第1話
雪は静かに、しかし容赦なく降り積もっていた。
江戸の街を覆う白いヴェールは、神々がこの惨劇を隠蔽しようとするかのように、血の赤を飲み込もうとしていた。
西暦千七百三年一月三十日――冬の夜明け前。
忠臣蔵の侍、吉良上野介の屋敷は、復讐の炎に包まれていた。
空気は凍てつくほどに冷え、息を吸うたびに肺が引き裂かれるような冷気が忍び寄った。
舞う雪片が松明の炎を揺らめかせ、地面に落ちた血しぶきを淡く覆い隠していた。
彼は庭の中央に膝をついていた。
胸を貫く刃の痛みは、すでに遠い記憶のようにぼやけていた。
代わりに全身を駆け巡るのは、激しい怒りと、拭いきれぬ悔恨の渦だった。
仇討ちの刃を振るった男――大石内蔵助の配下、堀部安兵衛の顔が、淡い白光に浮かび上がった。
安兵衛の目は獣のように輝き、唇は薄く引き結ばれていた。
「主君の仇、討ち果たす」
彼は低く呟いた。
その声は雪の降る音に掻き消されそうだったが、上野介の耳には雷鳴のように響いた。
「貴様ら……浅はかな……」
彼は血を吐きながら、言葉を絞り出した。
上野介は虚空を睨み、弱々しく手を伸ばして白い粒子を払った。
「茶の湯が……能の調べが、私の人生だったのに……」
彼は首を振り、唇を噛んで血を滲ませ、地面に視線を落とした。
「浅野の愚かさを諫めただけだ……それが、こんな果てか……」
息が浅くなり、視界が揺らぐ。
冷たい粒子が頰に触れ、冷たくも優しく溶けていく。
やがて、闇が訪れた。
しかし、それはただの死の闇ではなかった。
息絶える瞬間、彼の意識は果てしない宇宙へと引き上げられた。
体は白き大地に沈み、血潮が地面に広がる中、魂は銀河の彼方へ解き放たれた。
星屑のように散らばる血の粒子は、夜空を駆け上がり、無数の星々を映す鏡のようにきらめいた。
銀河の渦巻きがゆっくりと回転し、時間そのものが溶け合う。
数兆年――いや、それ以上の時が、瞬きのように過ぎ去った。
星々は生まれては消え、銀河は衝突し、再構築された。
孤独な旅路の中で、その魂はただ漂うだけだった。
怒りも、悔恨も、徐々に薄れ、代わりに生まれたのは果てしない静寂だった。
だが、その奥底に、かすかな炎が灯り続ける。
復讐の残り火か、それとも新たな運命の予兆か。
やがて、魂は一つの隕石に宿った。
かつての血潮が結晶化し、鉄と岩の殻に包まれたそれは、灼熱の尾を引きずりながら虚空を疾走した。
銀河の果てから、故郷の青い星球――地球――へと向かう。
だがそこは、もう彼の知る世界ではなかった。
一度、巨大隕石の衝撃で文明は崩壊し、灰燼と化した大地から新たな秩序が生まれていた。
七つの国が、鉄と血で塗り分けられた荒涼たる大地を分け合う時代。
荒野の国では獣のような戦士たちが砂嵐を駆け抜け、民の国では農民たちが畑を耕しつつ密かな反乱の火種を育てる。
雪の国は永遠の白に閉ざされ、騎士の国は城塞で槍を磨き、霧の国は幻影のような忍者の里で陰謀を紡ぐ。
神秘の国は古の魔術を囁き、星の秘密を握る者たちが潜む。
そして新日本国は、侍の誇りを継ぎ、刀の調べが響く土地だ。
七つの国は互いの領土を狙い、休むことなく争いを繰り広げていた。
だが、そんな混沌の渦中でも、星は無情に輝きを降り注ぐ。
今、隕石は運命の軌道を描き、新日本国の空を裂いていた。
夜空に赤く燃える尾が長く引きずられ、天罰の使いのように見えた。
村人たちは家屋に駆け込み、侍たちは刀を握りしめ、空を見上げた。
轟音が大地を震わせ、風が木々をなぎ倒す。
隕石の標的は侍の名家・むねまち家の長男、わずか八歳の少年、むねまちキラリだった。
むねまち家の屋敷は新日本国の山間に佇む古い武家屋敷。
石垣に囲まれ、苔むした庭園では桜の木が枝を広げていた。
少年はその庭の中央で、刀を手に素振りを繰り返していた。
まだ幼い体躯ながら、その動きは流れる水のように滑らかで、将来を嘱望される天才刀士の片鱗を見せていた。
父の教え通り、朝な夕なに刀を振るうのはむねまち家の掟。
少年は集中を切らさず仮想の敵を斬り倒した。
心の中で父の声が響く。
「刀は心なり。迷わず、恐れず」
ふと、空に異変が起きた。
轟音が響き渡り、庭の空が裂けた。
少年は手を止め、刀を握りしめたまま見上げた。
落ちてくる炎の塊――それはただの隕石ではなかった。
表面を覆う赤い輝きは、記憶を宿したかのように脈動し、周囲の空気を熱く焦がした。
風が渦を巻き、落ち葉が舞い上がり、その髪を乱す。
少年の瞳に映るのは巨大な火球。
心臓が激しく鼓動し、初めての恐怖が胸を締めつけた。
少年は空を見上げ、息を飲んで呟いた。
「あれは……なんだ?」
その瞬間、隕石の中心からかすかな囁きが聞こえた気がした。
古い怨嗟の声――吉良上野介の残魂が、永遠の旅を終え、再びこの世界に舞い戻る。
白に染まった過去が、今、新たな運命を呼び覚ました。
永遠の始まりは、ここにあった。




