第一章 ポポロ村のホワイト農場と、定時退社の防衛線
月300時間残業の果てに、異世界の土を耕す
深夜のオフィス、キャベツの土壌成分データを打ち込むキーボードの音だけが響いていた。
『ピーッ! エラー:システムが応答しません』
その警告音を最後に、俺の心臓は月300時間残業の限界を迎え、キャベツのデータと共に停止した。
「はもっ、むぐ……んぐ、んぐ」
目を覚ますと、どこまでも続く真っ白な空間だった。
目の前には、ピンク色の芋ジャージを着て、胸に若葉マーク(初心者マーク)の刺繍をつけた少女が座っている。彼女は健康サンダルをパタパタさせながら、俺の目の前で美味そうにみたらし団子を頬張っていた。
「あの……ここは?」
「んぐっ、ごふっ!? げほっ、けほっ……お水ぅ……」
少女は盛大に咽せ、手元のゴツいハードケースに入ったスマートフォン――『エンジェルすまーとふぉん』をタップした。ポンッという小気味良い音と共にペットボトルの水が出現し、彼女はそれを一気飲みする。
「ぷはぁっ! え、えーとっ、白石春人さんですね! 過労死、本当にお疲れ様ですぅ!」
「過労死……そうか、俺、死んだのか」
大手農業資材メーカーの営業兼データ管理。来る日も来る日も土のpH値や窒素・リン酸・カリの比率と睨み合い、過酷なノルマとクレーム対応に追われた。残業代ゼロで月300時間を超えるサービス残業。有給休暇という概念すら都市伝説だったあの会社で、俺は文字通り、土に還ったというわけだ。
「わたくし、見習い女神のリリスですぅ! ルチアナ先輩のクレカで買ったお団子食べてたら、転生者の案内を任されちゃって……あ、カンペカンペ」
リリスは空中に浮かぶ半透明のカンペをチラチラ見ながら、エンジェルすまーとふぉんを操作し始めた。
「えっと、今からアナステシアという異世界に転生してもらいます! 剣と魔法と、ゴッドチューブとかいう神々の配信がある世界ですぅ。そこで、特別なユニークスキルを一つ授けますね!」
ゴッドチューブ? 配信? なんだか嫌な単語が聞こえたが、リリスがスマホの画面をスワイプすると、俺の目の前に巨大なガラポン抽選器が現れた。
「さぁ、回してください! あなたの運命を決めるスキルガチャですぅ!」
言われるがままにガラポンを回す。
カランカランカラン! と景気の良い音が鳴り、金色の玉が飛び出した。
「おぉっ! URですぅ! スキル名は……【農具箱】?」
「……農具箱?」
「ひっ! URって書いてあるのに、中身はただのスコップと鍬とジョウロ!? まさかの完全なハズレスキルですぅ! しかも戦闘力ゼロ! ご、ごめんなさーい!」
リリスがパニックになり、スマホの角でコンソールを『ガンッ!』と力任せに叩いた。
「あわわわ! 操作間違えましたぁぁ!」
足元の床がパカッと開き、俺は真っ逆さまに落下した。
「ふざけんなぁぁぁっ! せめて労災を認めろぉぉぉっ!」
* * *
「……いてて」
ドスン、と尻餅をついて落下したのは、見知らぬ鬱蒼とした森の中だった。
立ち上がって自分の姿を確認し、俺は盛大にため息をついた。
「なんだよ、この格好」
頭には麦わら帽子。着ているのは謎のホームセンター『タローマン』のロゴが入った機能性作業服。足元には泥除けの長靴、手には軍手、そして首には汗拭き用の白いタオル。
どこからどう見ても、完全無欠の『ガチ農家スタイル』である。
「異世界に来てまで農業やれってか。……まぁ、サビ残でデスマーチするよりはマシか」
首のタオルで汗を拭いながら、俺は周囲を見渡した。
「それにしても……酷い土だ」
農学部卒の血が騒ぐ。足元の土を軽く握ってみるが、ボソボソとしていて水はけが最悪だ。
「表層は腐葉土だが、その数センチ下は第三紀層の泥岩混じりだな。極めて透水性が悪くて脆い岩盤層だ。これじゃあ根腐れを起こすし、少しの衝撃で地滑りが起きるぞ」
ズズン……ズズン……ッ!
地質調査をしていた俺の耳に、重い地響きが届いた。
木々をなぎ倒しながら現れたのは、巨大な猪のような魔獣だった。体長は3メートル以上。頭部に生えた巨大な角は、ゴツゴツとした『本物の岩石』でできている。
『ブオオォォォォンッ!!』
岩の角を持つ猪――野生のロックバイソンが、真っ赤な目で俺を睨みつけ、前足を掻いて突進の構えを見せた。
「嘘だろ、初日からボス戦かよ!?」
ロックバイソンの突進は、まるでダンプカーだ。普通の人間なら一撃でミンチになるだろう。だが、俺は妙に冷静だった。月末のノルマ未達で激怒する営業部長のプレッシャーに比べれば、ただの猪の殺意など可愛いものだ。
俺は咄嗟に、ハズレスキルだと言われた【農具箱】を念じて呼び出した。
空間が歪み、俺の手に握られたのは、使い込まれた銀色の『スコップ』。
「URスコップ……って、ただのスコップじゃねえか!」
『ブモォォォォォッ!』
ロックバイソンが地響きを立てて突進してくる。
逃げ場はない。俺は冷や汗を流しながらも、極限のブラック企業で培った謎の冷静さで、足元の『脆い岩盤層』を見つめた。
「……待てよ。このスコップ、ただの農具じゃないのか?」
スコップの柄を握った瞬間、俺の脳内に謎のインフォメーションが流れ込んできた。
――『URスコップ:所有者が土だと思ったものは、すべて土として掘削可能』
「……は? 俺が土だと思えば、硬い岩盤も土になるってことか?」
突進してくるロックバイソンまで、残りわずか10メートル。
俺はスコップを高く振り上げ、足元の地面――本来ならツルハシでも砕けないほど硬い泥岩の層に向かって、全力でスコップを突き立てた。
「残業代も出ないのに、なんで俺が異世界初日から命がけで戦わなきゃいけないんだよ! 俺の業務は定時で終わらせてもらうぞ!」
ザクッ!
スコップの刃が地面に触れた瞬間。
ドガガガガガガガッ!!!
ありえない轟音が響いた。
俺がスコップで軽く土をすくう動作をしただけなのに、目の前の地面が数十メートルにわたって『豆腐のように』ごっそりと抉り取られたのだ。
物理法則を完全に無視した理不尽判定。硬い岩盤層は一瞬にして崩落し、俺の目の前に巨大な落とし穴が形成された。
「ブモッ!?」
トップスピードで突進していたロックバイソンは、突然消滅した地面に対応できるはずもなく。
そのまま巨大な落とし穴の底へと、一直線に落下していった。
ズドオォォォォォォンッ!!!
すさまじい土煙が舞い上がる。
穴の底を覗き込むと、ロックバイソンは自らの重い岩の角が穴の壁面に深々と突き刺さり、完全に身動きが取れなくなって気絶していた。
「……マジか。農業の土壌知識とこのスコップを組み合わせれば、地形ごと弄り回せるのか」
俺はスコップについた土をポンポンと払い、首のタオルで汗を拭った。
「よし。本日の業務(戦闘)は、定時で終了だ」
俺は気絶した魔獣を放置し、落とし穴を迂回して森の出口へと向かった。
ブラック企業での理不尽な労働はもうごめんだ。このチート農具があれば、誰にも邪魔されない最高のホワイト農業ライフが送れるかもしれない。
木々の間から差し込む光を目指して歩き、ついに森を抜けた。
そこには、のどかな風が吹き抜ける広大な村の開拓地が広がっていた。
「……なんで、なんで育たないのよっ!」
ふと声が聞こえ、視線を向ける。
そこには、タローマン製の作業着を着た、不機嫌そうな顔のとんでもない美女が、鍬を持って立ち尽くしていた。
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