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狐たち  作者: nutella
38/52

37

 入間は近くにいた。砂防林を縫う遊歩道の脇、白衣のポケットに手を突っ込み、太い木の幹に背中を持たせかけていた。革靴には焦げ茶色の病葉の欠片がこびりついていて、視線はやはり山葉と同じ、見たことがないほど赤く染まる空だ。色は蜜柑から柘榴へ。夕陽に吸い寄せられるように、いつの間にか上空に雲の群れが集まり始めていた。火あぶりにされるのを待っている囚人を思わせる、不吉な空。

「正直な所、少し妬いたよ」

 右手を差し出しながら入間は言った。

「あの子があんなにまで君にこだわるとはね」

 山葉は手を握り返すも、無言だった。入間はじっと考え込む素振りを見せた後、おもむろに、

「なぁ、本当に来ないのかい? ツォエだって君がいてくれれば……」

 だが返事を待つまでもなく、答えを彼は知っているのだった。口を閉ざし、手を下ろした。

「どうしても確かめたいことがあるんです」

 静かな、それでいて固い決心を感じさせる声で山葉が言った。それはなにか、と入間は聞こうとしたのだろう。唇が動いた。しかし声になる直前で、

 がさり。

 二人の背後で木立が揺れた。まず山葉が、続いて一瞬遅れて入間が音のした方角を向いた。枯れた広葉樹の頂上――そこにいたのは美しい緑の羽を持つ小さな鳥だった。本来森の中で保護色になるはずが、枯れた木々の中では逆に目立っている。退廃から取り残された進化というのは、ひどく悲劇的な役回りを思わせた。鳥から目を離さぬまま、山葉は片腕を振った。

「行ってください、先生。俺と一緒にいるところを見られるのは良くない。下手をすればあなたまで犯罪者の仲間入りだ。後のことは、頼みました」

「……いっそのこと、君がツォエの親だったらよかったのにな。本当にそう思うよ」

 山葉は目を曇らせ、かぶりを振る。

「あの子がどれだけ母を恋しがっていたのか、俺は知っていますから」

 ゆっくりと嘆息し、入間は踵を返した。しかし去り際の人のように半身を向けたところで、動きを止めた。山葉は首をかしげた。

「先生……?」

「母親、か」と入間は呟き、振り返った。「最後にひとつだけいいかい? 思い出したことがある。いずれわかることだろうが、もしかすると君は今知りたいかもしれない」

 山葉は警戒するように周囲に視線を走らせていたが、結局、好奇心には勝てなかった。

「何ですか?」

「ツォエが母親と呼んだ少年のことだ」

 山葉は息を呑み、入間を見返した。

「……続けるよ。彼はうちの病院に運ばれてきた。重体だが一命は取り留めたそうだよ。とはいえ体内組織の大部分を人工物に換装しているから一度、全身走査の必要があったんだ。担当したのは僕の友人で、これは彼から聞いた話なんだが。とにかくそれで、なにがわかったと思う?」

 わかるはずもない。山葉は目配せして先を促す。入間は言った。

「別人なんだ」

「……は?」

「まぁ驚くだろうな。だけど本当だ。少年の頭の中に入っているのは他人の脳なんだ。その後の精密検査の結果、脳梁や扁桃体の形状から、少年の頭部に入っているのは、成人女性の脳だということが判明したらしい」

 山葉は何か言おうとしてしわがれ声になり、咳払いし、暗がりの猫よりも目を丸め、

「嘘でしょう?」

「君に嘘は吐かないよ。残念ながら本当だ。別にありえない話じゃないのは、最前線にいた君の方が詳しいと思うが。ともかく間違いない。少年の中身は女性だ。脳は、情動系部野の大部分が外科的に切除されていたそうだ」

「じゃあ彼は……」

「違う、彼じゃない。“彼女”なんだ」

 呆然とする山葉をよそに、入間は首を捻った。

「ツォエは彼女を母と信じていたが……。いや、まさかね」

(ありえない……そんな、まさか……)

 息が苦しい。呼吸のためのリソースさえ奪い、とてつもない速度で思考が回っていた。意識が拡張され、目に映る全てがのっぺりと、厚みを失ったかのように見えた。これまで、おぼろげな全体像すら掴めなかったパズル――その全てのピースを自分は持っているのだと、初めて確信できた。入間先生、と震える声を懸命に抑えながら、彼は浮かび上がったひとつの疑問を口にした。

「先生は、ツォエが中毒になったのは、養父母が原因だと考えていますね。ですが、どうしてそう断言できるのですか。彼女がそれ以前から中毒だった可能性は……」

 一瞬、入間は質問の意図がわからない、という顔をした。

「空爆直後の彼女を診察した知人がコンタクトを取ってきたと言っただろう? 彼女が薬物についてなにも言ってなかったからだ。とは言っても今日詳しい話をする約束をして、電話では短く情報交換をしただけだ。だからもちろん、僕が間違っている可能性はあるよ」

 その可能性というのは、と山葉が口にするより早く、

「――まぁ、ほぼゼロだがね」

 と瞼を擦り、入間は付け加える。

「普通、入院となれば血液検査は必ずする。当然、前の病院でもしたはずだ。つまりアリサ――友人はツォエの尿やブラッドサンプルの検査結果を知っているんだ。にも関わらず、ツォエの両親に話が及んだとき、彼女は『何ておぞましい夫婦に引き取られたのか』という言い方をした。もしツォエが前から中毒だったとするなら、あんな言い方はしないだろう。それにあの時点で僕に何も教えてくれないのも不自然だ。となると示す意味は明白じゃないか? ――空爆直後の彼女はクリーンだった。Aマイナス程度の重金属汚染は認められたが、薬物に関しては潔白だった。今の段階じゃどうやっても推測の域を出ないがね」

 ところで、どうして急にそんなことを? そう入間が問うが、山葉の耳にはもう、なにも聞こえていなかった。彼は自分の考えに没頭していた。

 やっぱりだ――そう思った。俺が聞いた話は正しかった。難民への配給食に薬物を混ぜるという案は却下されていた。つまり、空爆時の予言は、彼女がパブの駐車場で言ったものとは性質が違うのだ。雪の結晶と、拡大した瞳孔が見せる炎の幻ではなかった。しかしそれは、空爆時の予言が本物だったと示唆するものでもない。なぜならツォエが聖女ではないこともまた、厳然たる事実だからだ。

 なら何なのか?

 一本道の思考が出会う、行き止まり。

 発想が違う、と彼は思った。ツォエは彼に警告した、知りえるはずのない情報を事前に警告した。それは絶対に間違いないのだ。だとすれば思いつく可能性はひとつ――

(もしも……もし仮に、空爆を予知したのが別の人物だとしたら? 彼女はメッセンジャーで、それを俺に伝えただけだったとしたら……)

 懸命に記憶の板を引っ掻く。血が滲むほど爪を押し付ける。だがなにも新しいものは見つからない。全てを思い出すことはできず、指の隙間から零れ落ちた黄金は戻らない。ただ、瞼の奥に見えるのは絶望した人々、激しい息切れ、ツォエは山葉に手を引かれ、走り、つまずき、立ち上がり、もう片方の腕には《変な生き物》を抱き――

(どうして持っている!?)

 脳天から脊椎へ、電撃。

(《変な生き物》はお母さんと一緒に作ったものだとツォエは言っていたはずだ。宝物だと。なら、どうしてあのときの彼女が――)

 そしてひとつの理解に行き当たる。驚くほど答えは単純だった。

「どうした、山葉君?」

「……養母じゃなかったんだ」

 彼は呟いた。

 何故今まで気付かなかったのか。

 これまでの途方もない思い違いに、わなわなと震える。

「彼女がお母さんと呼んでいたのは、最初からずっと、別の人間のことだったんだ」

 考えてみれば始めからおかしかったのだ。ずっと山葉は不思議だった。なぜ二ヶ月弱という短期間しか母でなかった人間を、彼女はあそこまで盲目的に愛せるのか。なぜ自分を薬漬けにして軟禁した人間のために、この世の終わりのような声で涙を流せるのか。そしてなぜ、養父については一度も触れなかったのか。

 しかしそういった当然の疑問は、ぽこぽこと茶色く泡立つ心の沼に深く沈められ、沼の入り口には南京錠がかけられた――聖女を疑うわけにはいかない、義理とはいえ母を失った少女を疑うわけにはいかない。時間が経つほどに罪悪感は募り、罪悪感が募るほど引き金を引いた指は重みを増した。締め付けられた指は赤黒く腫れ上がり、壊死して、やがて腐った血が巡った。血は臓腑を侵し、ふとした瞬間、まるでよく慣らされた猟犬のように息を潜め、いつだってあの夜のあの瞬間のあの後悔に連れ戻そうとする。そうやってげっぷを吐くほどに肥大した誤射のイメージは、ツォエの“お母さん”という言葉の解釈について、それ以外に当然あったであろう可能性、引いては自らに新たな選択を与える自由を一切排除したのだった。

 ツォエにとって、義理の家族など“目”ではなかった。

 口にするのも憚れる、悪質なカリカチュア。

 彼女が見ているのはいつもひとりだった。

 考えてみれば滑稽だった。山葉たちは脳の移植と呼び、ツォエは生まれ変わりと呼んだ。別々の言葉で、まったく同じことを指していた。生まれ変わりという響きからオカルトじみた胡散臭さを嗅ぎ取り、はなから一考にも価しないと決め付けていたのだ。そして、あたかも全ての決定権が自分たちに属すとでもいうように彼女を扱った。

 最初、山葉はツォエを聖女だと思った。次に、その話を聞いたクーリロワは単なるマフィアによるいざこざでしかなかったはずの事件を、聖女を狙った拉致だと考えた。二人の切れ切れの情報が集まり、逃避行が始まった。歯車は決して噛み合わないまま、がむしゃらに速度を増した。

 だが山葉は考えるべきだった。彼女の叫びに耳を貸すべきだった。思い返せばツォエは一度も嘘をつかなかった。自分を聖女だとも言わなかった。彼女はずっと、真実だけを語っていた。であるからこそ、クーリロワが《変な生き物》を形見と断言したとき、かたくなに否定したのだ。彼女は誰にも、『事実を正しく認識』できるよう、助言を授かる必要なんてなかった――そう、見当外れの助言など。

(なんてことだ……)

 彼は額に手をやった。ぐらぐらと眩暈がして、視界が波線形の火花に切り取られた。体内の空洞を、からからと空き缶が転がった。これまでの疲労と緊張が、大きな衝撃となって彼を襲っていた。

「お、おい山葉君、大丈夫か?」血相を変えて入間が引き返し、彼の肩を支える。「どうした? なにがあった?」

「……俺が……俺が間違っていたんです……」

 顔を上げることも出来ず、山葉は声を絞り出す。

「間違っていた? いったい何の話だ?」

「聖女はいた」喘ぐように息を吸い、頬の肉を噛み、「それはツォエじゃなかった。彼女が違うとわかったとき、俺は自分の記憶さえ疑った。だけど確かに聖女はいた。入間先生、空爆の生存者は二人じゃなかったんだ。もうひとりいた。彼女こそ、ツォエの本当の――」

 ぱしゅっ。

 遮ったのは小さな破裂音だった。一瞬、山葉はなにが起きたのか把握できなかった。引き伸ばされた時間感覚の中、細い青の軌跡が宙にほどけ、ゆっくりと入間が膝から崩れ落ちた。濡れた土に顔がぶつかる。

「先生……?」

 奇妙な静寂。世界から音が消えたようだ。入間の目は薄く開かれたままで、うつ伏せに横たわった身体はぴくりともしない。フレームの歪んだ眼鏡が、顔の横に転がっていた。

「し、しっかり……」と膝を着いたところで、ようやく彼は理解した。

 入間のこめかみからは、壊れた蛇口のように赤い液体が噴き出していた。差し伸べられた山葉の両手は、触れる直前に電撃が走ったかのようにびくりとして、動きを止めた。こめかみの筋肉は痙攣し、喉からは粘着性の空気に絡めとられた呻きが漏れた。

(死んだ……殺された……)

 日が翳った。

 強風が吹いた。

 木々がざわめいた。

 薄氷の張った水溜りを踏み抜く音が響いた。

「――久しぶりだな」

 固まっている山葉の背後、距離を置いてクロフスが立っていた。臙脂えんじ色のネクタイをしたグレイのスーツ姿、右手には加速装置を取り付けた自動拳銃、目もとには見慣れたサングラス、頬には冷ややかな笑み。かきあげたプラチナブロンドは風圧でいくつか解れ、額にかかっている。クロフスの更に後方では、暗緑色のヘリコプターがゆっくりと高度を落としている。ローターは三つ、小型双発機にも似た機体の両翼と後部で回転し、冷え始めた大気を切り裂いている。騒音がほとんど聞こえないのは、伸ばした鳥の翼のような特殊形状のローターブレードと振動開閉式フラップ、それから各ローター付近に搭載した高度なANCアクティブノイズコントローラーのおかげだ。

「これから忙しくなるな」とクロフスは紫煙立ち上る銃を振り、言った。「そう思わないか?」

 山葉は顔を上げない。虚ろな視線は入間の骸に釘付けだった。灰色の脳が血と混ざって濡れた砂に溶けていた。友人ではなかった、休日の過ごし方を尋ねたこともなかった。それでも彼にとって、入間は心許せる数少ない相手だった。震えながら俯く山葉をひとしきり見つめると、クロフスは革靴の底を地面にこすりつけ、

「遅かれ早かれだ、今にわかる」

 その言葉で、ようやく山葉は振り向いた。のろまな動きだった。激情の針は巡り巡って一回転し、嵐の前の静けさにも似た、ひどく不安な安定を指していた。一言、彼は言った。

「俺も、殺すのか」

 一瞬の間があった。クロフスは生白い手を額に当てると、笑い出した。

「どうしてそうなる?」

 目尻にかすかに皺が浮いた。染みひとつない肌はきれいに剃られていて、シェービングローションの香りが風に乗って漂った。

「優秀な戦士を失うのは人類にとっての損失だ。いいか、これからこの国は戦争に入る。長く、厳しい戦争だ。だが戦渦は種自身による淘汰だ。お前なら、淘汰を凌ぐ者としてふさわしい」

 山葉は言葉を失った。この男は狂っているのかと思った。

「……クロフス、統一革命戦線は要求条項を全て承諾したんだ。現政権は退陣する。戦争が起きるはずが――」

「奴らのドレス姿の淑女のような弱腰外交は、ずっと頭痛の種だったんだよ。《タブラ・ラサ》がこの状況を予測しなかったとでも思うか? 北部支局局長である、この俺が?」

 銃のグリップで肩をとんとんと叩き、クロフスはにやりとした。その笑みに、山葉は戦慄を覚える。

「戦争は起きる。これから、この街でテロが起きるんだ。数千人が死ぬ大規模なテロだ。統一革命戦線は尻尾を振って従順な犬を演じる傍ら、こちらの喉元に噛み付く機会を窺っていたわけだ。当然、交渉は決裂する。今度はあの大げさな名前のつく不活性な委員会なんて必要ない。即座に開戦し、地上侵攻が始まる」

「あなたは……」

 山葉は立ち上がった。意味がわからぬほど彼は馬鹿ではなかった。クロフスが語るのはつまり、飢餓を恐れたとき、人がどうやって凌いできたかということだった。家畜を作り、畑を耕した。食糧を自ら作ったのだ。そして今、世界最大級の猛獣は空腹だった。牙は尖り、爪は研がれ、涎を垂らして喘いでいた。食糧が必要だった。

 笑みを消すと、クロフスは爛熟した陽の影から手を差し出した。

「山葉、俺と来い」

「……なに?」

「とぼけるな。何のためにこの世界に入った? このタイミングであの番号をコールしたのはなぜだ? 望みを思い出せ。お前はほら穴の中の臆病者とは違う。これまで見下してきた連中を見返すんだ。人間を人間たらしめるのは唯一、力への意志だ。そしてお前にはそれがある。さあ、姉の名誉を取り戻すんだ」

 山葉は顔を歪め、奥歯を噛んだ。ふざけるな、先生を殺しておいて、よくもぬけぬけと……。そんな言葉を吐くはずだったのに、舌の筋肉はぴくぴくと痙攣するばかりだった。思考の器をなみなみと満たす欲求は、巨大な渦を描いていた。差し出された手は、抗いがたい引力を伴っていた。姉のため――それは正しかった。クロフスは山葉の胸中を完璧に理解していた。山葉は戦士として生き、勇敢に戦って死ぬという、どこか安っぽい筋書きを、陳腐な人生を、喉から手が出るほど欲していたのだ。そのためなら何だって捨てる覚悟があった。

 クロフスはそんな山葉の様子を満足気に眺め、ゆっくりと頷きかける。

「俺は……」

 呼吸が止まる。景色が止まる。音が止まる。

 数秒か、数十秒か。赤く輝く手を見つめた後だった。

 伸ばしかけた山葉の手は、ぎゅっと拳を作り、引っ込められた。

 彼はかぶりを振った。

「――俺は、臆病者でいい」

 予想外だったのだろう、クロフスは初めて体裁を崩した。サングラス越しに山葉をねめつけ、声を荒げた。

「貴様、本気で言ってるのか?」

 山葉は握った手を開いて、掌を眺めた。

「ああ」

 頷いた。

 空爆の夕暮れが全ての転換点だったような気がする。吉兆に終幕が、凶兆に序幕が降りた。あれから全てが変わってしまった。環境も、状況も、人々も、そして彼自身さえ。クロフスが知るのは三ヶ月前までの彼だった。そのころなら、たとえ嘘にまみれた戦争だと知っていても、この提案を受けたのかもしれない。一丁前に悩んでみせ、精一杯“人の道”を気にかける振りをしながら、最後には予定調和とばかりに頷く。なによりおぞましいことに、姉の存在を舌鋒に、言い訳の煉瓦をうず高く積み上げるのだ。それこそが彼女の名誉を汚しているのだとすれば、確かにそうだ、何だって捨てる覚悟があった。

 だけど、今は違った。

 ツォエがいた。彼女と過ごした、たった一日の出来事が彼を変えていた。

「俺は確かにあなたに会うつもりだった。だけど求めるものは違う。俺はただ、真実を知りたい。生き残った理由を、あの場所で起きたことには、いったい何の意味があったのかを。それを知ればこの逃避行が、本当の意味で終わると思った」

 山葉は空を見上げた。少しずつ、雪が降り始めていた。

「カチェートの言葉を信じるのは難しかった。正直を言うと、信じたくなかったんだ。だけど今、あなたと話してわかったよ。空爆は自演だった。《タブラ・ラサ》はこの国で、戦争を引き起こしたかった」

 クロフスは頬を引き攣らせていた。気に入らない、と呟く。

「……その目だ。戦士のものじゃない。そのくせ、服従する気など微塵もない。俺の一番嫌いな目つきだ。薄ら寒い理想を語りながら、本気でそれを信じ込んでいるような。……まさか、あのガキか? お前がそうなったのは、難民のガキ一匹のためなのか」

 なにやら奇妙な、張り詰めた間があった。次にクロフスが口を開いたとき、彼の顔から表情は消えていた。厚く塗りたくられた石膏の凄惨さがあった。

「残念だよ、山葉」

「や……やめろっ」

 クロフスがなにをするつもりか、山葉は即座に察知した。だが動き出すより速く、足元を銃弾が穿った。クロフスは銃を構え、山葉から目を離さない。そのまま背後に向け、声を張り上げる。

「――ウォルフレンッ」

 反対の手を上げ、人差し指と中指を突き出して振る。と、よく躾けられたペットのように慎ましくホバリングしていたヘリが、降下を開始した。風圧が雪と砂を巻き上げる。暗緑色の機体が吸い付くように着陸した先は二人が立つ遊歩道の三〇メートルほど向こう、駐車場だった。山葉はツォエの名を叫んだ。

 間を置かず、木々の影から彼女は現われた。しかし彼女の背後に張り付くのは、冗談のように巨大な人影だった。山葉のこめかみに汗の滴が伝う。

「……その子を離せ」

 髭を生やした迷彩服の大男に、ツォエは羽交い絞めにされていた。丸太のような腕に捕らえられ、彼女の首はいかにも頼りなく、今にも折れそうに映った。そんな華奢な少女と対照的なのは、短く刈り込んだ頭に髭面の、厳めしい顔つき。肌はよく日に焼けている。ウォルフレンと呼ばれた大男は、神話からそっくりそのまま彫り抜いた巨人の像だった。

 ツォエは抵抗しない。怯えきっていた。彼女は耳元でラッパを吹かれた羊だった。

「大丈夫だツォエ、いま助ける。なにも心配しなくていい」

「……あぅ……や、山葉さ……」

 彼の呼びかけに、ツォエが僅かに首を動かす。その途端、彼女の表情が虚無の波にさらわれた。一時停止した画面のように、動かない。彼女の視線は、なにかに固定されていた。山葉が失態に気付いたときには遅かった。

「駄目だ、見るなっ。いいか、目を瞑って俺の声だけ――」

 どさっ、と《変な生き物》が地面に落ちる。

「きゃああぁぁっっ」ツォエは両手で頭を押さえた。限界まで押し開いた目は、入間の死体に釘付けになっていた。「いやあああああああぁぁっっっ」

 あたりをつんざく悲鳴を聞きながら、山葉の冷静な部分はこの状況をいかに最大限に活用できるかを素早く計算していた。よく通る子供の叫び声だ。人が近くにいれば、気付いてくれるかもしれない……。しかしすぐに甘い考えなのだと知ることになる。クロフスが片眉を吊り上げてウォルフレンを顎でしゃくると、巨人はほんの一瞬だけ相好を崩した。そして、躊躇いなくツォエの首に回した腕に力を込めた。

 たちまち、悲鳴が途切れる。

「なっ……」

 相当な力で締めているのは、ツォエの青白かった顔がみるみる赤く染まっていくのでわかった。生存本能が弱弱しくウォルフレンの迷彩服の袖を引っ掻いた。口が空気を求め、ぱくぱくと動いた。ツォエの股の間からちょろちょろと液体が流れた。腿を、膝を、ふくらはぎを伝う。それはウォルフレンの靴をわずかに濡らした。おうっ、と驚いた声を上げると、彼は汚いものにそうするように、少女を乱暴に押し出した。足がもつれ、彼女は山葉の目の前の水溜りに転んだ。彼は駆け寄って抱き起こした。

「ツォエッ、しっかりしろ」

「がっ、げほっ、げほっ、はぁ……」

 彼女は激しく咳き込みながら、ぐったりと頭を垂れた。口の端から涎が垂れ、目の端から涙が流れた。チェック模様のスカートからダッフルコート、顔や髪に至るまで、濡れて泥だらけになっていた。

「お前らに今更」とクロフスは言った。「選択肢があるとでも思ったか?」

 汗ばんだ山葉の額に、血管の筋が浮かび上がった。銃口が狙いを定めているのにも関わらず、彼はナイフに手をかけた。クロフスは口が裂けんばかりの笑みをもって迎え入れる。とはいえ、勝敗のわかりきった立ち合いは長く続かなかった。

「……待て」

 とウォルフレンが咎めるような声を出したのだ。迷彩服の袖をまくり、腕に嵌めたバンド状の端末画面を、こつこつと指先で叩いている。

 クロフスは少しの間、無反応だった。片膝立ちでツォエを抱く山葉を眺めていた。だが撃つ気はないようだった。ふぅっと息を吐くと銃口を下ろす。ウォルフレンを振り返って頷きかけると、山葉に向かい銃をぶらぶらと振った。

「ヘリに乗れ。真実を知りたいなら教えてやるさ」

「……どこに連れて行く気だ?」

 クロフスは泥で汚れたツォエの顔を見下ろすと、言った。

「治療が必要なんだろう?」



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