第7話
次の朝、学園の鐘が重く響いた。
キラリは追試の知らせを受け取り、道場で一人待っていた。
広大な畳の間には、昨日の汗と油の匂いがまだ残っていた。
壁際の松明は、弱々しく揺らめいていた。
少年は刀を握り息を整えた。
指先が柄に食い込み、静かな痛みが決意を確かめるように伝わった。
昨日の屈辱が胸に疼いていた。
クラノの嘲笑が耳元でまだ渦巻き、生徒たちの注目が針のように刺さる記憶が夜通し眠りを蝕んだ。
胆力の不在は侍の誇りをただの影に変える。
本家の血を引く自分が、ただの空っぽの鞘のように扱われる現実が、心の底で黒く渦巻いていた。
だが、諦めは少年の辞書にない。
今日こそ、魂の空白を刀の軌跡で埋めてみせる。
そんな決意が瞳に宿っていた。
ふと扉が軋み、かすかな足音が近づいた。
木の蝶番が湿った空気に抗うように低く唸り、道場の空気がわずかに揺らぐ。
キラリは刀を構えたまま、視線を上げた。
現れたのはトモエだった。
黒髪をなびかせ、忍装束がしなやかに体を包む姿は、少年の視線を一瞬奪った。
あの庭での救出以来、彼女の姿は心に鮮やかな残像を残していた。
強靭な蹴りと血を見て崩れ落ちる脆さのギャップが、胸をざわつかせる。
「おお、キラリ。この間はありがとな」
彼女の声は鈴のように澄み、笑みが柔らかく広がった。
彼女は軽く手を振った。
忍装束の袖が風を孕んでわずかに膨らみ、朝の冷気が彼女の頰を淡く染めた。
「助けるつもりが、結局助けられちゃったよ」
その言葉に、庭での記憶が少年の脳裏に蘇った。
気光の糸が頰を掠め、赤い雫が石畳に落ち、彼女の膝が折れた瞬間。
少年は無意識に頰に触れ、かすかな凹凸を感じた。
傷跡は薄れかけていたが、心の痛みはまだ疼いていた。
「あの時は……本当にありがとう、トモエ。君がいなかったら、俺……どうなってたか」
少年は頰を赤らめ、首を振った。
照れくささが胸を熱くした。
彼女の眼差しが優しく、しかし好奇心に満ちて自分を捉えていたからだ。
トモエは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
黒髪を耳にかける仕草がしなやかで、眼差しを再び引きつけた。
「へへ、気にすんなよ。俺だって、あの後お前が抱き起こしてくれたおかげで、なんとか持ち直したんだぜ。互い様だろ?」
キラリは頷き、わずかに笑みを浮かべた。
胸の奥に、温かなものが広がった。
「そうだね……でも、次は俺が守るよ。約束だ」
「おう! でも、まずはこの追試を乗り切ろうぜ! ……お前、もしかして緊張してるのか? 顔が赤いぜ! 息、吐けよ!」
「いや……これはその……。って、もしかして、トモエも追試なのか? あんなにすごいのに」
少年の声は、わずかに上擦った。
「そうなんだよ。……寝坊しちゃってさ」
その笑いは自嘲的だったが、共感を誘った。
血の記憶か、それとも故郷の重圧か。
二人が目を合わせ、軽く笑う。
その瞬間、道場の空気がわずかに和らいだ。
少年の胸に、初めての安らぎが芽生えた。
彼女はただの味方ではない。
闇の底で差し伸べられた光のような存在だった。
だが、その時、もう一つの足音が響いた。
重く、苛立ったようなリズムで、扉を押し開く音が道場に木霊した。
少年だった。
めぬきマシロ――侍科の同級生で、むすっとした顔立ちの十二歳。
黒髪を乱雑に束ね、腰の刀が苛立ちを物語るように揺れた。
着物の裾がわずかに乱れ、瞳は鋭く、しかしその奥に拭いきれぬ苛立ちが渦巻いていた。
彼の噂は学園でささやかれていた――荒野の国との国境近くの侍家出身で、幼い頃に家族を失い、刀一本で生き抜いてきた孤高の少年。
胆力の発現は早熟で、抜刀の速さはクラス随一だが、他人を寄せ付けぬ棘のような性格が孤立を招いていた。
トモエが先に口を開いた。
彼女の声は軽やかだったが、忍者の勘が空気を読み、穏やかに響いた。
「俺はこづかトモエ、忍科。よろしくな」
彼女は手を差し出し、笑みを浮かべた。
彼は短く頭を下げ、挨拶を返した。
声は低く、岩を削るようにぶっきらぼうだった。
「めぬきマシロだ」
その視線は彼女に一瞬、柔らかくなったが、すぐにキラリに移った。
キラリが手を差し出した。
「よろしく、マシロ。俺はむねまちキラリだ。一緒にがんばろう」
声は誠実で、昨日の屈辱を振り払うように明るかった。
だが、彼はそれを弾き飛ばし、吠えた。
「俺は侍なんかと、仲良くはせん!」
瞳に棘のような拒絶が宿り、いや、拒絶の奥に深い傷跡が覗いた。
侍科のプライドか、それともキラリの「本家」の血筋への嫉妬か。
マシロの息が荒くなった。
「お前みたいな奴と……同じ空気、吐くのも嫌だ」
言葉は毒のように鋭く、キラリの胸を刺した。
トモエの眉がわずかに寄り、彼女は即座にマシロの肩を掴んで引き戻した。
「ちょっと待てよ、マシロ! みんな同じ追試だろ?」
マシロはトモエの手を振り払おうとしたが、彼女の視線に一瞬、動きを止めた。
瞳の奥に、わずかな揺らぎが浮かんだ。
トモエの眉がわずかに寄り、空気が張りつめた。
道場の松明が緊張に呼応するように激しく揺らぐ。
そんなタイミングで、扉が再び開いた。
重い木の音が道場を震わせ、朝の冷気が一気に流れ込んだ。
担当師範、しのぎじハンゾウ――百八十センチを超えるスラッとした体躯が現れた。
腰に据えた刀は槍のように長く、柄の輝きが威圧を放った。
灰色の髪を後ろで束ね、鋭い眼差しが三人を捉えた。
唇の端に笑みを浮かべた。
「おー、仲良くやってるなぁ」
ハンゾウの声は軽やかだった。
「それじゃあ諸君。訓練場に行こうか」
ハンゾウは軽く手を振り、外へ向かった。
道場の扉が開き、風が三人を包んだ。
追試の空気は重くのしかかっていた。
キラリの胸に、予期せぬ邂逅の予感が灯った。
この三人と、どんな絆が生まれるのか。




