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前世編 第七章 陽だまりの十年――冬の灯の中で(後半)

第七章 陽だまりの十年――冬の灯の中で(後半)

 娘の高校二年の秋。冷え込み始めた風が、九州の山々を鮮やかな朱に染め上げる頃、僕たちの家族にとって一生忘れることのできない日が訪れた。

 吹奏楽部の全国大会。巨大なコンサートホールの舞台袖から現れた娘は、照明を跳ね返す銀色のトランペットを抱え、まるで一輪の凛とした花のように立っていた。

 タクトが振り下ろされた瞬間、静寂を切り裂いて放たれた彼女の音は、かつての中学校の体育館で聴いたものとは比較にならないほど、太く、力強く、そしてどこまでも澄み渡っていた。

 その音が響き渡る中、僕は客席の椅子を握りしめ、声にならない声を上げていた。

 「金賞、受賞」

 表彰式で彼女の名前が呼ばれ、ステージの上で黄金のトロフィーを高く掲げる姿。拍手の渦がホールを飲み込んでいく中で、僕は隣に座る妻と顔を見合わせた。妻の頬には、とめどなく涙が伝っていた。僕も同じだった。

 瞼を閉じれば、あの小さな、まだ指先すら頼りなかった彼女が、初めてトランペットを手に取り、真っ赤な顔をして「プー」と情けない音を出したあの日が蘇る。あの拙い一音が、長い年月をかけて、これほどまでに人を感動させる旋律へと成長したのだ。

 帰り道の車内。夜の国道を走る中古車のライトが、窓に映る娘の誇らしげな横顔を照らしていた。

 「お父さん、今日の演奏……どうだったかな?」

 不安と期待が入り混じった彼女の問いに、僕はただ短く、けれどありったけの想いを込めて答えた。

 「最高だったよ。……本当に、最高だった」

 その言葉は、娘の演奏への賛辞であると同時に、これまで彼女を支え、共に歩んできた僕たち家族の十年に対する、最高の肯定でもあった。

 その年の冬、僕たちは久しぶりに家族三人で、雪深い温泉地へと出かけた。

 九州の山あいに降る雪は、音もなく世界を白く塗り潰していく。露天風呂に浸かると、熱い湯気と冷たい冬の空気が肌の上でぶつかり合い、白い息が空へと溶けていった。

 「あはは、お父さん。鼻の頭が真っ赤だよ!」

 湯に浸かりながら笑う娘の声。妻が「あなた、肩までちゃんと入らんと風邪引くよ」と笑いながら僕を嗜める。

 何気ない会話。何気ない笑い。かつて、職場で罵声を浴び、深夜に冷めたスープを啜っていた頃の僕が、どれほどこの時間を求めていただろうか。

 「幸せだね、お父さん」

 不意に娘が呟いたその一言が、湯気の中に溶け、僕の心に深く沈み込んでいった。僕は何も言わず、ただ温かな湯を掬い、目を閉じた。人生に「冬」があったからこそ、この「春」のような温もりが、これほどまでに尊いのだと感じていた。

 けれど、平穏は常に「決断」を伴ってやってくる。


 高校三年生になった春。食卓での会話は、必然的に進路の話へと変わっていった。

 「私……東京の音大に行きたい」

 夕食の席で、娘が真っ直ぐに僕の目を見て言った。その瞳には、かつて僕が国立大学を目指した時と同じ、退路を断った者の強い光が宿っていた。

 一瞬、僕の頭の中を冷酷な数字が駆け抜けた。東京での学費。独り暮らしの家賃。生活費。仕送り。住宅ローンの残債。

 隣で妻が僕の顔を伺うように見つめた。彼女も同じ計算を、あるいはもっと切実な台所の視点での不安を抱いているはずだった。

 「自分の音楽で、誰かを励ませる人になりたいの」

 娘のその言葉を聞いた瞬間、僕の中の「計算機」は機能を停止した。

 自分の人生を振り返る。いじめに耐え、泥に塗れて働き、自分を削って守ってきたものは何だったのか。それは、この子が「自分の力で羽ばたきたい」と願ったとき、その背中を力一杯押してやるための、この瞬間のためだったのではないか。

 「行け。やってみろ」

 僕の返答に、娘の顔がぱっと輝いた。

 「……本当? ありがとう、お父さん!」

 その笑顔。それこそが、僕がこの十年で手に入れた、何物にも代えがたい「答え」だった。

 そこからの受験の年は、家の中に独特の緊張感が漂っていた。

 夜遅くまで、娘の部屋からは教科書をめくる音や、マウスピースだけで音色を確認する静かな練習の音が聞こえてきた。リビングではストーブが「シュンシュン」と鳴り、外では九州の冷たい雪が降っている。

 僕は時折、廊下の影から彼女の背中を見守った。鉛筆が紙を削るリズム。それは、かつて僕が学ランのカラーに喉を締め付けられながら刻んだリズムと同じ、必死で「生」を掴み取ろうとする者のリズムだった。

 「この子の未来を、絶対に守り抜く」

 その想いだけが、僕の身体を支える燃料となっていた。

 試験当日の朝。駅まで車で送り届ける道すがら、車内は静まり返っていた。

 「緊張してるか?」

 「……ちょっとね」

 「いつも通りでいい。お前の音は、もう十分届いてる」

 「うん」

 信号が青に変わる瞬間、僕は助手席の彼女の手に、自分の大きな手を重ねた。

 かつて、赤ん坊だった彼女の小さく柔らかな手を握ったあの日。今、僕の手を握り返してくるその掌は、驚くほど力強く、大人びていた。

 「いってらっしゃい」

 「いってきます!」

 改札へ向かう彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はハンドルの上に額を預けた。もう、僕にできることは何もない。ただ、彼女が信じた道が、光に満ちていることを祈るだけだった。

 合格発表の日。家の中に静寂が降り積もっていた。

 不意に鳴った電話。妻が震える手で受話器を取る。

 「……うん。……うん! おめでとう!」

 妻の声が裏返り、彼女はその場に泣き崩れた。

 受話器を受け取った僕の耳に、「受かったよ、お父さん!」という娘の歓喜の声が届いた。

 僕は何も言えず、ただ「ああ、よかった……」とだけ絞り出した。

 涙が出た。それは悲しみでも苦しみでもない、十年間のすべての努力、すべての忍耐、すべての「影」が、一点の曇りもなく報われたことを告げる、清らかな涙だった。

 その夜、僕たちはささやかなケーキを囲んだ。

 「乾杯!」

 三つのグラスが触れ合う音が、幸せのリズムを刻む。テーブルの端には、妻が庭から摘んできた一輪の梅の花が飾られていた。

 「春が、来たね」

 「うん……本当に」

 その言葉は、まるで祈りのように、部屋の空気の中に溶けていった。


 翌朝、僕は一人で庭に出た。

 そこには、これまでになく見事に満開となった梅の木が立っていた。

 白い花びらが朝陽を浴びて透き通り、眩しいほどの光を放っている。

 僕はその枝の下に立ち、静かに目を閉じた。

 中学時代のいじめ、あの地獄のような営業課の日々、冷たい雨の日に通学路で見上げた一輪の花。

 そのすべてが、この瞬間に繋がっていたのだと思えた。

 娘の笑顔、妻の優しさ、そしてこの庭に咲き誇る梅の白さ。

 「……ありがとう」

 誰に宛てたものでもないその感謝の言葉が、僕の唇からこぼれ落ちた。風が吹き、白い花びらが僕の頬を優しく撫で、空へと舞い上がっていく。

 人生で、これほどまでに心が満たされたことはなかった。

 何もいらない。ただこの光景が、この「陽だまり」が、永遠に続けばいい。

 そう願いながら、僕は春の光を、全身で受け止めていた。

 その夜、妻が僕の隣に座り、穏やかな声で言った。

 「ねえ、あなた。これからは、少し自分の時間も持っていいんだよ」

 「……自分の時間?」

 「そう。旅行に行こうよ、二人で。頑張ったご褒美に」

 「そうだな。……そうしよう」

 窓の外では、春の夜風が梅の香りを運んできていた。

 長い、長い冬を越えた僕たちの家に、本物の「春」が、確かにそこにあった。


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