は乱暴に彼女の手を振り払った。彼はクーリロワの“そういった”主張にうんざりしていた。
「手配されているロリコンそっくりの奴が白衣の男にナイフを突きつけていると、通報があったんだ。最寄りの警官が駆けつけてみれば死体だけがあった。……これ以上の証拠がいるか? これでもまだありえない、まだ足りないと?」
「そんなの証拠じゃないでしょう」
「入間を公園まで呼び出したのは奴だ、病院にかかってきた電話のレコードも声紋照合した。山葉以外いないんだよ、犯人は。かばうのはやめろ、もうたくさんなんだ君の御託はっ、いいから早く――」
「クーリロワ、あなた、言ってたのに、山葉は大丈夫だって。でも嘘なんじゃない、どうしてアイツが死ななきゃならないのよ、教えてっ、これ、あなたのせいなんでしょう? ねぇっ、どうなのよ」
「アリサ……」
小倉に怒鳴られるより、彼女に責められる方が辛かった。
「犯罪者に味方するようなことばかり言って、それできっと、入間も騙したんでしょう、あのお人よしをっ。いったい何が望みなのよ、よりにもよって私の一番大事な友達を殺して、殺されるような状況に誘い込んで……。あなたがそもそもの元凶なんじゃないっ、この嘘つき、絶対に許さないわ、絶対――」
がむしゃらに振り回された拳が頬を掠める。クーリロワが反射的に身を引くと、今度は胸倉を掴み、泣きながら遮二無二むしゃぶりついてくる。
「やめんかこら、落ち着けっ」
流石にまずいと思った小倉とトレンチコートが止めに入る。その様子がクーリロワには、他人事のように遠い光景に見えた。呆然と立ちすくみながら、溶きたてのコンクリートに膝下からずぶずぶと沈んでいくような錯覚を覚えていた。
得るのは早かった、失うのも早かった。まるで波打ち際、さざ波に踝をくすぐられながら砂に描いた文字だった。文字は友情とか、信頼とか、あるいは良き出会いとか、そういったことが書いてあった。波は引き、波は来る。人差し指を深く突き立てて刻んだ溝も、波にとっては泡と同じ。すぅっと浮かび、さぁっと消える。後に残るのは、踵とくっつくくらいしゃがみ込んでいたせいで、猫の鼻のように冷たく濡れた尻だ。
私は、嘘をついたことがある……。
そんなことを、呆然とクーリロワは思った。それはずっと昔のことだったが、その昔の過ちのために、今でも人は死ぬのだった。
「ごめんね、アリサ」とクーリロワは呟いた。「確かにこれは、私のせいなんだ」
目が合った。
一瞬、アリサの瞳に、類稀な共感性を持つ心理セラピストの光が、次いで、後悔と憂色が浮かんだようだった。
ゼンマイの切れたおもちゃのように動きが止まる、唇を噛む、俯く、目の端が震える……。そして彼女は、間に入る二人の男の腕を強く掴みながら顔を上げ、何か言おうとする。そして確かに言葉に発したのだろう。
しかし、クーリロワの耳にはもう届いていなかった。
走っていた。
間抜けな刑事二人の、とんまな悲鳴が背中を叩く。しかし背中に耳は付いていなくて、悲鳴の内容まではわからない。「待て」とか「おい」で始まる言葉なのはわかっていた。待つ気はなかったし、おいと呼びかけられて、はいと応じる気もなかった。
野次馬はやはり完全な傍観者に徹した。脇をすり抜ける彼女を止めようとしない。ペンギンは尻餅を突いたまま、明順応に失敗した野生動物のように瞼を目いっぱい広げ、驚きも露に走り行く彼女を見送る。
タイミングは完璧だった。クーリロワは乗客が降りた直後のエレベータに飛び込むと、二十九階のボタンを叩いた。するとまるで冗談のよう、閉まる直前、追いつこうとしていたトレンチコートと小倉が順にドアに激突する。笑わせないでよ。彼女は呟く。
そして今、彼女は少年の前に立っている。走り続けた長い廊下、荒い呼吸に肩を弾ませ、その肩を揺すって声を張り上げるのは病室の前で見張りをしていたカチェートだ。彼女は答えない。沈黙は金だからではない。語るべき相手が来るのを、語るべきタイミングが来るのを待っている。それを逃すのなら、抱えた金は乾いた馬の糞と変わらない。
少年の顔は酸素マスクで覆われている。コードやチューブで繋がれた全身は、拘束バンドでベッドと一緒くたになってきつく巻かれ、念には念をとばかり、右手首は手錠を嵌められ、ばんざいをするように頭部側のベッドの金属パイプと繋がれている。バイタルを刻み続けるモニターは、気だるいほどに規則的な機械音を響かせる。
少年の顔を見つめ、クーリロワは考える。左側、格子のついた窓を見やる。外に冬の砂漠を見つける。嘘のような赤い光の中、いつの間にか雪が降り始めている。融けた水に浮かぶ景色を仄暗い白熱灯で輝かせる。砂浜を失い、今は砂漠があった。
ドアがぶち破られるような悲鳴を上げて勢いよく開かれ、壁を叩いて跳ね返る。息を切らして喉を枯らして、入って来るのは喜劇の二人。
冬の砂漠はせせこましい病室を囲むようにゆっくりと降り積もり、手を伸ばせば届く距離、ガラス一枚隔てた世界に広がっている。なぞる文字を、指先を待っている。彼女はぎゅっと目をつぶる。溢れた水滴を手の甲で強く擦り取る。今度は間違えない。嘘とは別れる時間が来た。誰かに信じてもらうためには、犯した過ちを知ってもらわなければならない。
気付けば握ったままの狐のバレッタに目を落とし、顔を上げ、男たちを見回し、彼女は砂漠に手を伸ばす。朝露を延ばして作ったガラスに指を触れる。白百合の指に力を込めて、なぞる文字は喉から溢れる。
「本当のこと、全部話すわ。だから聞いて。協力が必要なの」




