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国道のインターセクション近く、郊外のショッピングモールの駐車場に車を停めると、とりあえずは大丈夫でしょう、とクーリロワは言った。
警察の追っ手を心配する山葉に彼女が見せたのは、自分の携帯電話だった。画面左上隅、本来ならば基地局との受信感度を示すバーに替わり、赤い字体でサービス停止と表示されている。小倉とカチェートのやり取りを思い出す山葉に、彼女は父――警察庁長官から聞いたとして、次のようなことを語った。
曰く、決して表沙汰にはならないが、有事の際、一般の携帯電話に使われる周波数帯は軍に接収され、インターネットにも激しい帯域制限がかけられることになっている。情報源は政府の検閲を受けたテレビ、ラジオのニュース番組に一任され、これによって工作員によるデマの拡散や、集団心理による暴動などを未然に防ぐことができる。これを言論統制と見るか、必要悪と見るかは自由だが、政府としては受けられる恩恵の方が大きい――少なくとも、そう考えられている。
また、と彼女は続ける。侵攻作戦を控え、不安定になりがちな国内の治安を強化する必要もあります。大がかりな捜査は行いたくない、というのが実情でしょう。あくまで楽観的予測ですが……。
だが結局、山葉もクーリロワの考えに同意した。至極まっとうな意見に思えたからだ。
それで、とクーリロワは言った。山葉を一瞥し、後ろを振り返る。
「……彼をどうするつもりですか」
彼女の車は黒のセダン――高級車だった。車内はゆったりとした造りで、シートは革張りである。後部座席では深く倒したシートの上、ツォエが少年に寄り添うように、うつらうつらとしている。少年は今のところぴくりとも動かない。山葉は注射されたシリンダの表示を調べていたが、薬液はかなり強力なもので、即効性のあるレミフェンタニルと持続性のある催眠鎮静剤を組み合わせていた。体格と注入量を考えれば、少なく見積もっても、あと五時間は目を覚まさないはずだった。
二つ静かな蓮色の寝息。それに被せるように、クーリロワはため息を吐いた。
「確かにこの少年から事件の全貌を聞き出せるかもしれません。警察に任せても、あなたにかけた嫌疑と同じ枠に当てはめて考えるだけでしょう。ですが、これがどれだけリスクの大きい賭けか、理解していますか? 彼は危険です、味方でもなんでもない。そしてこの状況はあなたの立場を悪化させるだけです。警察は、拘束されたあなたをこの少年が助けに来たと見るでしょう」
「……わかってる」
「いいえ、わかっていないわ。山葉、これは他人事じゃないのよ」
山葉は目を伏せた。
「巻き込んでしまって、すまない」
「違います、そういう意味で言ったんじゃないの。私はただ、あなたに」
そこで彼女は口をとめた。目を閉じ、シートに背中を預けた。
「……小倉さんの顔が目に浮かぶわ」
「あいつの名前は出さないでくれ」
クーリロワは目だけ動かした。彼の表情に浮かんだものを読み取ると、一瞬、悲しそうな顔をした。
「あれでも、私が小さな頃は優しかったんです」
少しすると、彼女はダッシュボードからスパンコールの付いた小型のポシェットを取り出した。留め金を外し、財布の有無を確認する。
「必要になりそうなものを買ってきます。山葉は彼女と一緒に車内で待っていなさい。すぐに戻ります」
少年とツォエを二人きりにはできない。山葉は黙って従うことにした。ウィンドウから外を眺める限り、病院で起こったような混乱は見られない。開戦の初報からの正確な時間はわからないが、おそらく一時間も経っていないはずだ。日常の情報交換ツールを失ったことにより、土留色のニュースは眠たい岸辺の波のよう、ゆっくりゆっくり伝播していく。それゆえ、知らない人もまだ多いのだった。慈悲深き情報統制――この静けさは、死刑宣告された日常に与えられた、最後の猶予だった。
山葉は助手席から、去っていくクーリロワの背中を眺めた。太陽の下、背筋はすっと伸ばされ、サーモンピンクのフレアスカートは、パステルカラーの傘のひだのように、風に膨らんで長い脚を彩った。犯罪者を手助けしているという卑屈さは欠片もない。足取りは強い信念に象られていた。聖女を信じているからだ、と山葉は思った。しかし、そうなった背景についてはなにも知らない自分がいた。それどころか山葉は、《氷の女王》の噂以外、クーリロワのことをほとんど知らないのである。なにが好きでなにが嫌いか、そしてなぜここまで高いリスクを背負って一緒に来てくれたのか。
息をつく。
ぐるりと首を回し、こめかみを揉む。ひどい倦怠感に襲われていた。全身が弛みきったゴムのようだ。胸の縫合はじくじくと痛んでいた。本来ならまだベッドの上で安静にしていなければならないのだと考えると、こうして動いて悪化するのは当然だった。吹き出た顔の冷や汗を拭う。そして何気なくバックミラーに目をやって、ぎくりとする。
「……大丈夫?」
いつの間にかツォエが目を覚まし、ミラー越し、こちらを見つめていた。山葉が硬直しているともう一度、
「ね、大丈夫?」
ゆるゆると意味が染み渡ると、山葉は目を伏せた。拳を握った。
お母さんにやられた傷は大丈夫か――そう言われているような気がした。そのくせ、彼の体調を本当に気にかけているかのような口ぶりなのである。よりによって、病院を出て初めて利く言葉がそれか……。そう思った途端、鼻の奥に、つんと悪意が香った。
バックミラーを見返す視線の辛辣さに気付いたツォエは、まるで普通の子供のように怯えた様子を見せた。それはいっそう彼の嗜虐心を煽った。なにを今更。君はそんな人間じゃないだろう。普通なら怖がるはずだ、でも君は違うじゃないか。子供ぶるなよ、俺がわからないとでも思っているのか。引っぱたいてやりたい。怒鳴りつけてやりたい。そうやって、作り物の子供らしさの影に隠した本性を暴いてやれば、どうせ君は――
「あなたは」
そんな鬱屈した感情を読み取ったかのように、ツォエはぬいぐるみをぎゅっと抱いた。消え入るような声で言う。
「私のこと、嫌い……?」
固めた拳が緩んだ。
やり場のない憤りは消えて、残ったのは強い恥だった。山葉はミラーから視線を外した。そして鉛味の唾を飲み込み、
「怪我は」
「え?」
「首の怪我は、痛くないか?」
ツォエは初めて気付いたかのように、自分の首に手をやった。ガラス片で切れた血は止まり、赤い筋が細く、半分で途切れたチョーカーのように刻まれていた。
「ううん……大丈夫よ、ありがとう」
「そのぬいぐるみも、首の付け根に傷があるな。小さな穴が開いていた」
自分の傷には無頓着なくせに、そう山葉が指摘すると、彼女は恥ずかしそうな顔をした。
「宝物なの」
抱き起こし、ぷらぷらと脚を振ってみせる。
「なんだか、わかる?」
山葉はミラー越し、汚れたぬいぐるみを見つめた。綿かなにかを中に詰め、素地も色もばらばらの布を張り合わせた手作りの動物。ぎざぎざの縫い目が全身を覆っている。ツォエの頭より大きな頭部の頂点には、黄糸で縫われた三角の耳がぴょんと突き出ていて、首からは比較的小さめの胴体と、四つの脚がぶらりと垂れ下がっている。目は茶のボタン、鼻は黒のボタン、尻尾はアンバランスなほど大きく膨らんで、ピアノの白鍵を剥ぎ取ったようなプラスチック片が爪代わり。ぱくぱくと開く口元には黒っぽい、くすんだ染み。
「狐、か?」
山葉が汚染地帯でよく見た動物の名を答えてみると、ツォエは顔をほころばせた。
「よかった、わかってくれて。うまく出来なかったから心配だったの。でもちゃんとわかるんだ、ね?」
「自分で作ったのか? ずいぶん器用――」
「お母さんとよ」
少年の手をさすり、笑みを崩さずツォエは言う。
「お母さんと一緒に作ったの」
果たして口元の染みは血の赤だった。大きく開けた牙のない口は、底なしの闇に続いていて、細切れの怨嗟を響かせた。山葉の手が差し出されるのを今か今かと待ち構え、がぶりと一呑み、その機会を窺っている。
山葉はみぞおちの辺り、毒を持った巨大な魚が暴れているのを感じた。少女の夢心地の笑みの裏、自分を呪い殺す攻撃性を想像した。最初からわかりきっていたことじゃないか、と思う。この俺が妄想を解く鍵だって? まったく馬鹿げてる。俺と会って、話して、それで彼女がどう救われるっていうんだ。それどころか俺は、妄想のきっかけを作った張本人なんだぞ。いや、もしかしたら、誰が母親を殺したか知っているんだ。だって君は聖女ってやつなんだから。なにもかもお見通しの上で、俺を責めるためだけにこんな妄想を作り上げた……。
「この子ね、うまくできなかったから《変な生き物》って名前なの。面白いでしょう?」
形見の話になった途端、彼女は饒舌さを増した。いかに苦労して醜悪な手芸をなしたのか、滔々(とうとう)と語る。耳を塞ぎたかった。しかしツォエはそれを許さぬように、
「山葉さんは?」と問いかける。「山葉さんは宝物……ある?」
そんなもの、なかった。これまでの生活を振り返ってみても、白地の紙に黒インクで描かれたような、単調な二色の世界しか見えなかった。命令があり、了解があった。それだけだった。単純機構の歯車で動いてきた、錆びくれた機械仕掛けの人生。
「どうしたの……?」
その声に責められているような色を感じ、奥歯が軋んだ。気付くと山葉は言っていた。
「静かにしてくれないか」
「え?」
「悪い、疲れたんだ。少し休みたい」
間があった。
「……うん」とツォエは頷いた。
疲れているのも、休みたいのも本当だった。しかし大の大人が、わざわざ口に出すことではなかった。自己嫌悪に襲われ、山葉は振り返ったが、すでにツォエはこちらに背を向け、横になっていた。それでも一言、すまないと言えばよかったのだ。なのに舌は口蓋にべったりと張り付いたまま動かない。水を吸ったスポンジのように膨らんで、喉は痺れていた。
クーリロワが戻ってきたのはそれからしばらくしてだった。彼女は両手に巨大な紙袋を下げていた。片方は食料品や救急キット、雑多な必要物、もう片方は山葉の着替え――アッシュブルーのジーンズ、下着、保温シャツ、ダークブラウンのセーター、編み上げのブーツ、四つのフロント、二つのインナーポケットがついた黒のミリタリージャケットだった。助手席で着替えながら、なぜサイズがわかったのかと聞く山葉に、健康診断書をチェックしたのは自分だとクーリロワは答えた。
「山間部のホテルに向かいます」
エンジンをかけると、そう彼女は言った。
「少し年季が入ったホテルですが、身を隠すならうってつけの立地です。耐寒ラベンダーの畑に囲まれた場所で、かなり昔、雑誌でも取り上げられたそうです。マ……母からそう聞きました。トラブルに巻き込まれなければ三時間ほど、夕方には着くでしょう」
山葉は頷いた。詳しい話はそこでできるだろう。それきり会話は終わった。クーリロワはコミュニケーションと称し、無駄な会話をする女ではなかった。
車が発進した。バックミラーを見た。ツォエは背を向けたまま、少年の傍らに横臥している。山葉には不思議に思っていることがあった。クーリロワのツォエに対する態度だった。まだ一言も口を利いていないのだ。もっと言えば、意思を疎通させる気さえ、ないように見えた。どうしてだろう、と思う。
彼はごしごしと目を擦った。急に瞼が重くなり始めていた。思考が鈍り始めていた。たぶん、と思った。彼女はツォエが寝ているのを邪魔したくないだけなのだろう。この逃避行に加担するほど聖女に思い入れ――小倉の話によればおそらくそれ以上の――があるのなら、崇拝とも呼べる感情をツォエに対して抱いていても、おかしくはなかった。甘やかな眠りが少女の望みなら、彼女はただ、唯々として従うのかもしれない。
車内は暖かかった。着慣れないジャケットの匂いを感じながら、山葉はシートに身を深くゆだねた。駐車場の出口近くでは、数台の車が接触事故を起こしていた。車外に降りた運転手たちは口論するわけでもなく、曇り始めた空を見上げ、立ちすくんでいる。地上侵攻のニュースを知ったらしい。猶予は終わった。日常は首を刈り落とされた。束の間の平穏は崩れ去り、日暮れの時代が夜を明けた。




