エアリス編 第七章 イーストレイク② 街の味
門を潜り、都市の圧倒的な威容に目を奪われていた僕だったけれど、ふとした瞬間に、五歳の幼い身体が正直な悲鳴を上げた。緊張が解けた反動か、お腹がぐうと鳴り、心地よい空腹感が押し寄せてきたのだ。ルゼリアを出発してから、慣れない馬車に揺られ、さらには初討伐という激動の時間を過ごしてきた。僕の胃袋は、とっくに空っぽになっていたらしい。
リリィ先生は僕の様子を見て、悪戯っぽく微笑んだ。
「とりあえず、食事にしましょう」とリリィ先生に言われ、飲食店へ
大通りを少し外れた場所に、石造りの壁に蔦が絡まり、温かな橙色の光を窓から漏らしている一軒の食堂があった。看板には美味しそうな肉料理の絵が描かれ、扉が開くたびに、食欲を激しく刺激するスパイスと脂の焦げる芳香が、冬の冷たい空気の中に溶け出してくる。
扉を開けると、そこは活気の塊のような空間だった。ルゼリアの静かな食卓とは違い、そこには商人、職人、そして杖を傍らに置いた魔術師たちが、賑やかに皿を鳴らして食事を楽しんでいた。天井からは魔導灯が吊り下げられ、柔らかな光が人々の笑顔を照らしている。
僕たちは空いている窓際の席に腰を下ろした。テーブルの木目は長年使い込まれた艶を湛え、不思議と心を落ち着かせてくれる。
街の食堂の料理はルゼリアの村の料理とかなり違っていた、
差し出された品書きの束を眺めて、僕は目を丸くした。ルゼリアでの食事は、母リオラが作る滋味深いスープや、家で焼いた素朴なパン、そして時折父が仕留めてくる山の幸が中心だった。けれど、この街の献立は、より贅沢で、洗練されているように見えた。
肉や湖の魚のメニューが多く、飲み物も、様々な果実のジュースが揃っていた。
イーストレイクは湖に近い立地もあり、新鮮な水産物が豊富らしい。壁に掛けられた黒板には、見たこともないような魚の名前や、部位ごとに細かく分けられた肉料理の名称が所狭しと並んでいる。
が、俺には食べたことの無い料理の想像はつかない、
五歳の僕の知識では、聞き慣れない料理名が何を指すのか、皆目見当がつかなかった。文字は読めるようになっても、その「味」までは記されていない。前世の記憶を掘り起こしてみても、この世界の調味料や食材がどのような化学反応を起こすのかまでは予測できないのだ。
リリィ先生にお願いして、適当に注文してもらった。
「任せて。ルーメン君のような育ち盛りの子にぴったりの、この街の名物を選んであげるから」
先生は慣れた手つきで店員に声をかけ、いくつかの料理を手際よく注文してくれた。彼女の横顔は、教室で見せる厳格な師の姿ではなく、歳の離れた弟を可愛がる姉のような、柔らかな慈愛に満ちていた。
待っている間、僕は窓の外を行き交う人々を眺めていた。魔都の昼下がり。忙しなく動く街の鼓動を、温かな店内で感じていると、自分が本当に遠いところまで来たのだという実感が改めて湧いてくる。
やがて、芳醇な香りと共に、大きなトレイが運ばれてきた。
出てきたのは、この街で飼われている肉のステーキとサラダ、パン、そして果実のジュースだった。
目の前に置かれた大皿には、熱い鉄板の上でじゅうじゅうと音を立て、溢れんばかりの肉汁を湛えた厚切りの肉が鎮座していた。その表面には絶妙な焼き色がつき、香ばしいソースの香りが鼻腔をくすぐる。添えられたサラダは驚くほど色鮮やかで、ルゼリアでは見たこともないような瑞々しい紫の葉野菜や、黄金色の豆が並んでいた。
リリィ先生も同じメニューで、飲み物は果実のお酒だった。
先生は、木製のジョッキに注がれた琥珀色の液体――エールにも似た、芳醇な果実酒を一口飲み、満足げに喉を鳴らした。
「さあ、召し上がれ。冷めないうちにね」
僕はナイフとフォークを手に取り、まずはその肉の塊を切り分けた。弾力のある手応えの後に、じゅわりと脂が溶け出す。一口運ぶと、口の中に野生味溢れる旨味と、フルーティーな酸味の効いたソースが広がった。
初めて食べたが、なかに美味い。
ルゼリアの家庭料理が「優しさ」なら、この街の料理は「力強さ」だ。五歳の未発達な味覚が、未知なる刺激に歓喜し、脳内に直接幸福感が送り込まれてくる。僕は我を忘れて、次々と肉を口に運び、添えられたふわふわのパンでソースを拭って平らげた。
興奮しながら、すぐに食べてしまった。
そして、最後に残ったグラスのジュース。
それは深く澄んだ橙色をしており、表面には細かな果肉の粒が浮いている。僕は一息つくように、その冷たい液体を口に含んだ。
「……っ!」
その瞬間、僕の全身に、衝撃が走った。
爽やかな酸味、後から追いかけてくる強い甘み、そして鼻に抜ける爽快な柑橘の香り。それは、このルシアークの世界で初めて出会う、けれど僕の魂が、前世からずっと知っていた、あの懐かしい感覚だった。
果実のジュース、オレンジジュースに似た味で懐かしさを感じた。
前世で、疲れた身体に流し込んだあの市販の飲料。あるいは、朝食のテーブルに並んでいた、ありふれたけれど特別な黄金の雫。
名前も姿も失ったはずの、かつての生活の断片が、この一杯のジュースを通じて鮮やかに蘇る。自分がかつて、別の世界で、別の名前を持って生きていたのだという、重く、切ない事実。
五歳の少年の身体に宿る大人の理性が、その懐かしさに微かに震えた。
「どうしたの、ルーメン君? 口に合わなかった?」
リリィ先生が心配そうに覗き込んでくる。
「……いえ。とっても、美味しいです。……なんだか、ずっと前から知っていたような、そんな不思議な味がして」
僕はグラスを傾け、最後の一滴までその郷愁の味を飲み干した。
お腹が満たされると、初討伐の時の手の震えも、街の喧騒への戸惑いも、少しずつ整理されていくのを感じた。生命を奪う痛みも、この街の活気も、そしてこのオレンジに似た果実の味も。そのすべてが、今の僕の人格を形作るための、大切な血肉になっていく。
「さて、お腹もいっぱいになったことだし、移動しましょうか」
先生が席を立ち、支払いを済ませる。
僕は温かくなったお腹をさすりながら、再び活気溢れるイーストレイクの通りへと足を踏み出した。次に向かうのは、この街の中枢。リリィ先生がその叡智を振るう、あの巨大な城の中にある研究室だ。
最後まで読んで頂きありがとうございます
少しでもお気に召しましたら、ブックマークと☆の評価をお願いします。




