第5話
学校生活は、鋼の炉のような苛烈さで幕を開けた。
全寮制の寮舎は、学園の奥深く森に抱かれた石造りの要塞だった。
灰色の壁が天を衝き、狭い回廊に松明の炎が揺らめき、夜ごとに生徒たちの息遣いが反響した。
朝の鐘が鳴り響くと、生徒たちは一斉に起き上がり、道場へと向かった。
汗と血の匂いが染みついた空気、師範の叱咤が響く道場、食堂の雑多な喧騒――すべてが、若き侍と忍者の魂を削り、鍛え上げる試練の場だった。
キラリは、そんな日常に身を委ねながら、ただひたすらに耐えていた。
武器の柄を握る手は日に日に固くなり、心の棘は深く根を張っていった。
その一方で、クラノは、瞬く間に味方を増やした。
侍科のクラスメイトたちの中でも、その胆力の輝きは星のように目立っていた。
最初に引き寄せられたのは、タケツ――筋骨隆々の男で、岩を削り出したような巨躯の持ち主だった。
荒野の国出身の彼は、力任せの戦士として知られ、武器を振るう一撃は大地を震わせるほどだった。
汗まみれの額に粗野な笑みを浮かべ、クラノの肩を叩いた。
「おい、クラノ。今日はどうやっていじめるんだ?」
次に、テラサ――妖艶な女で、霧の国から来た黒髪の美女だった。
細い腰に佩く刀は、彼女の肢体のようにしなやかで、胆力の細やかな制御に長けていた。
気光を糸のように操り、敵の急所を寸分違わず突くその技は、クラスメイトを魅了した。
テラサはクラノの傍らに寄り添い、扇子で口元を隠しながら囁いた。
「タケツ。おもちゃは長く遊ぶものよ?」
「へへ、そうだな。今日もあのガキ、泣き叫ぶかな?」
タケツが低く笑い、拳を握りしめて骨を鳴らした。
二人は、クラノの嫉妬を燃料に、忠実な家来となった。
いじめはエスカレートしていった。
道場で刀を構えるキラリの背後から、タケツの巨体がわざと足を払った。
「おっとすまねぇなぁ。足が滑っちまったよ」
転んだ少年に、テラサが青い輝線の細い糸を忍ばせ、皮膚を浅く斬った。
「あら、滑ったわ? ごめんなさいね」
キラリは地面に手をつき、息を詰まらせながら歯を食いしばった。
「……くそっ、お前ら……!」
クラノは遠くから見守り、満足げに笑った。
「へっ、いい顔してるぜ。あいつ、いつまで耐えられるかな?」
周囲の生徒たちは目を逸らした。
キラリは孤立を深めていった。
クラスメイトたちの視線は好奇から嘲笑へ、嘲笑から無関心へと移り変わった。
学校の鐘が鳴るたび、キラリは刀を握り、素振りを繰り返した。
汗が滴り、筋肉が悲鳴を上げても、止まらなかった。
いつか、この棘を刀に変える日が来るはずだと信じて。
だが、闇の底に、光が差し込んだ。
それはある日の昼下がりの庭での出来事だった。
学園の中央庭園は、苔むした石畳と古木が並ぶ静かな場所。
キラリは一人、刀を手に素振りをしていた。
ふと、背後に気配を感じた――だが、遅かった。
テラサの気光の糸が、キラリの頰を掠めた。
鋭い痛みが走り、温かい赤い雫が一筋、頰を伝った。
わずかな傷だったが、その赤がキラリの視界を染めた。
「っ……痛っ!」
キラリは思わず手を頰に当て、血の感触に顔を歪めた。
キラリは刀を握ったまま振り向いた。
そこにクラノの姿があった。
後ろに控え、腕を組んで見下ろすクラノの唇が薄く弧を描いていた。
タケツの巨体が道を塞ぎ、テラサの妖艶な笑みが傍らに浮かんだ。
三対一の包囲。
「よお、キラリ。俺たちと、遊ぼうぜ」
クラノの声が低く響いた。
優越感に満ちた瞳がキラリを捉え、嘲るように輝いた。
タケツが拳を鳴らし、骨の軋む音が庭に木霊した。
「クラノ様、俺からやっちゃっていいすか? 拳が疼いてしょうがねぇんですよ!」
テラサは指先に新たな輝線の糸を絡め、くすくすと笑った。
「あら、避けられなかったみたいね。本家といえどもこの程度なのかしら」
キラリは刀を構えた。
頰の傷が疼き、傷の匂いが鼻を突いた。
心臓が激しく鼓動し、孤立の恐怖が胸を締めつけた。
「……来るなら、来いよ。俺は……負けない」
キラリは声を震わせながらも、刀を握る手に力を込めた。
クラノの胆力がゆっくりと爆発を予感させた。
「いい加減ちょろちょろ目障りなんだよ! 木偶の坊はこの学校から去れ!」
その瞬間、一陣の風が舞い、庭の空気を切り裂いた。
「ちょっと待ったああああ!」
現れたのは、少女だった。
黒髪をなびかせ、短刀を閃かせる女忍者――こづかトモエ、忍科の新星。
霧の国出身の彼女は、十二歳とは思えぬ恵まれた体を誇り、身長百七十の長身で大人顔負けの存在感を放っていた。
短刀の刃が陽光を反射し、冷たく輝いた。
トモエは三人の間に割り込み、短刀を構えてクラノたちを睨んだ。
眼差しは鋭く、しかし守るべきものを包むように温かかった。
「おいおい、侍ってのは多勢に無勢で偉そうにするもんなのか? そんな卑怯な真似、忍者でもやらねぇぜ」
その声は鈴のように澄み、しかし棘のように鋭かった。
「――忍法『身気功』」
トモエの筋肉が鋼のように膨張した。
黒い忍装束が張りつめ、足裏が大地を抉った。
忍法の青みがかった残像が尾を引いた。
クラノの顔が醜く歪んだ。
優越の仮面が粉々に砕け散った。
「てめぇ、忍科か……! 部外者が邪魔すんじゃねぇ! タケツ、やっちまえ!」
タケツの巨体が獣のように唸った。
拳が山を砕く勢いで振り上げられた。
「この女、ぶっ飛ばしてやるぜ!」
だが、トモエのスピードは風そのものだった。
瞬時にタケツの懐へ滑り込んだ。
短刀の柄で膝裏を叩いた。
ガキン!
巨漢の膝が折れ、土煙が舞い上がった。
止まらない。
トモエの体が宙を舞い、空中で華麗に回転した。
しなやかな脚が弧を描き、連続蹴りがタケツの巨躯を連打した。
ドガッ! バキッ! ズシャ!
衝撃が響き、巨漢の体が弾丸のように吹き飛んだ。
桜の木に激突し、幹がミシミシと軋んで枝葉が雪崩れ落ちた。
「ぐわぁぁっ!? こ、こいつ……飛んだ!?」
テラサの瞳が慌てて細まった。
輝線の糸が蜘蛛の巣のように放たれ、銀色の線がキラリの喉元を狙った。
シュルシュル!
「逃がさないわよ、絞め上げてあげる!」
トモエの唇がニヤリと弧を描いた。
「甘いぜ、そんな糸じゃ俺は切れねぇよ」
短刀が閃光を放ち、糸を一閃で両断した。
切断された気光がパチパチと火花を散らし、テラサを後退させた。
「きゃっ!? い、いつ切ったのよ……!」
その隙にクラノの胆力が爆発した。
青白い輝きが拳に渦巻き、奔流となって迸った。
「死ねぇ、忍者女! ――侍刀技『剛拳撃』!」
ズガァン!
拳が空を裂き、石畳を抉る溝が走った。
土塊が飛び散り、キラリの頰を掠めた。
だが、トモエはすでにいなかった。
残像がフェードアウトし、次の瞬間、クラノの懐へ。
抜刀の構えを取るクラノの刀柄に、脚が閃いた。
踏み台のように柄を押し、跳躍の勢いで顎を蹴り上げた。
ゴキン!
「蹴り捨て御免!」
衝撃がクラノの頭を仰け反らせ、輝きが乱れて爆散した。
青白い粒子が花火のように散り、クラノの体が後ろに吹っ飛び、尻餅をついた。
「……な、なんだこの蹴り……!」
クラノの顔が真っ赤に染まった。
「まだ……やるかい?」
トモエがクラノに対し残心をとる。
「くそっ、覚えてろよ……!」
仲間を引っ張り、よろめきながら退散した。
タケツが土煙を払い、テラサが扇子で顔を隠して睨んだ。
「この恨み、忘れないわよ……!」
庭に静けさが戻った。
トモエが息を吐き、短刀を鞘に収めた。
汗が首筋を伝い、忍装束がわずかに湿った。
その姿に、キラリは思わず見惚れた。
少女の視線は鋭く、しかし優しく、キラリの瞳に映った。
「大丈夫か? あいつら、根性悪いよな。――私はこづかトモエ。忍科だよ、ここで会ったのも何かの縁だ。仲良くしてやってくれ」
その言葉は闇を裂く光のようだった。
キラリの胸に、初めての希望が灯った。
孤立の棘がわずかに緩んだ。
トモエの瞳には好奇心と、かすかな共感が宿っていた。
「お前の素振り見てたよ。次は、一緒に稽古しようぜ。またあいつらが来ても俺が守ってやるからよ」
「……ありがとう、トモエ。俺はむねまちキラリだ。心強いよ」
だが、その瞬間、トモエの視線がキラリの頰に落ちた。
テラサの糸で切られた傷から、赤い雫が一筋、滴り落ちていた。
赤い雫が石畳にぽたりと落ちた。
トモエの顔色が瞬時に変わった。
姉御肌の強靭な瞳が揺らぎ、膝がガクンと折れた。
「ちぃ……」
声にならない声が喉から漏れた。
人の血を見た瞬間、彼女の体は力を失い、ばたんと倒れた。
地面に崩れ落ち、黒髪が石畳に広がった。
キラリは慌てて駆け寄った。
「トモエ!? 大丈夫か!?」
学校の鐘が遠くで鳴り響き、七つの国が学園の空に重なる。
鋼の試練は続く。
しかし、今、少年は一人ではなかった。
トモエの倒れた姿を抱き起こし、キラリは初めて、他者の弱さを守る覚悟を胸に刻んだ。




