19
自分のことはクーリロワではなくてクロワと呼んでくれて構わない――それが眠りに落ちる前、山葉が聞いた言葉だった。やがて奇妙な夢の狭間、なにかに躓く夢を見て目覚めたとき、彼は自分が、運転中の彼女に膝枕をさせて眠っていることに気付いた。
顔の左にはステアリング、右には石鹸に似た香りがする引き締まった腹、そして上にはブラウスを突き上げる豊満な胸があり、また、その間には流麗なラインを描く顎があった。
「眠ってなさい」
狼狽して起き上がろうとする山葉に彼女はそう言った。言いながらも、広葉樹と針葉樹の混合林に挟まれた一本道からは目を離さない。
「恥ずかしいと感じているのでしたら、私は別に気にしません」
残念ながら山葉はそれほど面の皮は厚くなかった。羞恥にもごもごと謝罪の言葉を呟きながら顔を上げ、助手席のシートに戻った。眠っているうちに鎮痛剤が分解されたのだろうか、倦怠感は去っていた。その代わり、四肢は疲労の枷を嵌められて、肉体は痛覚の槍を刺し込まれていた。胸焼けもしていて、車に酔ったような感じだ。
見ると、ぶるぶると指先が震えていた。ぎゅっと握り込む。
「この先にパブがあります。一度休憩しましょう」
山葉の様子を横目で見ながら、クーリロワは言った。
「軽い渋滞に出くわしましたが、懸念していた幹線道路のバイパスは無事通れました。到着まで後一時間半といったところです。気を張り通しで、私も疲れました。それに、一応ラジオと携帯電話のテレビは両方チェックしてあります。私たちのことはニュースになっていません。少しくらい休んでも問題ないでしょう」
そんな言い方をしながらも、気を遣っていることは明らかだった。彼はかぶりを振った。
「それだってリスクはある。今は、早く到着することの方が……」
しかし喋っている途中で、山葉の目はバックミラーに留まった。二人の会話で目を覚ましたのか、ツォエも顔を起こしていた。瞼を擦っている。無言だが、疲労の色が見えた。しかし少し眺めて、違うようだと気付く。
ツォエはどこか気ぜわしげで、しきりに身体を動かしていた。タイツを履いた太腿が擦れるたび、ワンピースの裾が揺れて、樟脳と消毒液の混じった匂いを振りまいた。まるで、なにかを我慢しているようだ。
すぐにぴんときた。
「……少し、喉が渇いたな」
「ええ」
「だけど」と山葉は、酸性雨に萎れた陰気な雑林を見渡した。「こんな峠のど真ん中にパブか?」
「団体の旅行者や、長距離輸送車の運転手相手でしょう」とクーリロワは答える。「パブといっても基本は喫茶店で、アルコールはおまけみたいなものだと思います。ナビゲーションを見る限り、ここは給油スタンドと併設していて、バスのサービスエリアにもなっているみたいですし。やっているといいんですが」
五分ほどそのまま走り続けると、彼女が言った通り、雑林をV字型に広く切り開いて舗装した、無人の給油施設があった。周囲は駐車場になっていて、バス専用のラインが引かれている一画もある。奥の方にはこけら葺の建物がある。建物は石竹色、横長に連なった造りをしていて、それぞれの入り口が三つ、離れて並んでいる。左右二つのドアと窓にはテナント募集の張り紙がしてあり、もう長いことそのままのようだ。幾つかの窓ガラスには遠目からでもわかる、白いひびが入っていた。
ナビゲーションが示したパブというのは、唯一営業している真ん中の店のことらしい。店名を描いたニキシー管が、柔らかく光っている。バイクが五台ほど、走光性の蛾のように、その付近に密集して停まっていた。
柄のいい車体じゃないな、と山葉は思った。塗装は原色を派手に用いていて、フレームやマフラーも改造されていた。赤を基調としたそのうちの一台は、加速するとまるで火の玉みたいになるのだろう。そうやって己の器から溢れ出したリビドーで風景を強姦する輩が、果たして開戦を控えて粛然としていられるものなのか、山葉には疑問だった。
クーリロワは適当な場所に車を停めると、エンジンを切った。
「さて、いいですか?」
「少年はどうするつもりだ?」
クーリロワはちらりと後ろを振り返り、
「私は置いていった方がいいと思います。車も他に数台だけですし、スモークガラスですから後部座席は外からも見えません。連れて行って誰かの記憶に残るよりはいいでしょう。それに、万が一目を覚ましたときを考えて、もうひとつの紙袋にはハンドサックと拘束錠が――」
「お母さんも行くわ」
ツォエが言った。クーリロワはぴたりと動きを止めた。
「え?」
「置いて行くのは駄目よ。お母さんも一緒に行くの」
「今、何て……?」
まるでツォエが言ったことが信じられないように、それは山葉に向けた問いだった。
しかし、またも答えたのはツォエだった。顔を乗り出し、背後からクーリロワを見つめ、
「だから、お母さんは置いていかないわ。ひとりは駄目」
クーリロワの反応は見ものだった。目を大きく剥き、痴呆の如く口をぽかんと開け、背後から聞こえる声がまるで冥府の跫音であるかのように、おそるおそる振り返った。そして、今度こそ声の主が、山葉でも少年でもはたまた《変な生き物》でもないことを知ると、わなわなと唇を震わせた。
しまった、と山葉が気付いたのはクーリロワが呻き声と共に車外へ降りてからだった。思えばこれが、ツォエが彼女の前で口を開いた初めての瞬間だった。山葉は一度も彼女に、ツォエの妄想について説明していなかった。崇拝の対象が狂ってしまったのだと知って、打ちのめされないはずがなかった。
「おいっ、クーリロワ」
どこかへ走り去ってしまうのではないか――そんな恐怖を覚え、慌てて山葉も車を降りる。しかし彼女は十メートルほど離れた駐車スペースの真ん中で足を止めると、自分の両腕をかき抱いた。よほどショックだったのだろう、傍目にもわかるほど狼狽している。山葉は彼女の背後に立つと、躊躇いがちに、肩に手を乗せた。
「……教えてください。いったい、どうなっているんですか」
《氷の女王》――彼女の仮面は砕け散っていた。日暮れどきの迷子のようなその表情に、どっと苦い後悔が押し寄せた。
「すまない、もっと早く言うべきだった。変な話だとは思うが……ツォエは、少年を自分の母親だと信じているんだ。どういう理屈かはわからない。ただ、そう信じてしまったんだ。生まれ変わったと言っていた。だけど、あの子の前で君に説明するわけにもいかなくて……」
そこで彼は緩慢に首を振った。違う、俺はこの話に触れたくなかっただけだ。できる限り、現実から目を背けていたかったんだ。彼は深く息をついた。
「すまない、これは言い訳だな。いくらでも機会は作れたんだ。俺が悪かった、謝罪するよ」
「いえ、私は……」
そこで、「ねぇ」と声がした。二人が振り返ると、ツォエが後部ドアを開け、半身を外に乗り出していた。
「置いていかないでよ。私はただ、お母さんと離れたくなくて……」
山葉はクーリロワに振り返った。わかっただろう、という意味だった。つまり、こういうことなんだ。しかし彼女の顔は蒼白で、まだ事実を受け入れられないようだった。
当然か、と彼は思う。こんなことをいきなり言われて、はいそうですかと応じられるはずがないのだ。
ねぇ、と再び、ツォエ。
十メートル。決して遠くない、けれど近くもない距離。そんな距離を詰めきれないまま、悲痛な表情で呼びかける少女に、山葉は、新しい感情が自分の中で芽生えかけていることに気付いた。それは同情だった。狂ってしまった聖女――その望みは、かつての山葉のように、ひたむきに映るのだった。
「一緒に行こう」
クーリロワの肩に触れながら、山葉は言った。微細振動型ナイフはシースに収められ、自分の腰にくくりつけられている。鎮静剤は深く効いている。クーリロワが買ったパーカーを着せれば、薄暗いパブでは目立たないだろう。
彼の返事を聞いて、ツォエはほっとした様子を見せた。それを目にしても、先ほどのような理不尽な怒りはもう感じなかった。
風は強くなり始めていた。熱を持ち始めた傷口には心地良かった。太陽は青空と雲の合間でぎゅうっと圧殺されて、空はとっくに曇り模様、黄色の雪を振り散らす機会を、今か今かと窺っている。対して彼らが待つのは降雪ではなくて、クーリロワの了承だった。二人に見返され、彼女は青い顔のまま、しばし無言だった。
やがて小さく首肯した。表情は強張ったまま。
パブの中は薄暗く、煙で燻したような匂いがした。内壁は煉瓦色をベースとしており、白熱灯の元、木製の床張りとうまく調和していた。店内のスイングドアを抜けた先には螺旋階段が二階へと突き抜けており、軒先に並んだバイクの持ち主たちはそこに集まっているらしい。怒鳴るような、騒がしい話し声が嫌でも耳を突く。ガチンと時折、グラスをぶつけるような音が響いていることを考えると、彼らはビールかなにかを飲んでいるらしい。にもかかわらずバイクで来たのだとすると、やはりまともな集団とは思い難い。あるいは自暴自棄になっているのだろうか。
とはいえ、幸い、彼らと相席する必要はなさそうだった。不機嫌そうな赤毛のウェイトレスに通された席は一階の太い柱の陰、周囲からも目立たない奥まった一角だった。
「妙な雰囲気だな。状況を考えると仕方ないのかもしれないが」
背負った少年を隣に下ろしながら、山葉は言う。外れかけたパーカーのフードをかけ直してやる際、呼吸と心拍数を改めてチェックする。少し熱があるようだった。だがこの様子だと、やはり到着まで目を覚まさないだろう。ツォエはすでにレストルームに向かっていた。キャメルのブーツでとことこと音を立て、カウンター前を通り過ぎ、入り口前の細い通路に消えていく。《変な生き物》は置いていかないのかと山葉は尋ねたが、片時も離したくないようだった。
「……大丈夫か?」
先ほどからほとんど口を開いていないクーリロワに、山葉が言った。
その悄然とした様子は、彼を不安にするのに充分だった。ツォエのことが気になって、心ここにあらずなのは明らかだった。
そんなとき、カウンターの方の角から、ひとりの若い男がふらふらと出て来た。トイレの方角と間違えているのだろうかと思って山葉が見ていると、その背後から泡立ったグラスを手にした男がもうひとり。バイカーの一味とは違うようだが、こちらを見て遠巻きになにか話している。二人とも、カウンター席に並んで座っていた男たちだ。
一気に心拍数が高まる。
いったい何だろうと思う。読みが外れたのだろうか。開戦のニュースを退け、すでに自分は少女を誘拐した強盗殺人犯として大々的に指名手配されているのだろうか。いや、それならクーリロワが気付かぬはずがない。
山葉の異変に気付いたクーリロワが、同じく緊張した面持ちで振り返る。
と、これがただの杞憂なのだと彼は気付いた。二人組が見ているのは自分ではなく、クーリロワだった。
彼女と目が合うと、片方の男は人懐っこい笑みを浮かべ、もう片方の脇腹を肘でつついた。つつかれた方は、はにかみながらも、ビールかサイダーの泡を唇に浮かべ、乾杯の仕草をしながら、ウィンクした。クーリロワが完璧な無反応を通していると、やがて、残念そうな顔をしてすごすごと引き返す。
どういうことだ、と言うかのように彼女は山葉を振り返った。ため息をつきたくなる。この女は馬鹿なのかと思った。理由は明白だった。誤算があったのだ。人目を引くのは少年でも山葉でもなく、彼女自身だった。
「凶報を忘れるくらい、君に夢中みたいだな」
冗談めかして言うと、クーリロワは口元を固くした。神妙な口調で言う。
「つまらない冗談を言うための研修なんて、ありましたか?」
彼女らしい。山葉は頬を緩めた。
ここは大丈夫だ――そう安堵すると肩の力が抜けた。すると同時にまた、全身が錆び付いたような疲労と傷の疼きを感じ、それを誤魔化すように彼はこめかみを揉んだ。髪の生え際にじっとりと汗が滲んでいる。そっとジャケットの合間から指を差し入れ、セーター越しに胸の傷に触れてみると、指先が湿った。ガーゼと包帯を貫通して、血が滲み出ていた。胸の内で毒づき、親指で擦る。
「山葉、あなた……」
「問題ない」
彼は隅に穴が開いた合成革のシートに背を預けた。
クーリロワは手にしていたメニューに視線を落とす。しかしほとんど見ていないようだった。
「聞きましたよ」と言う。
「なにをだ?」
「微細振動による刺傷は治療が難しい――元々、障害物除去を想定して作られたモデルですから、人体に対して向けられた場合、同じ箇所を何十何百と刺されたのと同じで、怪我の部位の組織がほとんど駄目になってしまう、と」
「はっ、そうみたいだな……勉強したのか?」
彼女は質問に答えなかった。逆に、違う問いを返した。
「私が影で何と呼ばれているか、知っていますか?」
「……知らないな」
山葉の心を読んだかのように、彼女は頬を歪めた。
「《氷の女王》と、そう呼ばれているそうです。冷酷で、独善的で、自己中心的。そして実際私はそうだった。わざと命を落としかねない状況にあなたを追い込み、傷付けた」
「君のせいじゃないと言って欲しいのか? 俺たちは任務のためにあの場にいたと。なにが起きても仕方なかったと」
彼女は目を伏せた。次の言葉は山葉が初めて聞く、本心の一端だった。
「……私を、恨んでいますか?」
硬い靴底が床を打つ音が近寄って来た。席に案内した若いウェイトレスだ。黒いエプロンを腰に巻き、赤毛のミディアムヘアをポニーテールにしている。不機嫌といってもいい無愛想で、空のグラスと水差しをテーブルにどん、と置き、注文がまだ決まっていないことを見てとると、
「食事はチキンと適当な野菜を黒パンで挟んだやつとか、そんなものしか出せないよ。ニュースを聞いて店長とあたし以外みんな帰っちゃったから」
と言い残し、すたすたと去っていく。
「あの、山葉……」
クーリロワはおずおずと視線を戻す。山葉は満杯の氷水が入った水差しを取ると、四つのグラスに注いだ。とぽとぽ、と水が折り畳まれる柔らかい音が響く。
「送迎車の運転手は言っていたよ。自分にとってなにが一番大事かよく考えろ。他人のために死ぬなんて、馬鹿のすることだ、って」
思うところがあるのか、クーリロワは黙って聞いた。
「それを聞いたとき、彼の考えは正しいと思った。誰だって自分の命は惜しい。依頼人に忠誠を誓ったわけでもない。そもそも金のためにいるんだ。それでも俺に当てはめるのは間違いだった。なぜなら、ツォエは他人じゃなかったからだ」
「他人じゃない……? どういうことですか」
山葉は注ぎ終わったグラスをクーリロワの前に押し出した。
「君も新聞で、俺が奇跡の男だと読んだはずだ。戯言だよ。あれは“俺の”奇跡なんかじゃない。俺が助かったのは、あの空爆の現場に、ツォエがいたからだ」
短い沈黙があった。彼女の理解は速かった。
「ツォエがあなたを救ったと、そう言いたいのですか?」
「ああ、その通りだ。クロワ、俺は聖女についてほとんどなにも知らない。汚染地帯出身という以外、何をもって聖女と定義するのかも。正直なところ、今でもこんなオカルト紛いの話は半信半疑だ。だけどツォエが特別だといった言葉に嘘はない。俺は彼女が特別な……たとえばそう、《聖女》と崇められるような存在だと信じている。彼女は空爆を予言した。いいか、携行した合成開口レーダーでも、最後まで爆撃機の接近を探知できなかったんだ。完全な不意打ちだった。もし、あのとき彼女の予言がなければ、俺も他の職員と同じように、焼け焦げた死体になっていただろう。そして瓦礫に下で今頃、土に還っていた」
「ですが……」
クーリロワはなにか言葉を探しているようだった。
「俺の記憶が信じられないか? まぁ、無傷では済まなかったな。確かに落盤による脳出血のせいで、記憶障害を起こしていたが……」
「記憶障害? 頭を打ったんですか?」
どうやらそのことについては知らないようだった、驚いた表情で彼女は聞き返す。山葉は顔の前で手を振った。
「といっても軽度なものだ。空爆に遭う直前の記憶が曖昧だったというくらいで。だけどあの日――あの屋敷でツォエを見て思い出せたんだ。『ここは火の海になる。逃げなければ殺される』――空爆の間際、あの子は泣きながら、そんなことを訴えていたよ」
「本当に予言したのはツォエなのですか?」
「ああ、間違いない。だから俺は彼女を連れて風穴洞まで逃げ込んだ。落石で封鎖されてい洞窟だ。そして、助かった」
「そんな、あの子が……? いえ、でも、記憶障害というのなら……」
クーリロワは得心がいかないとでも言うかのように、ぶつぶつと口の中でなにか呟いている。山葉はグラスを傾けると、冷たい水を喉に流し込んだ。
「なぁ、クーリロワ。少年を母と呼ぶあんな様子を見て、彼女を疑う気持ちはわかる。俺が頭に大怪我をしたと聞いて、予言というよりは、幻のように聞こえるのもわかる。信じてもらうのは難しいかもしれない。みんな俺の主観だからだ。だけどこれだけは言わせてくれ――俺は彼女の予言を聞いた。それは絶対に思い違いじゃない」
折れそうなほど細い腕を握る感触。
手を引き、全力で駆けた時の、呼吸の苦しさ。
全て鮮明に思い出すことが出来た。
「そう、ですか……」
しかし、相変わらず彼女の返事は歯切れ悪かった。山葉は若干の苛立ちを覚え、
「君はなにを知っている? 悪いとは思ったが、エレベータ内で小倉とカチェートが君について話しているのを聞いた。君は俺が知るずっと以前から、聖女について知っていたはずだ」
クーリロワは数秒の間、考え込むような素振りを見せていた。やがて、ちらと入り口の方――レストルームの方角を一瞥し、ツォエがまだ戻ってこないことを確かめた。
「いつからか……世界各地の重度汚染地帯で、噂が広がっています。内容は他愛なくて、神の目を持つ者が現れるとか、そんな噂です。最初耳にしたときは、新手の新興宗教が流行り出したのだろうと思いました。宗教が存在する意味を考えれば、貧困層でそれが流行るのは至極当然なことですから」
山葉は社会人類学者の戯言を思い出す。氷の浮くグラスを見つめながら、彼女は続ける。
「聖女の存在について確信を抱くようになったのは、四年ほど前です。退避勧告が出ている北のカルデラ地帯での出来事がきっかけになりました。私は名の売れないフリーのジャーナリストで、汚染地帯での人々の暮らしを追っていました」
父の言う娯楽です――そうクーリロワは自嘲する。
「その地域の住民は移民ばかりで、言葉がほとんど通じませんでした。それに現地で通訳とガイドを出来るくらい、教育を受けている人も見つけられなかった。だから、質問さえ出来ない一方的な会話を録音して、帰ってから専門家に翻訳してもらうしかなかったんです。私は翻訳を聞くまでずっと、彼らが話しているのは、生活の窮状を訴えたり、不満をぶつけたり、そういうことだと思っていました。でも蓋を開けてみれば、そんなことを言う人はひとりもいなかった。餓えも、病も、誰も語らなかった。白く濁った目で、歯のない口で、彼らが執拗に訴えたのは、聖女のことでした」
「何と?」
クーリロワは躊躇っていた。表情はなく、しかし握り締めた拳が、内面の葛藤を語っていた。
「さらわれてしまった――そう言っていました。連れ戻してくれ、と」
彼女が語っているのはツォエのことではない。となると真実は決まっていた。
「やはり、聖女はひとりだけじゃないんだな?」
こくりとクーリロワは頷く。
「そうか、だから保護と言ったのか。……他の聖女に会ったことはあるのか?」
「……いいえ」
「なら、誰が拉致している?」
「……わかりません」
彼女は判決を待つ咎人のように俯いていた。
「クーリロワ、知っていることを教えてくれ。聖女とは一体――」
「それで、注文は?」
気が付くと先ほどのウェイトレスが腰に手を当てて傍に立っていた。そこで二人の雰囲気に気付いたのだろう。怪訝そうに顔をしかめる。山葉とクーリロワが簡単な品を適当に注文すると、彼女はなにか言いたそうな表情のまま去った。肉付きのいいその背中を見つめ、クーリロワは再び口を開いた。
「聖女とは、重度汚染地帯にだけ出現する予言者です。女性に多いことと、私たちの言語や、歴史的背景、イメージにぴったりと当てはまる単語が《聖女》というだけで、性別を限定するものでもありません。事実、《聖人》や《予言者》に近いニュアンスの呼び方をする地域もあります。不思議なのは、お互い通信手段もなく、言語さえ異なるような地域に行っても、人々は一様に同じような呼び方をして、同じことを信じているんです。まるで、彼らにだけ共通する意志があるみたいに」
共通する意志――そう口の中で繰り返しながら、山葉は病院で聞いたテレビの内容を思い出していた。あの社会人類学者は確か、全体意識や動的な意志という言葉で同じことを伝えようとしていなかったか? それなら、と思う。
全体意識は俺たちになにを求めているんだ……?
激減した世界人口が協調より闘争を選んだのは、自らのはらわたを食い破る行為だった。そして学者はその行為を淘汰と、強制的な進化と、産みの苦しみと呼んだ。腐臭を撒き散らす人類のはらわたから産まれるのが聖女だとすれば、出自は同時に母殺しの罪を負うのだろうか? 聖女の出現は、古い人類の死を意味するのだろうか……?
急にぞっとして、山葉はその考えを振り払った。
「……パパは私がどんな失敗をしても、なかったことにしてくれました。小倉さんと同じように、病気だと考えました。だけど私は、それでも知りたかったんです。聖女と呼ばれる存在が、私たち人類にとって救い主になりうるのか。そして、希望となりうるのか」
彼女もまた、閉塞したこの世界、光芒を求めて彷徨う数多の影のひとつだった。
からん、と音を立てクーリロワは水の入ったグラスに口をつけると、「ツォエ、遅いですね」と言った。
そして「様子を見てきます」と立ち上がったとき、前触れもなく少年が、びくんと動いた。それはまったくの不意打ちで、なにかしなければとわかっていながら、二人は動けなかった。ただお互いの目を見つめ合い、息を呑んだ。やがてそれが単なる不意の痙攣で、またなにごともなく、うわついた波が極限の平衡に収束するように、少年は静かな呼吸に戻るのであったが、そうであっても、彼らの緊張はしばらくの間、解けなかった。
「クロワ、やはりここには……」
ええ、と彼女は頷いた。
「ツォエを呼んできます」
だが彼女はひとりで行くべきではなかった。山葉は失念していたし、クーリロワはクーリロワで無自覚だった。極度の美とは大きな武器であると同時に、貪婪な蝗を妖惑するたわわな穀物であった。また、傷口に塗られた蜜であり、琥珀を培養するニキシー管でもあった。柔らかな色にはいつも虫が寄る。とはいえ、無理はない。たいていの場合、それは走光性なのだ。
貪婪
蝗




