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リリィ編 第五十三章 リリィ先生と魔物討伐訓練① リリィの提案

第五十三章 リリィ先生と魔物討伐訓練


聖位の魔術をひと通り“出せる”ようになってから、数日が過ぎた。

草原で風を渦にし、雨を嵐に変え、炎を川沿いに走らせ、大地を隆起させて戻す。

あの一つ一つが、今も身体の奥に残っている。手のひらに乗る魔力の熱、喉の奥に引っかかる詠唱の余韻、視界の端が震えるような規模の感覚。

できるようになった、という実感がある。けれど同時に、どこか落ち着かない。

自分の中で何かが「まだ足りない」と言っているのが分かった。

学校の廊下を歩くリリィ先生の背中を見ていると、その落ち着かなさはさらに強くなる。先生は相変わらず忙しい。授業の合間に研究室へ向かい、書類を抱え、誰かに声をかけられれば足を止め、またすぐに歩き出していく。その背中は、ただの“すごい魔術師”の背中ではなく、当たり前のように世界の中で役割を背負っている人の背中だった。


その日も、先生は研究室の資料らしい束を抱えて廊下を曲がろうとしていた。追いかけて声をかけるべきか、一瞬迷う。自分の悩みは些細なことに思える。

聖位を覚えたばかりで、まだ十分すぎるほど前に進んでいるはずなのに、さらに「足りない」と言うのは贅沢だと思われないだろうか。

だが、迷っている間に先生の背中が遠ざかるのが怖かった。今、ここで言わなければ、また自分は“できるようになった気分”だけで止まってしまう。そういう予感がした。


「リリィ先生」呼び止めた声は、自分でも驚くほど固かった。先生は足を止め、振り返る。忙しさの中でも、視線はまっすぐで、焦りの色がない。俺はその目を見ただけで、背筋が伸びた。


リリィ先生は、少しだけ表情を和らげるように笑ってから、こちらの顔色を確かめるみたいに首を傾けた。俺が話し出す前に、先生のほうが先に言った。まるで、俺の胸の奥の引っかかりを見抜いたみたいに。


「ルーメン君、聖位の魔術ができるようになっても、ただ、魔術を発動するのと、対象に向かって的確に魔術を発動することは違いますよ、ルーメン君にはそれが必要です」

その言葉は、柔らかいのに鋭かった。胸の奥に、すとんと落ちる。俺が感じていた“足りない”は、まさにそれだったのだと思う。発動はできる。規模も調整できるようになった。

けれど、それは広い草原で、危険のない場所で、先生の隣で、先生の指示があってこそだった。もし相手が動いていたら。

もし相手が牙を剥いて迫ってきたら。もし時間がなく、息が乱れ、視界が狭くなっていたら。

そういう状況でも俺は同じように“正しく”魔術を当てられるのか。

聖位を習得したという言葉の裏側に、まだ試されていない現実がある。


俺は唇を噛んでから、正直に尋ねた。怖いからこそ、聞かないといけないと思った。

「はい、リリィ先生どういうことでしょうか?」

先生は一度だけ、手元の資料を抱え直した。その仕草には、迷いがない。けれど、こちらを見ている目は真剣で、俺の反応を待っている。


「ルーメン君、あなたには、実践の訓練が必要なのです、つまり魔物討伐ですね」

“魔物討伐”。言葉を聞いた瞬間、胸が締まった。

頭の中に、森の匂いが浮かぶ。湿った土、腐葉土、見えないところで動く何かの気配。

魔物という存在は、これまでにも何度か聞いてきた。ゴブリンやオークの危険性、毒の怖さ、群れの厄介さ。知識としてはある。

だが、先生の口から「つまり魔物討伐」と言われると、それは急に現実の重みを持った。訓練ではなく“戦い”だ。こちらが間違えれば、相手は容赦なく命を奪いに来る。


怖い、と素直に思った。けれど同時に、逃げたくない、とも思った。俺はリリィ先生のようになりたい。

そう願った以上、魔術を“安全な場所で見せるだけ”で終わるわけにはいかない。発動できるだけでは足りない。守るために当てる。生きるために当てる。仲間を守るために当てる。

先生が言った「必要」という言葉は、俺の背中を押すというより、俺の甘さを静かに剥がしていく感じがした。


先生は続けて何か言おうとしたが、そこで一瞬、俺の顔を見て言葉を選んだように見えた。

俺の中にある恐怖と決意が、同時に揺れているのが見えたのかもしれない。俺は、震えそうな息を飲み込みながら、頷いた。頷いた瞬間、自分の中で“次”が確定する音がした気がした。

聖位になった数日後の静けさは終わる。これからは、魔術をただ美しく広げるのではなく、相手に向かって正確に叩き込む訓練が始まる。そう理解しただけで、指先が少し冷たくなった。


次の言葉を待つ間、先生の背中越しに窓の外が見えた。いつもの学校の景色なのに、急に遠く感じる。

自分が、もう一つ別の場所、森の入口に立たされているような錯覚。怖い。けれど、進みたい。俺はその矛盾を抱えたまま、リリィ先生の目を見返した。




リリィ先生は、俺が頷いたのを確認すると、少しだけ視線を落とし、思案するように口元に指を当てた。その仕草は、研究の方針を決めるときと同じだと、なぜか分かった。

感情で押し切るのではなく、結果と安全と、その先にある影響まで含めて考える人の仕草だ。だからこそ、次に続く言葉が軽いはずがないと、俺は無意識に背筋を伸ばしていた。


「魔術はね、ルーメン君。どれほど威力があっても、どれほど高度でも、当たらなければ意味がありません。逆に、当たってはいけないところに当たれば、取り返しのつかないことになる。実戦では、その判断を一瞬で迫られるのです」


言葉の一つ一つが、胸の奥で重なっていく。俺はこれまで、先生の隣で、先生が安全を確保した場所で、指示を受けながら魔術を使ってきた。そこでは失敗も“学び”に変えられた。けれど、実戦では失敗はそのまま“結果”になる。先生が言っているのは、そういう世界だ。


「だから、次の段階として必要なのは……魔物討伐です。訓練として、ですが」

“訓練として”。その言葉が付いても、胸の締めつけは和らがなかった。むしろ、余計に現実味が増した気がする。訓練だから安全、という意味ではない。訓練であっても、相手は本物の魔物だ。こちらの事情など関係なく、牙も爪も毒も、すべて本気で振るってくる。


「はい……」

返事はしたものの、喉が少し渇いた。

「リリィ先生、つまり……実際に、森に入って、魔物と戦う、ということですよね」


先生は頷いた。

「ええ。もちろん、無謀なことはしません。私も同行しますし、相手は段階的に選びます。ただ……」

そこで一度、俺の目をまっすぐ見据える。

「あなたが、発動だけでなく、判断して、狙って、当てて、次の手を選ぶ。その一連を“自分で”やる必要があります」


“自分で”。その言葉が、強く残った。先生が隣で指示を出すのではなく、俺自身が選ぶ。どの魔術を、どの距離で、どの魔物に、どの順番で使うのか。失敗したときの次の一手。仲間の位置。退く判断。考えることは、急に何倍にも増えた。


怖い。正直に言えば、怖い。聖位を覚えたばかりで、俺は少し浮かれていたのかもしれない。できることが増えた、という実感に。けれど、先生の言葉は、その浮ついた部分をきれいに削ぎ落としていく。魔術師として前に進むなら、避けて通れない場所があるのだと、はっきり示された。


「……分かりました。必要なら、やります」

即答だったが、勢いだけではない。胸の奥で、逃げたい気持ちと、進みたい気持ちがせめぎ合っているのを自覚したうえで、それでも“進む”を選んだ。先生は、その様子を黙って見ていた。評価するでもなく、安心するでもなく、ただ受け止めるように。


「良い返事です。ただし、これはあなた一人の話ではありません。命が関わります。だから、次にするべきことがあります」

次にするべきこと。その言葉に、俺は少し身構えた。先生は視線を廊下の先に向けながら続ける。

「ご両親に、きちんと話しましょう。特に、お父様には」

その瞬間、父さんの顔が浮かんだ。剣を握る大きな手、厳しい目、そして家族を守るときの迷いのなさ。魔物討伐と聞いて、父さんがどう言うかは、想像がつく。たぶん、簡単には頷かない。けれど、だからこそ必要なのだ。家族として、剣士として、俺の父として。


「分かりました」俺は深く頷いた。

胸の締めつけは、まだ消えない。けれど、その奥に、確かな覚悟が生まれつつあるのを感じていた。聖位の先にあるのは、ただ強い魔術ではない。生きて帰るための判断と責任。その重さを、今、初めてはっきりと知った気がした。



その日の夕方、家に帰るまでの道のりは、いつもより少しだけ長く感じた。頭の中では、リリィ先生の言葉が何度も反芻されている。

魔物討伐、実践、判断、自分で選ぶ。どれも正しいと分かっているのに、胸の奥に小さな不安の塊が居座っていた。

それは恐怖というより、「家族にどう伝えるか」という緊張に近かった。


家の扉を開けると、いつもの匂いが迎えてくれる。母さんの夕食の準備の音、エレナの小さな足音、そして居間の奥から聞こえる父さんの低い声。その日常が、なぜかとても大切なものに思えた。俺は靴を脱ぎ、深呼吸を一つしてから居間へ向かった。


「父さん、母さん」声をかけると、二人が同時にこちらを向く。母さんはすぐに表情を和らげたが、父さんは俺の顔を見た瞬間、何かを察したように背筋を正した。その視線は、剣を持つときと同じ鋭さを帯びている。


「どうした、ルーメン」

父さんが先に口を開いた。

「その顔は、遊びの話じゃないな」


俺は頷き、リリィ先生との会話を、できるだけ正確に、順を追って説明した。

聖位になったこと、その次の段階として実践が必要だと言われたこと。

そして、魔物討伐の訓練に行くことになったという話。言葉にするたび、母さんの手が少しずつ強張っていくのが分かった。


「魔物討伐……」

母さんが小さく繰り返す。

「それは……危なくないの?」


「危なくない、とは言えないと思う」

俺は正直に答えた。

「でも、リリィ先生が一緒に行ってくれるし、無茶はしないって」


その瞬間だった。父さんが、迷いのない声で言った。

「なら、俺も行く」

あまりに即断で、俺は一瞬、聞き間違えたかと思った。

「え……?」

父さんは腕を組み、こちらを見下ろすようにしながら続ける。

「魔術師だけで魔物討伐は危険だ。いくらリリィ先生が優秀でも、前衛がいないのは心許ない。俺が剣士として着いていく。その方が安全だ」


母さんが驚いたように父さんを見る。

「あなた……」

「ルーメンの親だからな」

父さんはそれだけ言った。その一言に、すべてが詰まっていた。剣士としての判断、父としての責任、そして家族を守るという覚悟。そのどれもが、当たり前のように混ざり合っている。


胸の奥が、じんと熱くなった。俺は、自分一人で挑むつもりでいたのかもしれない。先生がいれば大丈夫だ、と。

けれど、父さんは違った。俺がどれだけ魔術を覚えようと、どれだけ強くなろうと、父さんにとって俺は守るべき息子なのだ。


「父さん……ありがとう」

そう言うと、父さんはふん、と短く鼻を鳴らした。

「礼を言うのは、無事に帰ってきてからにしろ」


母さんは、二人のやり取りを見て、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……分かりました」

そう言って、俺の方を見た。

「でも、約束して。無茶はしないこと。危ないと思ったら、すぐに引くこと」

「うん、約束する」

その言葉は、軽くはなかった。家族の前で口にした以上、守らなければならない重みがある。


その夜、夕食の味はいつもと同じはずなのに、少しだけ違って感じた。温かくて、重くて、胸に残る味だった。三日後、魔物討伐の訓練に出る。その事実が、家族全員の間に静かに共有されていく。


父さんは剣の手入れを始め、母さんは必要なものを考え、エレナは事情を完全には分かっていないながらも、いつもより静かに俺の隣に座っていた。その光景を見ながら、俺は改めて思う。


これはただの訓練じゃない。家族を背負って、外の世界に踏み出す一歩なのだと。


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