20
分厚いライダースジャケットを着込んだ五人組のいかつい男たちが螺旋階段から降りてきたのは酒を新たに注文するためだったのだが、それはちょうどクーリロワがレストルームに向かおうと、カウンター前を横切ったときでもあった。宣戦布告など、彼らにとって祝賀式典と変わらない。そして式典は喉越しのさっぱりしたビールで乾杯するべきだし、つまみとして花のかんばせ、女がいれば尚のこと式の重要性は増すのだ。であるから彼らが、堅苦しい表情でそそくさと歩く美女に惹かれたのは、ごく当然の成り行きであった。
「ちょっと待てよ、姉ちゃん」
彼らからすれば、クーリロワはつんと澄ました高慢ちきな女のひとりのはずだった。美貌を鼻にかけ、最初はお高くとまって応じるものの――まるで、あんたらみたいな男なんてよく知ってるし、ちっとも怖くないわ、と言うかのように――、だがやがて、彼らが“芯から気合の入った”男たちであると知るにつれ、強がりは消し飛び、怯えた様子を見せるようになるのだ。それが彼らの楽しみ方だったし、天体運行が万年の緻密性を守るように、これからもそうでなければいけないのだった。
「……なにか?」
にもかかわらず、彼女の醒め切った反応――その刺すような視線は、一瞬、酔いを醒ますほど、彼らの心に深く抉り込んだ。まるで本当に、“気合の入った”男を見慣れているようであり、更に信じられないことに、そのことを何とも思っていないようなのだ。いったい何だこの女は、気に入らない。俺たちが誰かわかっていないのか。そうして仲間に先んじて、ずいっと前に出たのは彼らのリーダー格でもある、長髪をドレッドにした男だった。グローブのように太い指には髑髏を象ったアクセサリが嵌められ、大げさに開いた胸元からは隆々とした筋肉と濃い胸毛が見え隠れしていた。彼はやおら口を開く。
「大した用じゃないんだが」
「でしたら――」
「ただな」と、通り過ぎようとしたクーリロワの進路を塞ぐ。「姉ちゃんも俺らと遊びたいんじゃないかと思ってな」
どうしようもなく会話がきな臭い方向に舵を切り始めたことを知り、クーリロワの表情が険しくなる。「急いでいるんです」
「なるほど。おい、聞いたか、急いでいるんだってよ」
肩越しに仲間を振り返り、ドレッドは同じ言葉を伝える。すると、その台詞からどんな諧謔を受信したというのか、仲間は息を吹き返したかのように笑い出した。それを見て、ドレッドもにやりと口元を歪ませる。そうだ、それでいい。これがいつものペースなのだ。くそ生意気な女ひとりに乱されては、たまらない。こういう物分りの悪い女には一度、がつんと身のほどを知らせてやらねばならないのだ。そういったことは男の義務であるのに、実行できるほど“気合の入った”奴らは最近とみに少なくなった。
「通しなさい」
鋭さを増した視線の矢羽。彼は飄々と受け流し、離れた奥の席へと続く曲がり角を顎でしゃくってみせる。「上から見てたぜ。そういえば、入ってくるとき男と一緒だったよな? あれ、彼氏か?」
彼は勘が利く。違うことは見てわかるのだ。そもそも、あんな覇気のない軟弱な野郎なんて、いい女にはまったく似合わない。案の定、女は違うと答える。そしてその反応で、彼は確信を抱いた。どれだけ周りから大事にされてきたのか知らないが、この女はこういったときのあしらい方について、まるで無知らしい。
「おや、なんだそうなのか。じゃあ問題ないな。いやあ、彼氏さんだったら怒られちまうからな。俺らもほら、常識くらいわきまえているからよ、遠慮するつもりだったんだが。でもそうじゃないんなら、いいよな?」
対応を誤ったことに気付き、クーリロワは顔を歪める。結局どう答えたって同じなんだが、と彼は思いつつ、
「ほら、一緒に飲もうぜ。金ならある、男も酒もより取り見取りだ、な、いいだろ?」
前回、同じ質問に対し、恋人と一緒だとのたまった女には、せっかくだからということで、その彼氏にも同席してもらった。まったくあれは傑作だった。こっちは楽しく仲良く飲もうとしているだけなのに、顔を真っ青にして、一向に減らないワンパイントのビールジョッキ片手に、終始俯いていた。おまけにトイレに行かせてやったら、そのまま戻らないときた。ちょっと所持金が少ないから財布を借りて、ついでにお互いをよくわかりあえるよう住所と仕事先を調べて、浮き世の労苦を語り合っただけだというのに。
クーリロワは仲裁を求めるように、背後、カウンター内の白髪の店主を振り返る。だが店主は完全に気圧されているようで、カクテルグラスを握ったままおろおろとするばかりだ。おい姉ちゃん、とドレッドは言った。
「どこ見てんだよ、ずいぶんな対応だな。目の前にいる俺たちのお誘いは無視か? そりゃちょっと筋が通らねぇんじゃねぇのか、ああ?」
最後の「ああ?」には凄みを利かせるのがポイントだ。もちろん“筋”とはなにか聞かれても、彼にだってわからない。だがこれは、論理を補強する絆創膏のように、どこにでもくっつけられる便利な言葉なのだ。さあどんな反応を見せるのか。これまで彼の凄みに萎縮しなかった女などいない。泣くか、俯くか、泣いて俯くか。あるいは、と彼は思う。大声を上げて例の軟弱男に知らせ、助けを求めるか。そうなったらそうなったでまた一興だろう。どんな関係だか知らないが、格好つけようといきがってきたら、袋叩きにしてやればいい。女の前でそういった男を懲らしめるのは、倒錯的な喜びがある。それとも一対一でぶちのめして、自分の“タフさ”を仲間に知らしめてやろうか。楽しみ方は無限大、ときどき、自分のあまりに豊かな創造力に、空恐ろしくなることがある。
「あなた方、いい加減にしなさいよ」
「……ああ?」
恐れ多くも邪魔に入ったのは、別席の、保存に失敗したミイラみたいな老夫婦の給仕から戻った、赤毛のウェイトレスだった。彼は舌打ちした。口うるさい感じの女は苦手なのだ。顔は悪くないが、背が低いことと肉感的すぎるのも好みではなかった。
「その人、嫌がっているでしょう。見てわからないの」
最悪だ、考え付く限り最悪の決まり文句だ。どこにカンニングペーパーがあるのか、調べてやりたくなる。
「言いがかりはよせよ。俺らは楽しくやってるだけさ。それともなにか、このパブは気に入った女を口説くのも禁止なのか?」背後の仲間にちらと目配せして苦笑した後、わざとらしく声を張り上げる。「おいマスター、何とか言ってやってくれよ。人の色恋沙汰に手を出すなってさ。ここの接客マニュアルはどうなってんだ?」
店主は目玉だけを動かすが、なにも言わない。痩せ気味の体格とあいまって、まるでひび割れた蝋人形だ。
「……警察呼ぶわよ」ウェイトレスが言った。
まるで、それが拳銃並みの威力を持つ言葉であると、信じているようだった。彼は肩をすくめてもう一度振り返る。すると、首にタトゥーを入れた、仲間のひとりが言った。
「呼びたきゃ呼べよ、でもこんな辺鄙なとこまで、きっと来ないぜ。賭けてもいいけどよ、今ならあちこちで、もっと凶悪な事件が起きてるはずだしな。だいたい、何て言って呼ぶんだよ? もしもし、うちのお店で綺麗なお姉さんが口説かれているんです、ってか?」
それを聞くとウェイトレスは押し黙った。彼らはげらげらと笑った。何人かは首まで赤く、すでに、かなりの量のビールを飲んでいるのだった。
がつん、とドレッドの顎が跳ね上がり、もんどりうって転んだのはそんなタイミングだった。笑い声が引き潮のように消えた。ドレッドはスツールにしがみついて、よろよろと立ち上がった。顎を押さえ、顔をしかめた。
「いってぇ……何だてめぇ」
「彼氏だよ。なんか文句あるか」
そう言って拳を握りながらクーリロワとウェイトレスの前に出たのは、先ほどウィンクをした、短髪の男だった。上着を脱ぎ、白のタンクトップ一枚になっている。太腿かと見紛うほどの、二の腕の筋肉。友人らしいもう一人の男も、Tシャツ姿で威嚇するようにファイティングポーズをとっている。両者とも格闘技をやっているのは、体つきからも明らかだった。
「“彼氏さん”がいれば遠慮するんだろ? お前らみたいなクズ相手でも、素人を殴るのは気が引けるんだ。ほら、わかったらとっとと失せろ」
ぷっ、とドレッドは血の混じった唾を吐いた。
「舐めやがって。絶対許さねぇ」
前に出よういきりたった仲間を押しのけ、体格にものを言わせて掴みかかろうとする。しかし彼は所詮素人で、この上なく不用意だった。再びがら空きの顔面とみぞおちを殴打され、その場にうずくまる。
「おごぅ……、ち、ちくしょう……」
「だから言っただろうが。百回やっても同じだ、馬鹿野郎」
かぁっと頭に血が上る。彼は再び立ち上がろうと近くのテーブルにしがみつくが、派手な音を立てて転んだ。膝が笑っていた。その様子を見た仲間が怯むのを背中で感じる。なにびびってやがる、いつもの“気合い”はどうなった、どうして誰も行こうとしない? 目の前では、タンクトップが背を向け、見せ付けるように女の肩を抱き、なにか囁いている。白馬の王子気取りなのだ。自分はその安っぽい演劇のダシにされたのだ。そう思った途端、上りきった血がすとんと落ちて、頭の中には暗い空洞だけが残った。彼が十四歳のとき、数学の教師を殺しかけて初めて逮捕されたときも、同じ空洞があった。以来、たびたび現われるそれはあまりに巨大で、彼自身、縁がどこにあるのか、底がどこに続いているのか想像できないほどであった。彼が我に返り、自分がなにをしているのか気付いたのは、一発の銃弾が青の軌跡を描き、天井に向けて放たれてからだった。
巨大なシャンデリアが大理石の床で砕けるような、強烈な衝撃音。
しん、と店内が静寂に包まれる。
彼は笑った。懐から取り出したそれを強く握る。正義の時間だ、と思った。下劣なロマンスは幕を閉じた。これより凡人に、身の程を知らしめてやらなければならない。
「俺を見ろよ」
袖で鼻血を拭い、そろそろと立ち上がり、言った。振り返ったタンクトップは度肝を抜かれている。クーリロワは一瞬目を見開き、次いで表情を消したが、彼はそれを、恐怖のためだと考えた。硝煙昇る銃口の狙いを、真上から真正面に戻す。銃身上部に取り付けられたメタリックな光沢を放つ流線型のフォルム、側部からは冷熱放散パイプと給電コードが細く短く絡み合い、U字を描いて部品を接続している。その脇では発電完了を示すランプがちかちかとグリーンに光っている。
「ほらどうした? やんねぇのかよ?」
「それは……卑怯、だろ」
「卑怯? なに言ってんだ、それはてめぇじゃねぇか。こっちはただの素人だぜ? むしろこれで対等だろう。この“PBE”でよ」
ドレッドは引き金を引く振りをしながら距離を詰める。
「わっ、わあっ、や、やめ――」
「うるせぇっ」と戦意を失ったタンクトップを銃のグリップで殴り倒す。呻き声を上げ転がったところに、カウンターにあった飲みかけの、サイダーかなにか、まるで“気合の入ってない”飲み物をぶっかけてやる。そしてTシャツ男にも銃を向け、
「まさか、あんたも文句ないよな」
「――俺らが悪かった。勘弁してくれ」
抵抗はない。両手を上げ、神妙な顔つきで言う。ふん、と彼は鼻で笑う。鍛えた筋肉もしょせんは飾りなのだ。まるでなっちゃいない。未だ呆然としたままの仲間を振り返る。
「お前らはどう思う? この落とし前はどう払ってもらおうか? やっぱり俺と同じくらい痛い目を見てもらわないと……」
言葉の途中で、頬に衝撃が走った。乾いた音が響いた。
彼は目を見開いた。クーリロワが平手で張ったのだ。信じられなかった。爆発寸前のエンジンのように、全身が震えた。おい、と仲間が焦った声を出す。きっと彼が激情に身を任せ、撃ち殺すと思ったのだろう。しかし実際は逆だった。激情は激情でも、それは彼がこれまで感じたことがないほどの、強烈な、もはや愛情と言っても差し支えない、身震いするほどの驚嘆だった。ここまで“気合の入った”奴は、男だってなかなかいない。彼の仲間だって、銃を目の前にしてこんな行動は取れないだろう。事実、ぶちのめしてやったタンクトップ野郎だって、濡れ鼠のようにぴーぴー泣いた。
とろり。再び垂れた鼻血を、ライダースジャケットの袖で拭う。とんだ上玉だ、と思った。この女だけは、なにが何でも自分のものにしてやりたい。他人に対してそんな感情を抱いたのは、生まれて初めてだった。彼は知った。空洞の縁は、炎の滝が流れていた。空洞の底は、真っ赤に焼けた石炭が敷き詰められていた。それらの火種はみな同じ――燃やし尽くすほどの情愛だったのだ。
「名前を教えてくれよ」猫撫で声で、彼は言った。言いながら、銃口を向けた。「これから俺の女になるんだ」
クーリロワは答えなかった。じっと銃口を睨み返すその表情は、ひどく美しく映った。
「言えよ、死にたいのか? それともまさか、まだこれがおもちゃだとは思ってないよな? 女ってやつは芸術品に疎いからな」
クーリロワは首を振った。彼はそれを、知らないという意味だと受け取った。なるほど、と思った。これは自分が、愛すべき、しかし無教養な仲間から一線を画し、純然たる知性を備えた男だと伝える、いいチャンスかもしれない。
「そうか。だったら特別に教えてやるよ、いいか、これはESGとかいうちゃちなもんじゃねぇ。つい昨日、知り合いから一丁だけ横流ししてもらった特殊な銃さ。値は張ったがそれに見合う威力もある。ほら、これが見えるか?」と銃身の上部に被せるように接続された流線型のフレームを撫で、装置左側、銀色の埋め込み型ダイヤルを指先で弾く。「このダイヤルで出力を調整してだな、バレルに取り付けた装置本体で弾を加速させるんだ。女にはちょっと難しいだろうけどな、まぁ、プラズマの力を使うわけだ。“PBE”って名前のアタッチメントなんだが――」
「PBAです」
「あ……?」
「だから、PBEではなくてPBA。Pはプラズマ、Bはバレット、Aはアクセラレータ、つまり加速器です」
「なっ……なに適当なことをっ」顔が羞恥に染まるのが感じられた。「わかってんのかよ、こんなんで撃たれたらあんたの顔なんて消し飛ぶんだぜ?」
クーリロワは頷いた。「……ええ、よく知ってます」
彼は歯軋りした。それが気に入ったはずなのに、今は動じないクーリロワの表情がたまらなく憎たらしかった。さかりついた男のあしらい方は知らないくせに、土壇場の度胸は“くそ”がつくほどだ。どうやりあえばいいかわからなかった。顔を歪めて彼は言う。
「……姉ちゃん、ニュースは知ってるだろ? もうすぐ戦争だぜ。戦争じゃどんな殺しも許される。だったらかわいい女の子と“ちょっと”遊ぶのは、お袋の料理にケチをつけるぐらいたわいない罪だ、そうだろ? だけどな、そんな調子じゃ俺ら、遊びじゃ済まなくなるぜ」
ふっ、とクーリロワは笑った。
「なにがおかしいっ」
「おかしいですよ。とてもおかしくて、笑えます。――どんな殺しも許される? いつの時代の戦争ですか。馬鹿馬鹿しい。あなたはLOW(戦時国際法)もROE(交戦規定)も知らないのですか? それとも、大航海時代の世界から彷徨い出た亡霊なんですか? あるいはそれよりもっと前、石器と棍棒で戦う世界から? それ、持っているのは本当に“PBE”ですか? 黒曜石の鏃でなく?」
「おっ、おまえ――」
「それに、あなたの下卑たちっちゃな遊びと現実の戦争、いったいどんな因果関係があるのですか? 自分は前線に出るわけでもなく、羽目を外したいだけ、骨付き肉にしゃぶりつく犬みたいに浅ましく、それでいて一丁前に動機付けを欲っして、他人の戦いを利用し、さも自分が被害者で、被害者らしく振舞う権利があると思ってる。こんなの、滑稽ですよ。加害者が被害者ぶるなんて、滑稽以外の何なんですか。これから、七〇時間ほどかしら? 開戦して戦時戒厳令に移行するまでの間、嬉々として治安を乱す人々は、おそらくあなたと同じ考えなのでしょうね。下衆どもに自然発生する共通認識――あら、今気付きましたが、これが全体意識なんでしょうか……? 不思議です、ね?」
ドレッドの首に、子供の指ほどの太さの血管が、もりもりと浮かび上がる。堪忍袋の緒が切れかけていた。しかしすんでのところ、繊維一本残して、まだ繋がっているのだった。それというのも、かすかな違和感のためだった。はっきりとはわからない、しかしなにか変だと感じていた。この女が馬鹿じゃないのは――それどころか認めがたいことに、彼並に知恵が利くらしいことは――すでに明らかだった。だったらどうして挑発するみたいに、急にべらべらと喋り出す? 感情の昂ぶりを口数で誤魔化すタイプか? いや、違う。どちらかというと、それは、あの口やかましそうなウェイトレスでは――
はっとした。
「おいっ、赤毛のウェイトレスはどこに行った?」
仲間に叫ぶ。クーリロワから目を離し、この一連の騒動のさなか、ドレッドは初めて、本当に冷静になったかのように周囲を見渡した。ウェイトレスは忽然と消えていた。タンクトップの脇でおろおろしていたはずなのに、いなくなっている。仲間のひとり、鼻ピアスが叫んだのは、それと時を同じくしてだった。
「なっ、何だこいつ、いつの間にっ」
ドレッドは振り返った。鼻頭に炭酸性の汗がぶわっと浮いた。視線の先にいたのは、柱の陰から今まさに飛び出さんとする、黒のミリタリージャケットを着た男だった。顔に血の気のない、軟弱野郎。そう、軟弱野郎のはずなのだ。なのに、飛び込んでくるその眼に射抜かれた瞬間、背筋に怖気が走った。男が左手に握るのは、湾曲した大きなグリップが付いた、曇り色のナイフ。ちくしょう、とドレッドは理解した。この女は、自分に注意を引き付けている間にウェイトレスを呼びに行かせていたのだ。そして卑怯にも、物陰から彼を襲わせる腹積もりだったのだ。
しかし、一瞬の動揺の後、彼が確信したのは勝利であった。軟弱野郎は距離を詰めきれていない。同じことを悟ったのだろう、その顔には痛恨の色が浮かんでいる。惜しい、非常に惜しい。だが、たった一メートル、彼には届かない。それはいみじくも知性の勝利を意味するのだ。性悪女の企みを、すんでのところで察したという、その気付きの力。自分でも気付かぬうちに、彼の口元には悪逆な笑みが浮かんでいた。撃ってやる。俺はやってやる。なに、殺しはしない。いくら“PBE”の威力が高いと言っても、急所を狙わなければ単なる貫通傷で済むだろう。運が悪ければ死ぬかもしれないが、ふん、知ったことか。そもそもこっちは、ちょっと銃を振り回して遊んでいただけだ。そこに凶器を持って踊り込んでくるというのなら、どうやり返したって、正当防衛にあたるんじゃないのか?
しかし引き金に力が込められる寸前、彼の注意はまたも逸らされるのだった。
バタン。
大きな音ではなかった。錆びた蝶番で支えられたドアが、同じく錆びて油の漏れたドアクローザによって、時間差で閉ざされる音。ありふれたバタン。
それでもドレッドには、実は山葉こそが囮で、別の接敵――本命がいるのではないかと想像させるのに充分だった。そこにいたほぼ全員の視線が、トイレに繋がる通路へと、面白いように引き寄せられる。彼らが見たのは少女だった――奇妙なぬいぐるみを片腕に、自分たちを陶然と見返す。そして、たった一メートル。足りなかった距離はこうして埋まった。
「こ、この野っ――」
ドレッドが鼻を膨らませて振り返るも、もう遅い。山葉はすでにナイフの射程に入っていた。使い方のコツはわかっていた。すでに頭の中でトレースしていた動きを、同じような精確さを持って再度、実行する。
なみなみとワインを満たしたグラスが接吻する、慎ましやかな反響音。刃の根元、細やかな波線を描くセレーションがPBAのバレルにめり込んだ。凶暴な振動がその隙間を一息で食い破った。かくしてデジャヴのごとく銃身は二分され、宙に舞い、ドレッドは呆けた顔で、「あ?」と呟き、敗北を認識する猶予すら与えられず、山葉はその突き出た腹に渾身の回し蹴りを叩き込んだ。
胃が破裂した、とドレッドは思った。呼吸はおろか、もはや悲鳴さえ出ない、黄色の内容物を撒き散らし、腹を両手で押さえながら、カウンターに突っ伏した。激烈な痛みに、眼球がぐるぐると踊った。山葉はグリップ上部の窪みに指を当て、片手でナイフを回転させた。そうして一瞬の動作で逆手に持つと、勢いもそのままに、カウンターの緋色の合板に突き立てた。深い鈍色のブレードが蜂の羽音のような音を立て、ドレッドの髪束をいくつか切断し、化粧板を削った。
自分を見下ろす視線と目が合って、ようやくドレッドは気付くのだった。この男は一般人じゃない。軟弱男と侮り、見抜けなかった自分が愚かだったのだ。この時代、人殺しの訓練を受けたことがある人種に喧嘩を売るなんて、馬鹿のやることだったのだ。だが、ここまでできるものなんて、誰が想像するのだろう? こんな化け物じみた動きを平然とこなすなんて。その驚きを象徴するかのように、彼の踊る眼球が最後に捉えたのは、口に手を当て、暗がりの猫のように目を真ん丸に見開いて山葉を見つめるウェイトレスだった。なんだ、こんな近くにいたのか――そう思った後、彼はがっくりとうな垂れた。
それから間もなくして、四台のバイクが負け鬨の証、マフラーを外したエンジン音を高らかに響かせた。
結局、少年は目を覚まさなかった。
パブを出ると、綿毛のような、大粒の雪が降り始めていた。黄砂の入り混じった雪。豪風に巻かれ、空中で燃えるような蜂蜜色の筆を躍らせていた。助手席のドアの前に立ち、山葉は混合林に縁取られた空をぐるっと仰いだ。入間から聞いた予報どおり、吹雪になりそうだと思った。後ろではツォエが《変な生き物》を胸に抱き、同じように空を見上げていた。やはり、店内の騒動がショックだったのだろう。レストルームから戻ってきてからの彼女は静かだった。ダッフルコートを着ているが、心ここにあらずといった体で、前のボタンははだけていた。
「――熱が」
彼の横、後部座席に身を乗り入れていたクーリロワが、誰ともなく呟いた。彼女はシートに横たえた少年の頬に手を当てていた。発熱は、山葉もパブに入ったときに気付いたことだ。おそらく怪我と疲労のせいだろう――彼はそう答えたが、クーリロワは納得しないようだった。しかし山葉からすれば、先ほどの痙攣も単なる杞憂だった。熱による神経と筋肉の誤作動とか、そういったものに違いなかった。少年が体内組織に人工物を取り入れていることを考えれば、さほど不思議な話ではない。加えて、顎関節部はぷっくらと膨れ、きつく締める力が働いている。攻撃性の発露ではない。冷静になってよく考えれば、それこそ鎮静剤が深く作用している証拠なのだ。無意識に歯を噛み締めてしまう副作用を持つ向精神薬の存在を、山葉は聞いたことがある。
「つまりなにが言いたいんです? まさか、まだ拘束は必要ないと?」
その声にどこか非難がましいものを感じて、山葉は一瞬、答えるのをためらった。すると、すぅっとクーリロワが目を細めた。彼女は鋭かった。自分でなく、自分の背後に山葉の視線が向けられていることに気付いたのだ。そして、振り返りもせず、
「ツォエに同情しましたか? 彼女の前で“お母さん”を縛りたくない――そんな腑抜けたことを考えているんですか?」
かちんときた。そんな言い方はないだろう、と山葉は言い返した。わかり始めていたと思っていたのに、急にまた、クーリロワのことがわからなくなるようだった。彼女の本心が、かつてのように凍った仮面に閉ざされ、読めなくなるようだった。拘束の必要性は山葉だって充分承知している。リスクヘッジは必要だ。だがツォエがそれを望まないのは明らかだ。だからこそ、クーリロワの態度が理解できないのだ。聖女の意に反するなんて、それこそ彼女がもっとも忌むべき行動ではないのか? それはまるで、ツォエが狂った聖女であると知った途端、彼女に価値を見出せなくなったかのようだった。もしそうだとしたら、と山葉は思った。
(ツォエが何らかの方法で聖女の価値を証明すれば、きっとクーリロワだって……)
そんなことを考えたときだった。彼の思考を中断したのは、ツォエの一言、ぽつりとした呟きだった。
「……燃えてる」
彼女はそう言った。山葉とクーリロワは口論を止め、同じタイミングで振り返った。ツォエは背を向けたままだった。誰かに宛てた言葉ではないのだった。まるで、見えたものをそのまま口にしたようだった。眉を寄せ、クーリロワが聞く。
「燃えてる? 火事ですか? いったいどこが……」
しかし二人には、燃える景色は見つけられない。パブを含む建物は雪を被り始め、火の気はもとより煙の一筋さえない。一帯を取り囲む広葉樹は枯れ、針葉樹は屹立し、風に揺れ、強引なリズムで中空を犯している。森林火災の兆候は見られなかった。給油所も、駐車場も、道路も――どこにも炎は探せなかった。山葉の背筋に、冷たいものが走った。
「空が、燃えてる」
ツォエが再び言った瞬間、今度こそ山葉は、頭を殴られたような衝撃を覚えた。これだ、と思った。これが聖女の予言なのだ。彼には、はっきりと感じられた。ツォエはこの地が戦火に飲み込まれる光景を見ているのだ。火の玉が炸裂し、人々が藁のように焼き尽くされ、壁に張り付く黒い影に変わる光景。想像するだけで呼吸は逸り、唇が震えた。脳裏に、忌まわしい火の海の記憶がよみがえった。息が苦しい。窒息するようで、いても立ってもいられず、ツォエに詰め寄ろうとする。問いただそうとする。
しかし、すんでのところで彼を止めたのはクーリロワだった。彼女の目。ツォエを見つめる、その冷たい目つき。最悪の事態が起こるかもしれない――その可能性を知ったと言うのに、まるで動じた様子がない。彼が見つめていることに気付くと、彼女は視線を伏せた。そして言った。
「……乗ってください。先を、急ぎましょう」
その後、クーリロワはもう、少年を拘束することについては語らなかった。車を運転しながら、ひとりきりの思考に沈んでいた。そんな彼女を横目で眺めながら、山葉は暗い感情が胸裏に渦巻くのを感じていた。感情は、こう言っていた。
本当に彼女は、俺の記憶を信じてくれているのだろうか?
本当に彼女は、ツォエの聖性を信じているのだろうか?
本当に俺は、彼女を信頼して――
その先を考えたくなくて、山葉は目を閉じた。




