ソアラ編 第五十章 謝罪とエアリス① 新しい朝
第五十章 謝罪とエアリス
目を開けた瞬間、ルーメンははっきりとした“違い”を感じ取っていた。
……静かだ。
いつもなら、もう少し早い時間に聞こえてくるはずの足音がない。
母の声も、階下から響く食器の触れ合う音も、まだ遠い。
天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。
胸の奥に残っていた、あの張りつくような違和感がない。
(……来た)
そう思った瞬間、心臓が一度だけ強く脈を打った。
布団を押しのけ、身を起こす。頭痛はない。魔力の巡りも、澱みなく、自然だ。
階段を下りると、台所にはいつもの匂いが漂っている。
けれど、食卓を見た瞬間、確信は“確信”へと変わった。
ピゲトンのソーセージが、ない。
三本並ぶはずのそれは影も形もなく、代わりに、質素だがいつも通りの朝食がそこにあった。
思わず、喉が鳴る。
(数えなくていい)
そう思えること自体が、これまでとは違う。
背後で椅子が引かれる音がした。
振り返ると、セリナがいつも通りの様子で朝の支度をしている。
そして。「ルーメン、私の髪どめ見てない?」
その言葉が、来ない。
セリナは髪を整えながら、何事もないように立ち去っていった。
ルーメンは、しばらくその背中を見つめていた。
(……本物だ)
疑いようがなかった。繰り返しの“型”から、完全に外れている。
魔力で作られた違和感も、時間に縛られる感覚も、精神を押さえつけていた、あの重さもない。
椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。
(……抜けたんだ)
長く、静かな安堵が胸に広がる。
同時に、別の感情が浮かび上がってきた。
……ソアラ。
あの子は、どうしているだろうか。
昨日までの出来事が、現実として続いているなら。
「……会いに行くか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
逃げる必要は、もうない。責めるためでもない。
(ちゃんと、終わらせないと)
家を出たルーメンは、一直線にエアリスの家へ向かった。
足取りは軽いが、胸の奥には小さな緊張が残っている。
……エアリスに、どう説明するか。
そう考えているうちに、目的の家が見えてきた。
扉を叩く前に、深く一度息を吸う。
「エアリス、起きてる?」
返事はすぐに返ってきた。
「……ルーメン?」
扉が開いた瞬間、エアリスの表情を見て、ルーメンはわずかに目を見開いた。
怒っている。それも、はっきりと。
眉は吊り上がり、瞳には強い感情が宿っている。
「どうしたの?」と聞く前に、エアリスのほうが一歩前に出てきた。
「何であんなことされた子のとこに行かなきゃ行けないの!」
声は低く、しかし抑えきれていない。
「昨日も、ちゃんとルーメンとソアラのこと見に行ったんだよ。大変だったみたいだけど、ルーメンが何とか勝ったから良かったけど……」
そこで、エアリスは一度言葉を切る。
拳が、きゅっと握られている。
「もう少しで、ウインドカッター出すとこだったよ!」
その言葉に、ルーメンは息を呑んだ。
(……記憶が、ある)
エアリスは、ただ巻き込まれただけではない。
昨日、いや、ループの中の時間を、確かに覚えている。
「エアリス……」
名前を呼ぶと、エアリスは視線を逸らした。
「本当、ありえないよ。ルーメンが、あんなふうになるなんて……」
怒りの奥にあるのは、恐怖だ。
失いかけたことへの、強い動揺。
ルーメンは、その感情をはっきりと感じ取った。
(……二日間)
エアリスも、知らないうちにタイムループの当事者になっていたのだろう。
それはきっと、ソアラの影響。
精神と魔力が歪んだ結果、近くにいた者まで巻き込んだ。
「……川辺に行こうと思って」
そう切り出すと、エアリスの表情が、さらに険しくなる。
「だから、なんで!」
声が震えた。
「ルーメン、あの子は……!」
言葉の続きを、エアリスは飲み込む。
言ってしまえば、取り返しがつかないと分かっているからだ。
ルーメンは、ゆっくりと首を振った。
「今日は、戦いに行くんじゃない」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「……話しに行くだけだよ」
エアリスは、じっとルーメンを見つめる。
怒りと、不安と、信じたい気持ちが、複雑に交錯している。
「……ルーメンは、それでいいの?」
問いは、強くもあり、弱くもあった。
「うん、ちゃんと、終わらせたいんだ」
その言葉に、エアリスは小さく唇を噛みしめた。
エアリスは腕を組んだまま、しばらく黙り込んでいた。
怒りが収まらないというより、どう扱えばいいか分からない感情を、必死に押さえ込んでいるようだった。
ルーメンは、その沈黙を破るように、静かに口を開く。
「……あれはね、エアリスも分かると思うけど」
言葉を選びながら、視線を逸らさずに続ける。
「魔力暴走状態だったんだよ」
エアリスの肩が、ぴくりと揺れた。
「ソアラ自身が、悪いわけじゃない」
その一言を告げるとき、ルーメンの胸には、あの“繰り返された日々”の感触が蘇っていた。
「今日はさ」
声の調子を、少しだけ柔らかくする。
「責めに行くわけじゃない。ただ、話しに行くだけだよ」
エアリスは、まだ納得していない。
その目が、そう語っている。
だから、ルーメンは続けた。
「こんな悲しい別れ方をするとさ、お互いに嫌な思い出になっちゃうでしょ」
川辺で過ごした時間。魔術を教え、笑い合った日々。
それらが、すべて“恐怖と怒りの記憶”に塗り潰されてしまう未来を、ルーメンはどうしても受け入れられなかった。
「だから……良い思い出に、書き換えに行くんだよ」
エアリスは、その言葉を反芻するように、目を伏せた。
「……嫌な思い出を、良い思い出に書き換えることなんて、できるの?」
疑いと、不安と、それでもどこかで期待してしまう気持ちが混じった声だった。
ルーメンは、小さく笑った。
「行けば、分かるよ」
その笑みは、楽観でも軽薄でもない。
数え切れない“同じ日”を越えてきた者の、確信だった。
エアリスは、長く息を吐く。
「……ほんと、ルーメンはずるいよ」
そう言いながらも、彼女はゆっくりと、腕を解いた。
「そこまで言うなら……」
視線を上げ、真っ直ぐにルーメンを見る。
「一緒に行く。でも、何かあったら、今度こそ止めないからね」
その言葉の奥には、怒りではなく、“守る覚悟”があった。
ルーメンは、深く頷く。
「ありがとう、エアリス」
こうして二人は並び、再び、あの川辺へと向かうことになる。




