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リリィ編 第五十二章 リリィ師匠と魔術の特訓① リリィへの頼み込み

第五十二章 リリィ師匠と魔術の特訓


リリィ先生は、いつも忙しそうだった。

朝は学校の講義へ向かい、昼休みには書類を抱えたまま研究室へ戻り、放課後になると再び校舎と研究棟を行き来している。その背中を、俺は何度も見送ってきた。


ロープの裾が揺れるたび、歩調は速く、立ち止まることはほとんどない。声をかけようとしても、その一瞬の隙すら見つからず、結局は遠ざかっていく後ろ姿を目で追うだけになる。

(……やっぱり、今は無理かな)

そう思っては、胸の奥に溜まった言葉を飲み込む日が続いていた。


それでも、リリィ先生の魔術を間近で見た日の衝撃が、頭から離れなかった。正確で、無駄がなく、それでいて圧倒的な威力を持つ魔術。魔力の流れを「理解している」人の使い方だった。

あんなふうになりたい。

あんな魔術師になりたい。

その思いだけが、日を追うごとに強くなっていく。


俺自身の魔術は、決して遅れているわけではない。年齢を考えれば、むしろ早熟だと評価される立場だ。それは分かっている。それでも、最近ははっきりとした停滞を感じていた。魔力は安定している。威力も制御も悪くない。だが、そこから先に進めていない感覚があった。

(……このままじゃ、だめだ)

漠然とした不安が、胸の内で形を持ち始めていた。


校舎の廊下で、研究棟の前で、すれ違うたびに思う。

今、声をかけるべきなのか。

それとも、迷惑になるだけなのか。

「先生は忙しい」という事実が、何度も俺の足を止めた。


それでも、諦めることはできなかった。リリィ先生は、俺にとって「師匠」である以前に、「目標」そのものだったからだ。

学院へ進学すれば、いずれは別の師につくことになる。だが、それまでの時間を、ただ待つだけで終わらせたくはなかった。イーストレイクの学院に行くまで、伸ばせるだけ伸ばしたい。そのために、今できることをしたい。


ある日の午後、研究室へ向かう廊下で、リリィ先生の背中が少しだけゆっくりに見えた。ほんの一瞬、呼び止められるかもしれない、そう感じた。

心臓が、強く脈打つ。喉が、ひりつく。

(……今しかない)

それでも、口はすぐには動かなかった。

忙しさの背中を前にして、俺は一度、深く息を吸い込んだ。

この一歩が、これから先を大きく変えるかもしれない。

そんな予感だけが、確かにそこにあった。



「……リリィ先生」

自分でも驚くほど、声は小さかった。

けれど、その声は確かに届いたらしく、前を歩いていたリリィ先生の足が止まる。白衣の裾が静かに揺れ、彼女は振り返った。


「どうしましたか、ルーメン君?」

その声音は、いつも通り穏やかだった。忙しさに追われているはずなのに、表情には苛立ちも焦りもない。むしろ、少しだけ首を傾げて、こちらを気遣うような仕草を見せていた。

その瞬間、胸の奥に溜め込んでいた緊張が、一気に溢れ出しそうになる。

「お忙しいところ……すみません」

言葉を選びながら、慎重に続ける。

逃げ道を残すような言い方になってしまったことを、自分でも自覚していた。


「最近……少し、悩みがあって……お話を、聞いてもらえませんか?」

その間に、最悪の想像が頭をよぎる。

今は無理だ、と断られるかもしれない。

後にしてほしい、と言われるかもしれない。

けれど、リリィ先生は微かに目を見開いたあと、すぐに柔らかく微笑んだ。


「悩み?」

そう言って、視線を俺の高さまで落とす。

「どうしたの? 何か、また問題が起こったの?」

“また”という言葉に、思わず苦笑しそうになる。確かに、俺の周りでは色々なことが起こりすぎている。それでも、今回ばかりは事件でもトラブルでもない。もっと、地味で、切実な悩みだった。


「問題、というほどじゃないんですけど……」

そう前置きしてから、言葉を紡ぐ。

「リリィ先生に魔術を教えてもらってから、随分経ちましたよね。あれ以来……最近、魔術があまり上達していない気がしていて」

口にした瞬間、自分の中の不安がはっきりと輪郭を持った。

「もっと上達したいと思っているんです。でも……なかなか、難しくて」

自分でも分かるほど、声に焦りが混じっていた。努力していないわけではない。むしろ、毎日のように魔術の練習は続けている。それでも、以前のような「伸びている感覚」がない。その事実が、じわじわと心を蝕んでいた。


リリィ先生は、俺の言葉を遮らず、最後まで聞いてくれた。そして、少し考えるように視線を上に向けてから、穏やかな口調で答える。

「ルーメン君はね、年齢的に見れば、かなり上の方ですよ」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。

「今は心配しなくても大丈夫。これからイーストレイクの学院でも、たくさん学べるでしょうし」


慰めにも、事実の指摘にも聞こえる言葉だった。

正論だ。間違ってはいない。

それでも、胸の奥に残る違和感は、消えなかった。

(……それでも、足りない)

そう感じてしまう自分が、確かにいた。

このまま引き下がってしまえば、きっと後悔する。

その思いが、次の言葉を押し出した。


深く息を吸い、俺は一歩踏み出す。

ここから先は、逃げない。



一歩、踏み出した足が、ほんのわずかに震えた。

それでも、引くわけにはいかなかった。

「……でも」

自分の声が、少しだけ強くなるのを感じる。


「僕は、学院で学べればそれでいい、とは思っていないんです」

リリィ先生は何も言わず、静かに続きを促すようにこちらを見ている。その視線が、逃げ道を与えない代わりに、否定もしないことが分かっていたからこそ、言葉は自然と続いた。

「僕は……」

胸の奥にあった思いが、ようやく言葉になる。


「僕は、リリィ先生のようになりたいんです」

口にした瞬間、胸が熱くなる。

ずっと抱いてきた憧れだった。魔術の腕前だけじゃない。研究に向き合う姿勢、弟子に接する態度、危険な魔術を扱うときの冷静さと責任感。そのすべてが、俺にとって“魔術師”という存在の理想だった。


「リリィ先生から、もっと魔術を学びたいんです」

言葉を重ねるごとに、覚悟が固まっていく。

「一番の憧れの魔術師が、リリィ先生なんです。どうしても……リリィ先生から、直接学びたい」

自分でも驚くほど、真っ直ぐな声だった。飾りも、遠慮もない。

それだけに、断られたときのことを想像すると、喉の奥がきゅっと締まる。

その間、風が木々を揺らす音が、やけに大きく聞こえた。


リリィ先生は、しばらく俺の顔を見つめていた。試すようでも、困っているようでもない。ただ、何かを確かめるような眼差しだった。

「……そう」

小さく、けれど確かな声。

「私のようになりたい、のね」

その言葉には、驚きよりも、どこか懐かしむような響きがあった。リリィ先生自身も、かつて誰かに憧れ、同じように願ったことがあるのかもしれない。そんな想像が、ふと頭をよぎる。


「それは……簡単な道じゃないわよ」

静かな忠告。

「魔術師として生きるということは、便利で、誇らしくて、同時に、とても重たい責任を背負うことでもある」

その言葉を、俺は正面から受け止める。


「それでも、です」

間髪入れずに答えた。

「それでも、僕はなりたいんです。リリィ先生みたいな魔術師に」


一瞬、リリィ先生の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

「……困ったわね」

そう言いながらも、その声には拒絶の色はなかった。

むしろ、楽しそうですらある。

「そこまで言われたら、簡単には断れないじゃない」

胸の奥で、何かが静かに跳ねる。

希望の芽が、確かに芽吹いた感覚だった。


リリィ先生は、軽く腕を組み、少し考える素振りを見せる。

「そうね……」

そして、ゆっくりと口を開いた。

「じゃあ、一つだけ条件を出してもいいかしら?」

その瞬間、俺の中で覚悟が、はっきりと形を持った。



「条件、ですか?」

思わず聞き返した声には、緊張が混じっていた。

断られない可能性が見えたからこそ、次に突きつけられる言葉が怖かった。

リリィ先生は、少しだけ首を傾ける。

「ええ。無理なことを言うつもりはないわ。でも、私が時間を割いて本気で教えるなら……それなりの覚悟は、示してほしいわ」


その声音は穏やかだが、冗談ではないことが伝わってくる。

研究者として、師としての真剣さだ。

「将来の話になるけれど……」

「学院を卒業したあと、私の研究室に来てくれると、確約してくれるなら。私は、ルーメン君を本気で教える」


その瞬間、頭の中で、いくつもの考えが一気に浮かんだ。

学院卒業後。将来。進路。

普通なら、迷う条件だ。まだ先の話で、何が起こるか分からない。環境も、人も、気持ちだって変わるかもしれない。

けれど、俺の中に、迷いはなかった。

(リリィ先生と、魔術の研究ができる)

その一点だけで、胸が高鳴る。

憧れの魔術師と、同じ場所で、同じ課題に向き合い、魔術の深奥を探る。そんな未来が目の前に差し出されている。

学院を出たあとのことを、今から不安に思う必要はない。むしろ、道が示されたこと自体が、ありがたかった。


「……はい、その条件、受けます」

自分でも驚くほど、迷いのない声だった。

「学院を卒業したら、リリィ先生の研究室に行きます」

言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。決めた。選んだ。それだけで、不思議と安心感があった。


リリィ先生は、目を見開き、次の瞬間、ふっと笑った。

「即決ですね」

その笑みには、呆れと感心が入り混じっている。

「普通は、少し考えるものですけど……」

そう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。


「いいわ。約束ですよ」

軽く人差し指を立てる仕草は、冗談めいていながらも、どこか厳粛だった。

「私も、手を抜かない。中途半端な指導はしないわ」

その言葉に、背筋が伸びる。

「よろしくお願いします、リリィ先生」

自然と、頭が下がった。


「……ふふ」

リリィ先生は、柔らかく微笑む。

「今日からは、先生じゃなくて――師匠、ですかね」

その一言で、胸の奥に、熱いものが込み上げた。

こうして、俺とリリィ師匠との本格的な魔術特訓が、始まることになった。


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